お金の話

どんな人間も、一定の年齢になれば進路や職業、そしてお金のことについて迷うことでしょう。

私たちの思考は、環境によって決定づけられています。そしてその環境からの影響に気づくことがないのが普通です。大体、人は「親族」「学校の先生」「友人」からの影響を受けて自らの思考の形成をしています。思考は現実化しますから、まさにその人の環境がその人の現実を作っていることは間違いないわけです。

人には、「癖」があります。

捉え方の癖。口癖。考え方の癖。こういうものは、ほとんど全て、周りの影響の産物。「カエルの子はカエル」なんて言ったりしますが、ほとんどの人は親のトレース結果です。あるいは、学校教育や友人の影響を受けた産物です。

 

そして、世の多くの人はお金について困っています。人生について悩んでいます。職業や生き方について疑問を持っています。でも、「これが普通だ」とか「みんなも同じ」とか「我慢だ」とか、自分に言い聞かせて生きているわけですね。

当たり前ですが、世の中を見渡したとき、そのほとんどの人が、

  • お金に困っている
  • お金に余裕がない
  • 人生について迷っている
  • 職業について迷っている
  • 生き方について悩んでいる
  • 自分が何をしたいのかわかっていない

という状態にある以上は、その影響を受けていたら、自分も同じような人間になってしまいます。

 

環境に適応するだけなら、それは動物と大して変わりありません。「置かれた場所で咲きなさい」的な教えに盲目的に従っている人もいます。しかし、置かれた環境に順応するだけであれば、それは人間らしい行動とは言えません。人間の可能性を活かした行動とは言えません。人間には、自ら置かれた環境を変える力があるのです。自分の目的に照らし合わせて、その環境が悪いと思えばそこを脱したり、働きかけて変える力があるわけです。

逆に言えば、それができなければ一生、

  1. 学校教育
  2. 友人

の影響下の人生、トレースモデルの再生産・コピーが続きます。

問題はそれを生み出した意識と同一である限りは解決できないのです。

 

  • 引っ越しできない
  • 移住しない
  • 付き合う人を変えられない
  • 時間配分を変えられない
  • 影響を受ける人を変えられない
  • 情報チャネルを変えられない
  • 思考パターン、行動パターンを変えられない

という人の人生が変わることは、まずありえないでしょう。私自身、そう考えてきて、積極的に自分の環境を変えようと努力して生きてきた歴史があります。

情報化社会、ビジネス書疲れなどの昨今の世相を反映してか、「情報は遮断しろ」だとか「自己啓発本の教えを実現しても無駄」だとか「成功者に影響を受けても無意味」と言ったようなことが言われるようになりました。余計な情報など取らずに、目の前の生活のありがたみを感じよう、みたいな言説も増えてきました。特に、そういった言説を披露するのは、「旧来的な生き方モデル」の体現者や、そこで教える側にまわっている人たちでしょう。確かに、彼らの言うことを聞いていれば、「今の所」は、それなりに無難にやっていけるのです。まぁ、それはリスクを取らない生き方、チャレンジしない生き方でもありますね。

とはいえ、多くの「普通の人」が、そういう生き方に行き詰まりを感じているのも現実です。今の世の中では、多くの人が立身出世のロールモデルを喪失していること、「昭和モデル」が通用しないこと、将来への不安が募っていること、を当たり前の共通認識として持つようになっています。

2017年5月、経済産業省の若手官僚が作成した、「不安な個人、立ちすくむ国家」という資料が、異例の100万DLを突破しました。

http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

こんな資料が官僚組織から出てくるということは、やはり、どんな業界・フィールドにおいても、「若手」と「年寄り」の生き方モデルに対する認識が決定的に違っており、過渡期特有の混乱が見て取れるということじゃないでしょうか。

もはや現代は、誰もが「経営者」「起業家」ぐらいの感覚を持たないとやっていけない時代であり、リスクからは逃げられません。

 

基本的に、キャリアにおいてもビジネスにおいても、「ノーリスク」なら「ノーリターン」なのは間違いありません。そして、親、友人、学校の先生などは「ノーリスク」を推奨してきますが、確かに昔は、その「ノーリスク」を徹底することでそこそこの人生を歩むことができたのは事実だったと思います(そして、ハイリターンを求める人が徹底的にリスクを取っていたのでしょう)。

