悪口を言わない人間イコール立派は本当か

なんかマジで自分の運の良さに感謝したくなるんですけど、私、どーしよーもない人間性なのに、人として立派な人、素晴らしい人間性の人とのご縁に恵まれることが多くて恐縮しっぱなしです。

ありがたい。

何をもって『人間性が素晴らしい人』をそうだと判断してるのかというのはまた個人的な主観が入ってきて難しいのですが、私という人間を肯定してくれたとか、持ち上げてくれたからとか、そういうことで判断してるわけではなくて(むしろ注意される 汗)、単純に、彼ら彼女らを見ていて憧れる感じですね。自分とはかけ離れた神々しさをまとってて。

そーゆー出会いに恵まれてる、ほんと。

で、人間性が素晴らしい人って、共通点があって、その代表例が『人の悪口を言わない』『何かについてネガティブなことを言わない』なんですね。で、そーゆー人を見るたび、刺激を受ける。

あぁ、自分ももっと、立派にならなきゃなぁ、って。私は割と、自分の人間性について嫌悪している方の人間なので、立派な人を見るたびに自分への嫌悪が増します。が、素敵な人を見ると気持ち良い自己否定と向上心が湧いてくるので、そーゆー瞬間はとてもありがたいと感じます。

とか言って性格なんてそうそう、簡単になおらないわけですけど。あはは。

 

ただ、ですよ。じゃあ、『人の悪口を言わない』『ネガティブなことは言わない』を実行している人たちがみーんな、立派な人たちなのか。これ、どうでしょう。そこに疑問を持つ人も多いようで。グーグルで『人の悪口』と検索すると、関連語候補に『信用できない』ってワードが出てきたりもするんですね。

これ、結構、深い問題ですね。

 

実際、私も、ちょっとそれはわかる気がして、『私、人の悪口言いません!』とか『ダメですよ、そんな言葉遣いの人は!』的なことをよく言ってて、たしかに表面的には綺麗に見えるけれども、すごーく信用できない人とか、なんか距離置きたくなる人見たことあります。

人を悪く言わないし、言葉は確かに綺麗なんだけど、人をイラつかせたり、迷惑かけたり、本人は無意識なんだけど人に嫌われる振る舞い、鼻に付く感じの人、実質的に文句言ってるに等しい人とかいたりするわけです。

たぶん、悪口言わないことそれ自体に意味はないと思うんだよね。金持ちの真似して長財布持つみたいなのと似たような違和感を感じる。

立派な人が自然と悪口言わなくなるから悪口を言わないことが素敵だってなってる部分あるけど、口が汚くても素敵な人はいます。私はどっちかというとそーゆー人を若い時にたくさんみましたね。逆に言えば、悪口を自制してても性根が悪いやつは絶対滲み出る。笑。そーゆー人は一周まわって余計に気味が悪いってのはあるでしょう。まぁ、かと言ってそーゆー人が、口にした封を解除すれば余計嫌われるだけで、本人はそーゆー自分の腹黒さを自覚しててあえて、悪口を言わないということを公言し、徹底してるのかもね。

スポーツマンシップが高らかに宣言されるスポーツは、それ自体、反スポーツマンシップ的な行為が現実の現場では横行されていることの証左でもあるようにね。

 

悪口はたしかに悪いんですけど、綺麗事抜きで言えば、少々の口の汚さだったり、人をいじること、毒を吐くことはコミュニケーションの潤滑剤として機能している場面、側面はあるでしょう。人のキャラクターによっては、だいぶ踏み込んだ悪口も面白さに転化することはあります。ただ、芸能界でも毒舌キャラで生き残るためには相当知性が要求されると言われている通り、危ないスタイルなのは間違いないでしょう。口が悪いスタイルって難しいんですよね。

 

