最後の女になりたいだなんて。

全てのものには代償がいる。

俺の自由と成功の代償に支払ったものは何か?

個人的には恋愛だと思っている。

俺が支払った代償はそれ。

人は結局、動物なんだと思う。自分は理性的な生き物だと信じたいけれど、体に刻まれたDNAが自分の思考と感情と行動を、コントロールする。

まさにレールに乗せられたように小学校5年生でチンポが急に硬くなり、ムズムズした感触を覚え始めてしまう。友達に教えてもらったままに、お風呂でチンポをしごいて白濁液を出すことを覚えてしまう。

しごいている間、今までに感じたことない不思議な感覚が全身を支配し、そのまま勝手に動き続ける右手を止められなければ、不思議な放出感とともに、今までに見たことが無い白濁の液がタイルの上に飛び散っている。

恥ずかしさと、戸惑いと、罪悪感に襲われる。

でも、その日を境に隠れて自己発電行為を続けてしまう。

小さな子供の方がピュアで物事の核心を突くというのは、人間的な欲望に支配されていないからかもしれない。

大人への階段を一歩上がった証拠としての自分が行い始めた行為のおかしさ。これをメタ認知しながらも、自分の中に埋め込まれた行動と感情を支配するコードの確かな存在に気付き始めるのはその頃から。人間として生まれた以上、自分も抗えない「磁石のN極かS極」かを持っていて、何かに引かれてしまうと徐々に悟り始める。

食事を取り入れる器官でしかない口を他者と交じらせて何が嬉しい?何が気持ちい?周囲の騒ぎが白々しく思えてくる。純粋な疑問は、自身の体験によって検証される。

気がつけば馬鹿みたいにデートして、キスして、挙げ句の果てにはセックスして。貴方は私のものだの、お前は俺のものだの、誰々は誰々の「彼氏」「彼女」だのそういう営みを一通り自分もなぞってしまう。DNAに応えて生きればDNAが喜ぶ。

会いたい、一緒にいたい、手を繋ぎたい、声で繋がっていたい、一緒に居たい。実体験とラブソングと、友達同士で会話されるトピックに支配される。自然な会話の延長で、相手の過去の話まで聞かされてしまう。過去の中に自分はいないけれど、今を共有している自分はまるで過去すら共有したような気持ちになってしまう。これがストーリーの怖いところで、自分の知らないところから自分の知っているところまでに辿り着くストーリーを聞かされてしまえば、知らないところまでもなんとなく想像が及んでしまう。

未来が過去の延長にあるのならば、逆もまた然り。今、目の前にある幸福を形にしたものは、過去にも同じことがあったのだと再現されてしまう。目の前でチンポをしゃぶっている姿は、過去にも同じようなコンテクストで再現されたのだと思う。社会がそうさせるのか、本能がそうさせるのか、どっちかは難しいけれど、明らかに女にはたくさんの顔があって、外では見られない顔がどんどん出てくる。

誰だって、公衆便所は汚いと思う。本気の好きが向いた対象が、目の前でたくさんの別の人たちに犯されまくっているのを見たら、よほど歪んだ性癖が無い限りはそれで嬉しいと思う人間はいないだろう。それが一夜のどうでも良い相手なら話は別だけれど。

歳を重ねるほど、「性」が好きという気持ちに融合されていく。好きなのかヤりたいだけなのかわからない時は誰だってある。実際、男女ともに失恋の痛手を負った時は好きでも無い相手と体を交わせることに流される時がある。

だからこそ、性を完全に切り離した、確かに「純度が高い」と思われる好きの手触りは「おそらくこの気持ち」という感触は自分の中でなんとなく見立てがつくようになる。

微分が曲線をクローズアップして直線に見立てるという極端な操作をしてその本質を見極めるが如く、好きの本質もクローズアップしていくとそこにはどうしても排他的な概念が混入する。好きに基づく特別な関係性は、排他的な概念と切っても切り離せない。だから、今を知れば知るほど、ストーリーの逆算でしか想像することができない過去にまで思いが及ぶ。

そうやって、現実を吞み込めるまでに心が育っていない男女は、好きが行き過ぎてそこには無い過去に嫉妬したり喧嘩したりする。過去を受け入れきれなかったりする。どこかモヤモヤとした閉じ込めた疑いの気持ちは、いわゆる倦怠期と呼ばれるシーンや、少し相手がよそ見した、飽きてきた、熱が冷めてきたという時に、再燃する。

好きが大きくなるほど、傷が大きくなる。そしていつの間に、純粋なDNAに従った生物的行動と感情の中に、社会の文化が織り込まれる。

「仕事しなきゃ」「仕事だから会えないよ」「今の仕事つらいよ」「家賃が」「あれは高いね」「一緒に暮らしたいけれど今は無理だね」「早く帰ってきてね」

・・・・・・

「あの仕事をしている人は嫌だ」「この仕事をしている人がいい」「仕事が忙しくて会えない」「年収●万円以上が良い」「あんな車に乗っている人が良い」「こんな家が良い」「あそこに行きたい」