しかし、今の世の中、今後の世の中は、「リスクを取らない」人の取り分がどんどん小さくなっていく世の中です。なぜかといえば、リスクを取らない階層レベルの仕事の実入りがどんどん小さくなってきているからです。国にも企業にも余裕が無い。そしてグローバル競争やIT技術、テクノロジーが人の職をどんどん奪っていく時代。こんな時代においては、より、「むき出しの資本主義」の中に適応していく姿勢が重要性を増しているように感じます。

 

リスクを回避すると、まずリターンはありません。積極果敢にリスクを取って、未来に必要とされるであろうスキルを逆算して習得した者、経済リスク・時間リスクを負ってどうなるかわからない事業を始めた者、事業責任者・プロジェクトリーダーとして賭けの仕事に挑む者、起業する者、海外に出る者・・・・こういう人たちにはリターン可能性があります。しかし、徹底してリスクを嫌っている者、何もしない者にリターンなどあるワケがありません。そしてその特権意識は、世界的に優越的な立場にあった「日本人」という意識から来るものでしょう。いい大学を出たという意識から来るものでしょう。しかし、日本は人口が多いからGDPで上位にあるだけで、各種数値を見ていくと実は結構、「不幸」な国でもあります。今後、どんどん後退していく場面も多いはずです。

 

戦後の日本においては、敗戦からの復興、高度経済成長の到来によって、膨大な労働力需要が存在していました。学歴取得者にはどんどん管理職ポストが与えられたし、社会全体が学歴取得者の人材を大量に欲していたわけですね。学歴を取得すれば、下級の人間であっても階層移動を実現することができました。しかし今はどうでしょうか。そもそも、産業のモデルが違う時代ですね。

確かに、今の時代においても高卒者と大卒者の生涯賃金の差は歴然ですが、その数字は普通のサラリーマンとして一生を終えることを前提としていて、額にして2500万円程度です。人間が働ける期間を40年と計算した時、一般に言われる「生涯賃金2億円」というのは、労働期間全部の給与アベレージを取った時、年収500万円程度のサラリーマンを前提モデルとしています。

そもそも大卒者の価値がインフレしているこの時代において、昔のように、「大卒だから・・・・」という盲目的な優遇が存在しなくなることを考えると、大卒と高卒の区分はほぼ、無意味に化しつつあると考えて良いでしょう。

 

「リスクを取らず、大学に行き、普通に就職せよ」の教えは、もし仮に、「昔のような時代が続くのなら」という脆い仮定の上に成り立つ、「生涯年収2億円程度(が得られるかもしれない)」のパラダイムです。そして、その稼ぎのために毎日疲弊して生きることになるわけです。

労働者として良い暮らしを望む

のであれば、おそらく、昔から続いてきたような「当たり前のやり方・考え方」に沿って生きていれば、なんとなくは生きれると思います。実際、多くの人がそうやって生きれているのですから。

 

しかし、そういう世界から脱したいと思うならば。何か違ったものを求めたいと思うのならば。間違いなく、考え方や行動パターンを変えなければなりません。そしてそのために、環境を変えなければなりません。学校は、国家の政策と企業成長のために奉仕する労働者の養成機関です。

例えば今のような時代はとてもわかりやすいのですが、小学校の教育の中に「プログラミングが取り入れられます」といったような形で、政策的・国家的に教育方針が変わっていくシーンを現在進行形で観察できます。その界隈に詳しい人からすると「うーん」という感じになるのではないでしょうか。

ああいうのを見れば、学校教育の正体がなんとなく掴めるもの。そして、官僚の作成する資料などを見ていれば、その背後にある思想なども見て取れるわけです。教育は思想と常にセットです。なんらかのイデオロギー、意図が存在します。普通に生きていれば、社会や学校から刷り込まれるのは、「国家運営」を全体統括・俯瞰的に見ている人たちが全体最適を考えた上で設計した何かに基づいた教育です。

確かに、これからの時代、「一般解」としてそういった教育を導入するのは全体最適の観点からは良いかもしれません。しかし、やはりそれは大所高所からの発想であり、個人は個人でまた、別のことを考えなければなりません。少なくとも、「自分が突出するための教育」なんてものは黙ってて与えられるものではないのです。積極果敢に、それを探し求めて食らいついて学ぶ、くらいの気概が無ければダメでしょう。

