寿司食べながら社畜生活に戻るのも良いなって考え始めた

若い頃は、自由っていうのは、働きもせずに、誰からも指図されないことだと思ってた。

こーやって、平日の昼間っからまわらないお寿司を食べることだって思ってた。

自分勝手に生きることだと思ってた。

みんなが忙しくしてる間に、自由に好きなことやっていたら、最高の優越感と自由を感じるんだろうなって。

 

でも、自分の中で自由の定義は変わった。

自由人が自由であるのは、何かに大きな貢献ができて、その文脈の中で自分らしさを感じること。

お金もらえれば良い、で終わらないのか。

別に元々、底辺にいたからいろいろ失って貧乏になったとしても、知れてるってことがわかるんだと思う。

形式上の自由なんて、単なるファッション自由。相対的自由と絶対的自由なるものがあるとしたら、絶対的自由に浸るためには自由の絶対値をあげないといけない。それはある意味で自己満足ではあるのだけれど。

 

形式上には不自由に見えても、そこの中で、自分が絶対的自由を感じられたらそれで良い。そして、絶対的自由を感じるためには、自分の中に、裏付けとなるものが必要なんだと思う。

絶対的自由に必要なもの。それは、人間関係を通して得られる満足。人間関係を簡素化する、シンプルにするというのも含まれるのだけれど、素晴らしい人たちとの関わり合いの中で、最高の自由を感じられるというのは幸せなんだと思う。

それはパーティーするとかそーゆーことじゃなくて。

人生の中で出会える人たちって限られているはずなんだけれど、その限られた人たちの中でどれだけ深い関わりを持てるかなんだろうな、って。

 

たぶん、理想を追求しすぎても無理。たぶん、何やっても90%ぐらいは良い事がない。泥臭いことが多いと思う。

だからこそ、自分の中で、『これは自分との戦いだ、自分の成長だ』っていう理由を持って生きる。生き続ける。

 

気付いた時にはたぶん、遠くに来ている。

そんな感じなんだと思う。

 

たぶんこれが、没頭。

この没頭が、幸福を呼ぶ。きっとそう。

 

自分自身の人間関係への苦労というのは、人間への希望や愛みたいなものを捨てきれなかったからなんだと感じた。もちろんかなり自己本位な視点なんだけれど、自分がどーしよーもなく堕落してたから、だから自分にOKを出せなくて。だから、世界の見方も歪んでて。

それは経済的に、とかどうこうではなくて、自分自身の人生を描いていくストーリー。完全なる自己満足なんだけれど、自分の中での成長や変化を楽しむストーリー。

人に対して、絶望し続けるサイクルの中にいたくない。そして、人に対する絶望サイクルは、自分が招いたもの。自分を変えても良いし、環境を変えても良い。たぶん、過去の自分はその二つを実行した。

 

それを通じて、リアルな感触があったから、良かったんだと思う。あとについてきたものはオマケでしかない。

宗教体験とか神秘体験のソレに近い。でもね、それが一番、幸福を感じることなんだよね。何か物を買って満たされるとか、何かサービスを受けて満たされるとか、どこかに行って満足するとかでは収まらない超越した快感の世界。

そう、たとえばお寿司とかはどーでも良い部類ね。

 

自分が満たされるからこそ、他者を満たすことができる。自分が欠乏していると、他者を満たすことができない。不幸のサイクルにハマってはいけない。そして、素敵な人との出会いによって、満足とか自由の感覚が変わっていくことが、とてもよくわかった。

面白い人、素敵な人との出会いは人生を変える。

世の中には素敵な人がいる。

そこにリーチ出来ない自分が嫌だった。そーゆーことかな。

そこには、羨望もあるかもしれない。人の一番の武器は、その人の人柄だということ。そして人柄を支えるためには、力が必要だということ。あぁ、この人と一緒に働きたいとか、この人と一緒に面白いことをしたいとか、この文化の中で生きている人たちに貢献したいとか、そーゆーことで満たされている時は幸せなのかも。逆に、すごく殺伐とした人間関係の中で、不幸のサイクルに堕ちていくのはすごく辛いんだな、ってね。

憧れかぁ。

 

個人的には、経済力が変わっただけなんやろ、どーせ金やろ、結局そこだけやろ、ぐらいに自分のことを捉えていた。どーせ自分なんて、どーせ自分なんて、みたいな。

でも、そんな自分に対して、『良い』って評価してくれて、好いてくれてる人がいて、その人たちが『良い』って言ってくれてる以上、余計な自己卑下は背信行為、むしろついてきてくれてる人たちを傷つけること。もっと自信持って、ぐらいに言われる。