1次方程式が2次方程式に、連立方程式に・・・・・

どんどん、「解を求める」ことが難しくなっていく。いろんな軸が交差するようになり、昔のように単純な答えではどうにもいかなくなってくる。

始まりは膣から。終わりも膣へ。膣から始まって膣に帰ろうとしている自分。完全にDNAに支配された行動。社会に迎合して、社会的に何かに染まろうとしているのも実は本能に支配されている。女に支配されている。

「男の方が器がでかい。結局、月数万円のお小遣いで毎日嫌な仕事を続けて家族のために頑張れるのは男だからできること。女にそれはできない。」

暇な専業主婦の書き込みが集まるインターネットの書き込み。これを見たのは最近の話。前後は左右されるけれど、これは女の視点から見た男の大変さに関係するトピックだった。

若いうちは、おっさん・おばさんと自分は「無関係」だと思っている。

無意識的に、「自分は老人にならない」「自分は死なない」と思っている人も多い。

だけれど、ふと未来の具現である先輩たちを見た時。これが、今自分が感じている恋心の手触りを大事にして、進路とか仕事とかを決めた先に待っているものか、と思う。「俺は幸せだ」「結婚して良かった」だなんて言っている先輩、上司たちの口から紡ぎ出されるフレーズは強がりに思えてきてしまう。どう見ても幸せそうには見えない。

彼女なるものを誰もが一度作る。そして、その彼女なる存在と、誰もが一度は揉める。やりあう。感情的営みである恋愛において、感情的ないざこざが生じるのは当然。喧嘩しないなら恋愛していないのかもしれない。火がつかないのなら恋愛では無いのかもしれない。

ブワッと燃え上がり、火事を経験すると相手のいろんなところが見えてくる。

「最後の女」という概念の意味が、経験的に理解できるようになるまでには時間がかかった。

最後の女になりたい、ということを、多分、向こうとしては重々しい感じで伝えてきたのだけれど、その真剣さとは裏腹にスーーッと冷めていく自分がいた。

その最後が文字通り、いろんな意味で自分の最後に思えた。

とりあえず、10代の俺は人生の「●大生きがい」のうちの1つに数えられそうな、「恋愛なるもの」をクイックリファレンスしたような気持ちになっていた。人生には時間が足りない。だから、物事は速習して、その先を推定的に捉えるぐらいのことをやっていないと、本当に時間が足りない。

20代になっても、クイックリファレンスをしてなんとなく推定を立て、ざっくりとつかんだ「範囲」からガンと飛び抜けていくようなこととはそうそう出会わない。そう、10代のうちの速習は活きた。

男女ともに、歳を重ねるにつれて絶対不可侵の領域が増えていく。プライベートとは別に、「公」の領域ができていく。そして、社会の風潮として、男はその領域を外せない。女はまだ外す余地がある。

おそらく、社会全体が「勝手に右肩上がり」だった時代は何も考えなくて良かったのだと思う。あるいは、相当貧困地帯か。貧困地帯であればあるほど、人々は動物的本能に従った振る舞いをするらしい。相当貧しい地域ほど、みんなバンバン子供を生む。逆に、経済的に成熟している国では子供の数は減る傾向にある。これは世界中、同じことだ。

社会がイージーゲームならまだしも、イージーゲームじゃないなら、話は別だ。

そして、恋愛の中に社会的文化が混入するのなら(そしてそれが大人の恋愛というならば)、考えるべきことは単一の軸ではなくて2つの軸に、3つの軸にという形で複雑化を増していく。

自分の領域を「公」と「私」に二分した時、プライベートは「公の領域に侵食されていない領域外」となると、当然、恋愛その他はその中にカテゴライズされるサブカテゴリーになっていく。

若いうちに右往左往して、その結果、公の領域をしっかり固めないと人生はどうにもうまく転がらないと気付く。そして、そこをしっかり固めるためには、「友達が」とか「恋愛が」とかいうものが中軸にあってそれに振り回されていた時代から卒業して、確固たる自分を確立せねばならない。

そして、それをやればやるほど、寂しさという気持ちは消えていく。そもそも、プライベートの領域が相対的に小さくなっていくのだ。男の飲み会の話のテーマは、歳をとればとるほど、女の話が消えていき、ほとんどが仕事の話になっていくという。

そして、そうやって自分の社会的価値が上がっていくほど、一つの軸が強烈に強化されていく自分がいて、そこが恋愛に有利に働くこともあるし、それをきっかけに相手に好いてもらえるようになることもある。だけれど、その軸を強化するにあたり、「生物的・動物的」な、子供時代に持っていたような純粋な恋愛心についての軸が弱くなっている自分がいる。