私の視点からこれからの人間のサバイバルを考えれば、そうやってあまり価値の無い教育に時間を費やしているとまた、別の文脈でコモディティ化教育が加速するんだろうなぁ、と思ってしまいます。そもそも、ボケーっと座って「教えてもらう」という発想がどうかとは思いますけど。

私が学校教育が嫌いだった最大の理由は、「無意味なことに時間を費やしている感」でした。無意味なことというのは、一般的視点から無意味というより、「自分自身にとって無意味」という感覚。明らかに、自分は、「そんなことに時間をかけていたら食いっぱぐれるだろう」という感じが、直感的にしたのでした。

それは、ある意味、「この先には自分の居場所は無い」という野生の嗅覚だったのかもしれません。

結局の所、学校教育の中で習う内容はそのジャンルで相当突出しなければ報われないものばかりであり、ほとんどの人にとっては「なんとなく無難に労働需要がありそうなもの」「大人になって困らなそうなもの」が並ぶことになります。確かに、トップダウン的なアプローチではその導入は正解かもしれませんが、やはり、個人ベースで考えるのであれば、上がそういう発想を持って教育内容を降ろしてきていることを考えるべきです。

私は、「凡人こそ」、積極果敢にリスクをとるべきだと思います。何か違うことをやるべきでしょう。凡人が、ありきたりなことをシコシコ、コツコツやったところで、工業時代の産業モデルならまだしも、情報時代においては労働需要が無いどころかスーパーレイバーになってしまう可能性が高い。昔は、無難にリスクを取らずやっていれば、どこかで受け入れ場所があって、そこそこの人生設計を描けたのです。夢を観れたのです。でも、今は違う。そしてこれからはもっと違うでしょう。

 

人は、「環境」と「教育」の賜物です。少なくとも、「環境」と「教育」に影響を受けて思想・信条・思考を形成します。純粋なオリジナリティなど、ハナから存在しない。そういうものがあると信じたい「だけ」であって、「与えられた枠」の中で生きているに過ぎないのが人間です。与えられた枠の中でしか考えられないものです。

ある意味、宇宙の中の砂粒の一つでしか無いのが人間。そして、自分に与えられた「枠」である環境や教育というのは、どういう思想や設計の元で自分の元に降りてきているのか、どういう決定がなされているのかということを理解しなければ、自分の人生設計はうまくいくわけがありません。特にお金についてわかっておくべきことは、周りの言うことを聞いて生きていりゃあそりゃあ、貧乏になる、ってことです。自分でお金を儲けた経験がない人たちが、自分の環境と教育を形成しているというその構造をまず、理解しなければならないのです。

自分の手で顧客を創造してお金を創り出すということをやってのけない限り、お金の問題は根本から解決しません。そして、それを現実的に実行できている人は非常に少ないのです。ここに関する教育は、まず、広まりません。

学校の勉強をしながら、「こんな勉強をして、将来何の役に立つのだろう」と思って当然なのです。

 

学校の勉強では教えないが、現実の世界で生きるには非常に大切な内容の一つに「税」があります。税について学べば学ぶほど、この世の中に存在する陰謀めいたものに対する理解が深まります。学校教育の中で税を取り上げないのはもう、明らかに意図的でしょう。

まず、そもそも「申告納税制度」が採用されているのにもかかわらず、サラリーマンは会社が税金の計算をして税を差っ引かれた給与が支給されているのはご存知の通りですね。これって、会社が徴税を代行しているわけです。世の中の事業者が税業務においてかなりの労力・経済コストを負担しているのはご存知の通りです。もう少し、シンプルでわかりやすい体系にすれば良いのを、あえて複雑のままにし続けているのはやはり、その界隈に既得権益が存在するからでしょう。

自ら確定申告をしている人たちは、「痛税感」をひしひしと感じているものですが(税金の計算だったり、考慮を常にしておく必要があるから)、給与所得者の場合は差っ引かれるだけです。もちろん、給料明細を見て、「こんなに引かれるのかよ・・・・」という感覚はあるでしょうが、基本的には事業者の場合、それに加えてその額の算出であったり、計算のためにも莫大なコストを支出しているのです。だから、非常に税に対する意識が高い。

