俺の適職は、俺がやりたくない仕事

今回は、私の仕事論についてツラツラと語ってみたいと思う。

結論から言うと、『適職が見つかると(長期的に見れば)楽して大きく儲かるが、それがなかなか見つからないのは自分の希望的観測とズレがあるからだ』ということになる。

そして、人生とは自分についての謎解きだ、なんて思って生きてる。

 

仕事は、お給料をもらう時点で仕事だ。だから、バイトだろうと、派遣だろうと、正社員だろうと、どんな立場であろうと独自の持論があって良い。哲学があって良い。

『お給料は我慢料だ!』

『仕事はクソだ!』

『仕事は社会貢献だ!』

『人は仕事でしか成長しない!』

『仕事はサボってなんぼ!』

など、色々あって良い。全て一理ある。

もちろん、無職の仕事論も一理ある。

誰だって、一通り、働くという経験を積めば感じることがあるはず。当然、青二才のこの私にだってある。少なくとも、人より若い段階で仕事を始めて、負荷をかけて人生と仕事について走りながら考えてきた。思いっきり逆に振れる、という意味でニートも経験したから、仕事に対してはかなり多角的な視点を持ててる方だと思う。雇われもNot雇われも経験してるから。

 

若い頃にはわからなかったことがある。

それは、仕事というのは、自尊心の充足やら、身の安全やら、生活の豊かさやら、挑戦の機会やら、いろんなものを与えてくれるけれども、本質的には貢献行為であるということだ。というか、貢献しないとチャリンチャリンできない。

一個人のみならず、企業単位で見ても、外部の視点からでしか、本質的価値や存在意義は定義できない。

需要者の視点からでなければ、何も見えない。

 

そして、不思議なことに、この貢献というのは、

『こんなに頑張ったのになんでこれだけしかもらえないの!!!』と思うこともあれば、

『え、こんなに楽チンなのにこんなにもらって良いの!!!』と思うこともあるし、

『こんなに努力したのに報われない!!』と思うこともあれば、

『あれ?どうやら俺はこの方向に向いているようだぞ!!!』と思うこともある。

どちらにせよ、こーゆーのは、一生懸命、いろんな働き方を色々試して、ようやく、身を持って感じられるようになることだと思う。

 

私は若い頃、自分はバリバリのソルジャーとして、資本主義の最前線を渡っていくタフな適性があると思っていた。アメリカ映画の主人公になれる器だと思っていた。男らしく、強くたくましく、ハードな場面を切り抜いていける、いわゆるイケてるビジネスマンに志向が向いていた。戦いに強くなれると思っていた。自分が主人公でバリバリ前線を切っていけると思っていた。

逆に、一番、『適性無いな』『やりたくないな』と思っていたのが、救済系の仕事、保護やサポート系の仕事である。人を伸ばしたり、裏方から支援することである。弱ってる人を助ける、誰かをサポートする、支える、育てる、教える、引き出すみたいなことはやりたくなかった。向いてもないと思ってた。人のお手伝い、手助け、サポートみたいな、柔らかな、優しそうな世界には向いてないと思ってたし、興味もなかった。

ただ、大人になるにつれて、いろいろとわかってくることがある。

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『自分の強みや、自分に対して求められてることは、なかなか自分では自覚できない』

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鏡を見ても、人に話を聞いても、どうやら私はアメリカンソルジャーでは無い。

 

趣味なら、好きにやれば良い。

しかし、『金になること=仕事』で考えると、適性はよく考える必要がある。金になることは、結構、圧をかけて、シビアに適性を判断しなければならない。

なぜなら、適性が無いと、最後の最後で伸びに限界が出てきたり、続けられなかったりするから。何より、そもそも向いてないことは飯が食えない。これは、本当に、ご飯に困るレベルに落ちた経験がないと、案外、気付かない。

とはいえ、適性があっても、往々にして仕事は辛くて嫌なものなので、ちょっとしたことでいつも逃げ回ってるようでは、咲くべきはずの花も咲かない。『この辛さ、嫌さは、一体、本物なのか?偽物か?』を見極めるためには、たくさん嫌な仕事、辛い仕事を経験しておかないと判断がつかない。そのうち、適性仕事を青い鳥を追いかけるようにして探し求めて彷徨う、子羊になりかねない。

好きなことを仕事にする利点は、この点で、長く向き合えることだと思う。

心理学系の学問に触れると、『いかに、人間が自分勝手な解釈と思い込みで生きているか』を、学問的フレームワークや科学的エビデンスに沿って、嫌という程学ばされる。だからこそ人は、自分の適性を見落としている。

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本当はもう、成功してるはず

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なのだ。実はもう、過去に成功してるはずなのだ。ヒントは過去の経験の中にある。ただ、それに気づかなかった。無かったことにしてきた。

心底、人から感謝感激雨嵐を浴びて、お金までもらった、あるいはお金を渡しても良いというぐらいありがたがられた経験、それに近いもの、あるいはその匂いがした経験が誰にだってあるはずだ。

種に気づいて、肥料をやり、水をやることをしなかった。自分が、過去生きてきた中で、掴んできているはずの成功のヒントを見逃しているものだ。私はそういうことが多々あった。