で、なんでそーやって優しくしてもらえるのかっていうと、結局の所それは、そーやって言ってくれてる人たちの利益にかなうからだと思う。昔の自分ならそれを、『利用されてる』とか『自分の人生を生きてない』って断捨離してたはずなんだけれど、それは違うって思うようになった。

自分が利益の向こう側を知らなかったから。人のために尽くして、人を豊かにした先で、何があるのだろう。誰もがきっと、それだけで満足できないはず。

 

うーん。

究極のエンターテインメントとして、人生があるべきというスタンスなのかな。

ワシは何がしたいのか。

やっぱり、人を喜ばせたり、感動させたり、モチベートしたり、元気や勇気を与えたり、『うわっ、あなたと一緒の時間を過ごして面白かったです』っていう何かを与えたいのか。

そして、それができるビジネスって物凄く限られている気がするわ。

力が必要だし、業界や商材も限られる。

 

きっと、世の中の人はまず、お金が欲しいはず。

お金と時間が無いと、面白いことも何もできないって思ってるはず。

心の余裕が無いはず。

そして、自分自身で自分の人生を切り開きたいと思っているはず。

 

ブログビジネス、メルマガビジネスは、やっぱり、それが実現しやすい世界だと思う。

ましてや、日本みたいに豊かな国で、みんなもう、満足できないでしょ?

何かを消費する人生に、何も感じないでしょ?

 

もっとドキドキワクワクしたいんじゃないの?

もっと面白いことしたいんじゃないの?

ゾクゾクするような体験したいんじゃないの?

 

生産者にまわりたいんじゃないの?

 

自分はギャンブラーの素質があるかもしれない。レールを飛び出したとき、怖くてたまらなかったけど、武者震いがしたよ。

うわっ、おれ、面白い人生歩んじゃったって。

退屈な人生捨てちゃったって。

 

これまで、女の子とセックスしてきたときも、髪の毛掴んでしゃぶらせたり、ビンタしたり、泣きながら『気持ちいいですぅぅぅ!!』とか言わせたりして興奮してきたよ。相手も喜んでたよ。変態性がシンパシーを起こしてたから。

 

キモチイイ、シゲキテキ、な人生を送りたい。

共有したい。

それかもね。

 

歳をとってくると、みんな、落ち着き始めるから。

若いうちにしか、シゲキテキでアブナイ人生、送れないんじゃないかな?

 

一日中、暗闇の中でセックスし続けるとか。

 

もちろん、そんなことに1ミリも興味持たなくなってる人は、人として、成熟のステージに立ったんだと思う。

そーゆーときは、むしろ、社畜みたいな生き方がすごく心地よくなると思う。

 

ps

刺激に飽きたらキャリアにカムバックするのも良いと思うぜ。

ハタチから30前半くらいまでは、セクシーな生き方に流されてても全然良くない?って自分に言い聞かせる。もちろん、歳をとってから刺激に走っても良いと思う。

経験上、欲望はとことん満たさないと次に進めない。ヤッて、ヤッて、ヤッて、ヤリまくる。自由な時間を持て余してセックスにとことん溺れる。

これがまぁ、最高の報酬ですか、軽薄な自由の。

そーゆーのを、『くだらない』って距離置くのは良いけど、自分の中に少しでもやりたい気持ちがあれば、年数が経つにつれて徐々に発酵していって、腐って異臭を出し始めるんだよね。それが嫌だから、とことんやりきりたいよね。やりきりたかった。

 

お金使わないとダメだなって思うのは、人間が人間だから。もし、合理だけで生きるのなら、4畳半に住んで、毎日パスタだけ食べて、生活費を圧縮して機械的に生きれば良い。でも、それができないのが人間。あと、メンタルやモチベを失うと、何もできなくなってしまうことからもわかるように、それが人間にとって一番大事なことってわかる。

だから、消費や浪費も投資、少なくとも私の中では。そうやって精神が成熟してはじめて、次のステージに行ける。

私が見てきた限り、気持ち良いメンタル持ってる人たちって、みんな、バンバンお金使ってた。

 

結局、消費も就職も恋愛もなにもかも、ぜんぶ、体験をかき集めているんだよね。

そんなことさえ考えることもできず、ただひたすら守りに入って、節約ばっかり、仕事ばっかりは仕事術できてないなって思う。

ワークライフバランスとかもあれ意味不明だわ。

 

本質的には、価値ある体験のコレクションが人生だと思う。

だから、それが目的だとしたら、手段は何でも良いんじゃないかな??

 

私の場合、贅沢すぎるから、ビジネスするほか無かったけどね。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。