恋愛より仕事派、みたいな話はくだらない。そんなチンケな問題じゃ無い。いつから仕事ってそんなに簡単になったっけ?おまけにハードなことや競争上難しいこと、高いレベルを目指そうとすればするほど、

「自分の中で仕事に侵食される領域が増える」

を意味する。

若い頃に、明らかに悟れたことはこれだった。仕事は甘いもんじゃ無い。そして当然、自分の中で捧げる領域が大きくなることは、プライベートの消滅を意味する。それは時間なのかもしれないし、精神的な部分かもしれないし、金銭的な部分かもしれないけれど。

事実、若い頃に恋愛にうつつを抜かしすぎた男たちはキャリアが破滅している。そして、割とキャリアでうまくいっている男たちは口を揃えてこんなことを言う。

恋愛をしたら調子が狂う。

人を好きになると調子が狂う。

大人になった男は、自分の中に女なんていれたら、秒で死ねることを知っている。それが真面目に好きであればあるほど、そんなものを自分の限られたキャパシティのどこかに入れれば、いろんなことのバランスが狂う。そして、そのバランスが崩れたら「全てが失われる」ことも知っている。

自分の経験でも、周りを見ていても、男は勝手に学ぶ。

自分の表面を見て、それが何に支えられているのかと言う構造を理解することなく、感情的に本能的に、ただ何かを言われてもその言は信用に値しないことを知っている。娘に「パパと将来結婚する」と言われても父親が真に受けない構図と同じである。

仕事でチャレンジして、仕事で失敗して、仕事で何かを失っても得るものはある。残るものがある。それは絶対に何かに生きる。ところが、恋愛を自分の中に持ち込んで、何かで痛手を負っても、バランスが崩れても、普通は活きることは無い。

「最後の女」だなんて、マジで文系的センスがありすぎる。言葉の詐欺だ。言い換えの妙技にセンスがありすぎる。

「包容力」

「大事に」

「守る」

「男らしさ」

「優しさ」

そう、詐欺の手法は全部、女から学べる。牛丼屋の求人広告で「やりがい」みたいなフレーズが使われてるのとほぼほぼ同じ感じ。

統計上24歳が一番健康な子供を産める確率が高いとか、30越えたり35を越えたりすると出産リスクが高まるとか、いろんなことが言われる。でも、それは男も同じ。いろんなリスクがある。平均的サラリーマンなら話は別だけれど。

事業家が顧客に尽くせるのは、多数の人を相手にできて統計的にリスク分散できるからだ。

結婚から「金」「仕事」「文化的な生活」をぶっこ抜けるなら話は別だ。しかし、大方の人は絶対にそうとは思わないだろう。無職と結婚するか?と問われれば大方の女性はNOだ。

しかし、結婚が強迫観念、常識だった時代とは今は訳が違う。終身雇用が崩壊し、企業の寿命は人間の寿命より短くなっている。人は、人生の間で必ず1回は転職が求められるだろうし、誰もがニート期間、ニュートラル期間、無職期間を味わってもおかしく無い時代が来る。

無職と結婚したく無い!と思う女性は多いだろうが、定職についている人と結婚してもその男性が将来的に一時的にせよ恒常的にせよ、無職になる確率は高い。現にそれで別居、離婚になっている人なんて腐るほどいる。

ブライダル産業なんて過去の常識を踏襲し続けているだろうし、教師の教えも親やおじいちゃん・おばあちゃん、ジジババの話は古すぎる。マジで使えない。昔は年寄りには価値があった。物知りだし、希少だし、国の手厚い保障で食えた。今は年寄りに価値は無い。今の若い世代にはこんな未来が待ってる。

考えてみてほしい。今の50代なんてハタチになってもケータイがなかった世代である。今の40代なんて就職時期にネットが栄えていたかどうか怪しい世代である。テクノロジーは確実に、世界の構図を変え、雇用を奪い、様々な事業にインパクトを与えた。Amazonはどれだけの書店を潰したか?

大方の恋愛・結婚において、「金」とか「定職についていること」「文化的な生活ができること」などが最低条件に織り込まれているのであれば。明らかに現代の男は恋愛で痛手を負う。

痛手を負わないと思えるのはもともとキャリアが死んでいるか、もしくは大きな会社の中で守られて自分有能・安泰と勘違いしているからだ。

人は養われている間は100%感覚がおかしい。養われている度合いというのは、「子供かどうか」「実家暮らしかどうか」「雇われかどうか」によってレベルが違うけれど。

お前は考えすぎだ、って昔から言われてきたけれど、少なくとも、事業においてこの考えすぎの性質は吉と出てる。メディアに「大金持ち!!」と報道された金持ちがしばらく経ったら借金だらけで底に落ちてる・・・・みたいな話は腐るほどある。もし、俺に「考えすぎ」の能力が無かったら、こういうハズレくじの事業を立ち上げていたかもしれない。考えすぎの能力が無かったら、勉強しなかったかもしれない。進路について真剣に考えなかったかもしれない。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。