『俺は思った以上に成功してない!』

という場合は、自分自身の能力や適性について、ごっそり見落としているか、間違った方向で自信を持ってる可能性がある。自分自身が『これは自信ある!』と思っている点が実は大したことがなくて、全く別の部分がめちゃくちゃ優れている可能性がある。そしてそれを、無かったことにしてる可能性がある。

自分のことをイケメンだからモテると思っていても、実際はカワイイからモテてる可能性がある。

 

人には、自己イメージがある。自分は、こういう人間だという自己イメージがある。それと同時に、こうありたい、という志向するイメージもある。ある意味、これが自分の目を曇らせる。

もちろん、

『自分で自分の魅力を自覚していないことが魅力』

であることも往々にしてある。魅力的な芸能人は、『え、この人、自分が美人なことに気づいてないんじゃないの?』ってことが非常に魅力として転嫁されている場合もある。でも、彼ら、彼女らには、プロデューサーが必要だ。外から見て、売り出し方や、最適な環境を用意できる人間がいるから輝けているのである。

 

基本的には、自分自身のベクトルについて自覚が必要だと、私は学んだ。少なくとも、それが、『経済状況を変えるカギ』であることは、体得した。

これは、業界とか、職種とか、既存の資格名などで定義できるようなものではない。もっと抽象的で、エッセンシャルなものだ。フワフワしつつも、はっきりとした光の筋があるものだ。矢印がしっかりとある。

やはり、適性はある。

 

重要なことは、『金になるか?』である。

金になるか?というと、あたかも拝金主義のようであるが、違う。きちんと、需要と結びついているか?誰かの役に立って、求められるものか?という視点で、自分の棚卸しをする必要がある、という意味だ。ただし、誤解しないように。ここで既存の仕事と重ねて考えたら、結局ありきたりな自分探しで終わってしまう。

たとえば、『俺はゲームがうまい』と思っていても、そのままでは、何も見えてこない。

ゲームがうまいとは具体的にどういうことか?手先が器用なのか?反射神経が良いのか?

ゲームのうまさで人に貢献するためにはどうしたらよいのか?

そもそも、自分がもっている数々の適性の中で一番他者にインパクトある貢献ができるのがそれなのか?

と、よーく考えていく必要がある。

 

ある意味、名探偵コナンになって事件を解決するようなものだ。あなたの過去には、たくさんの証拠品が落ちている。事件現場だ。そこから、手がかりを集めて、自分の謎を解く。過去のストーリーを検証して、自分の適性を掘り出す。

 

金になるかどうかは、ハッキリ言って、金を稼いでみないとわからないものでもある。あるいは、金を使いまくってみないと見えてこない。経済圏の中にいるからこそ、わかることがある。私は、同年代の学生が微分積分を机上で学んでいる頃、夜のキャバクラで、『うーん、なんでこれが高値で売れるのだ???』と頭を悩ませていたところから、商売人としてのキャリアはスタートしている。心の動きと金の動きを、しっかりと捉える。

 

実は、本当のことを言えば、自分の進路なんてものは、『信頼できる人』に決めてもらった方が良いと思っている。だから、私も未だに、人にいろいろと質問をする。もしかしたら、まだ発見してない自分に出会えるかもしれないから。

この人は!!という人に出会ったら、私は割と素直に、まるまる乗っかる方である。

 

自分の行く先について不安な若者、早くしたい若者が大人に聞くべき質問は、成功の法則やその人の武勇伝に基づく持論なんかじゃない。

What should I do to succeed?

なんかじゃない。

Who am I?

だと思う。

 

適性の無いことをやる不幸は、相性が合わない人間と結婚をするようなものだ。

そして、この相性とやらは往々にして勘違いされている。自分にとって相手が都合の良い存在かどうかでは無い。自分にとって、相手は尽くすに値する存在か?である。それは、どれだけ身を削るかという意味ではなく、わがままに相手を選ぶということではなく、自分自身と、そして自分自身の中にある選択された何かが、大きな価値になりうる相手かがその人か?ということだ。

 

ドラッカーの弁を借りれば、娘の結婚相手として最適な男は、『娘にとって良い旦那か?』ではなくて、『旦那にとって、娘が良い嫁になれる相手か?』だそうだ。実に深い。TakeではなくてGiveの視点である。

適性とは、そういうことだと思う。

この視点でいけば、『あいつは俺より頭が悪いのに俺より稼いでてムカつく』とか『あんな胡散臭い仕事で儲けやがって!』といった文句がいかにトンチンカンなのかがわかる。金儲けや仕事それ自体に、頭の良し悪しは関係ない。

 

どうやったら楽に大きく稼げるか?は、自分自身にとって苦ではないことと、需要者にとってインパクトあることの連立方程式を解けば良い。

『本当はそんなに望んだことじゃないんだけど、、、、』

と思うが、適性がある仕事をやってると、すぐにわかる。心に常に余裕があるのである。カリカリしない。イライラしないのである。

 

ブラジャーの企画をする仕事をしても良いと個人的には思ってる。webメディアの会社でも良いし、アパレル系でも良い。もちろん、興味もないしやりたくもない。だけれど、『仕事とは?』というのが自分の中に固まってくると、意外な仕事も射程範囲の中に入ってくる。エロ雑誌の企画でも良いし、アダルトビデオの会社でも良いし、広告代理店でも良いし、みたいな感じで一見脈略のないものが選択肢として入りつつも、そのどの場面においても自分の活かし方が見えるというのが、仕事観極まった状態だと思う。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。