とはいえ、ほとんどの人にはそこまで痛税感はありません。そして、そうやって集金された税金の使い方、使い道についてはもう、ご存知の通りですね。

税の話は始めるととてつもない文量が要求されるのでここら辺にしておきますが、まぁまぁまぁ、資産形成に成功した人やリッチになった人たちが口を揃えていうように、どうあがいても構造的に「税」によって搾取されるカテゴリーの人というのは存在しています。

世の中には明らかに、「構造」が存在していて、構造的にどうあがいても報われない人たち、構造的にどうあがいても苦しい世界、構造的に楽にやっていける人たち、構造的に利権が確保されているポジション・・・・・などあちこちに存在しています。

 

お金、という点にフォーカスするならば、お金は「稼げなければ、その問題は解決されない」という当たり前の現実に向き合う必要があります。

何を当たり前のことを、と思うかもしれませんが、この当たり前のことと向き合えていない人がほとんどなのです。

とにかく、お金について苦しいと思えば、稼ぐしか方法はありません。この「稼ぐ」ということについて一番わかっているのが、事業責任者レベル、あるいは社長という人種なのです。まぁ、場合によっては営業マンにそれを依存している会社もあるのかもしれませんが。

 

しかし、この「稼ぐ」ということは、「構造的欠陥」に気をつける必要はあります。どんな世界でも、「構造的にどうあがいても稼げない」という世界は存在します。その悪い構造にハマっている限りは、稼ぐことはとても難しいといえます(まぁ、自分一人を食わせる程度なら余裕なんですけどねぇ)。

例えば、商売というのは「仕入れて、売る」というのが基本的なメカニズムなわけですが、この「仕入れ」の部分でどうあがいても収益採算が取れないモデルなどは存在します。逆にいえば、この仕入れの部分で勝負が決することだってあります。

たまに、「起業家」みたいな人種が量産される時がありますが、あれは、何かしらのテーマなり商材の価値が右肩上がりの時によく上がる現象です。何かが右肩上がりになるのであれば、「バカでも稼げる」のは当然のことです。仕入れて、売るということを実行しているだけで良い。時間が味方になっている状態です。ビットコイン長者にしろ、バブル期の不動産転がしにしろ、ITバブルにせよなんだってそうです。

それから、「ファイナンス」の面で勝負がつくゲームもたくさんあります。ビジネスというのは、「成功するか・否か」の前に、成功するとしてもそれに何年かかるのかというテーマが出てきます。例えばamazonのように、赤字出しまくりであってもあらゆるフィールドで寡占化・囲い込みを進めて収益をごっそり上げていくような壮大な世界支配事業を構想している場合、どれだけの財政支援を受けられるのかというは決定的なキーサクセスファクターです。

まぁ、ご想像の通りなんですけど、日本のITベンチャーはアメリカには勝てません。明らかにアメリカのそれは国策的というか、国がバックアップしているかのような莫大なマネーが動いています。アメリカの一強支配、アメリカ帝国の創造に、シリコンバレー界隈のスタートアップが今の時代に必須なのは当たり前です。アメリカのマネーは軍事とそういうビジネスに流れ込んで当然でしょう。事業というのは最終的には国との共同プレーです。どこの世界のビジネスも、その国を代表するものは政治とズブズブです。

資金周りで勝負がつく世界もたくさんあるってことです。特にデベロッパーとかファンドみたいな世界は尚更そうですよっと。不動産開発とかは尚更そうなんですけど、経済のリセッション時に定期的に潰れた事業から安値でお宝がゴロゴロ吐き出されます。株の世界でもそうですが、潤沢な資金があるプレイヤーたちはその時を待って、ここぞとばかりにそれらを買い漁るわけです。そしてさらに自分たちの立場を強固にし、次なる経済のリセッション時まで遊んで暮らすわけです。資産のバーゲンセールってのは必ず起こるんです。ただし、その時にチャンスを掴めるのは、潤沢な資金力・ファイナンス力があるところだけです。

基本的に金持ちのゲームというのは、世間の人間が「不況だ」「見込みが無い」「無理だ」「未来が無い」と思っている時期にザーッと仕込んで、世間の人間が「好況だ!」「明るい未来が待っている!」「世の中が上向いている!!」ってワイワイはしゃいで働きまくっている時には遊んでいる、もしくは次の準備をしているのが基本です。自分の代わりに世の中を回してくれる人たちがたくさんいるのですからね。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。