ところで、私の知人の外国人たちは、私の前で本当に、お口が汚い。Fワードとか結構出るし、話してる内容がなかなか辛辣。

まぁ、Fワード連発してるやつはThe Lower classだ、とかおっしゃる人もいるんですけど、私の知人の某北欧人は、親がスンゲェー金持ちで品良いお嬢さんなのですが、仲良くなればなるほどどんどん口が汚くなりました。笑。彼女が心を開けば開くほど、Fワードが増えた。まぁ、そーゆー場面ってあるのが人間ですねぇ。

 

ちなみに西園寺さんの最も口の悪いシーンはここにおけるブログ投稿です。笑。そもそも、コピーライティングの基礎教育に、『物議を醸すことを言え』とか『希少性あること言え』とか『反社会性あること言え』とかあるのでもう、汚い物言いは職業病なんですけどね。マーケティングにおける大罪はつまらないこと、信用されないことなわけですが、いい人と思われないことは別に大罪でもなんでもありません。個人的に政治家とマーケターは暴言、失言を定期的にしとくぐらいがちょうどいい、仕事しやすいぐらいに思ってます。

ワードプレスの編集画面を開けば、私の中のあくどい場面が誇張される形で顔を出すわけです。

 

逆に言えば、普段の生活でそんなに悪口言ってません。そりゃ、そうですわ。毎日ハッピーだし、ストレス感じてませんからね、そもそも。毎日楽しいのに、何を愚痴ることがあるというんだって話。それは私の人間性が良いのではなくて(むしろ悪い)、環境要因が大きいですね。そもそも悪口を言いたくなるような場面に出くわさないし、人生に余裕しかないので。

余談ですが、悪口やネガティヴワードばかりが日常で出る人は、だいたい仕事が合ってないとか人生選択を根本からミスってるとかの場合が多いと思いますよ。私も人生で一番口が汚かったときはひっどい労働環境、ライフスタイル下にいましたねぇ。

 

で、本旨に戻しますけど、悪口を言わない、みたいなのはたぶん、小手先の話です。それもすっごく大事なんですけど、本質的には人間としての根っこの問題でしょう。むしろ、根っこが真っ黒なのにやたら言葉綺麗すぎるとヤバさ倍増する場合もあるんじゃないですかね。ってなわけで、言葉が少々悪い人間も生き場所はたくさんあるんじゃないですか。世の中にはヒール役ってのも確実にありますしね。

 

個人的にすごく思うのは、やっぱりその人が紡ぐ言葉ってのはその人の思考とか内面的な部分が滲み出ると思うわけですわ。だから、言葉がどうなるのかってのはその人の現在の心理状況とかも大きくて、もっと言えば環境要因もデカイと思う。コピーライティングも突き詰めると、結局その人の趣味嗜好とか、興味の幅とか、知識とか、人生経験とか、現在の状態に根付く話になってきます。相当根深い話なんですねぇ。だから、言葉の綺麗さと心の綺麗さを重ねて話されることが多いのはそーゆー部分だと思うし、逆に言えば付け焼き刃的に言葉だけをよくしてもどーなんだろってのはある。そーゆー意味で、ペン習字講座とかボールペン字講座とかにも同じものを感じる。

ただやっぱ、私が見てる限り、うわー、この人立派だなぁって思う人は言葉が綺麗だ。言葉が原因で心が結果なのではなく、心が原因で言葉が結果なのだろうと思う。ま、何をもって立派とか綺麗とか言うのかってのは完全に個人的な趣向で喋ってるだけであって、個人的に憧れるベクトルの話をしているにすぎないんだけれども。

でも、そーゆー人たちと接して多分に影響を受けたり、考え方が変わったり、憧れたり、真似たくなる時点で、言葉のパワーみたいなものは感じる。言葉はやっぱり、その人の内面を伝える媒介として機能するのであって、そこが魅力的だと、その人の魅力がより効果的に伝わるんだよね。言葉のチョイスとか、文の紡ぎ方にその人のセンスが表れていて、そこを読み取れる人は読み取れるわけだ。そして、大人になればなるほど、たぶん、そーゆー微差の領域を感じ取れる人が割合として増えるんだと思う。

 

昔、贈り物とかプレゼントってものが好きじゃなかった。それって、もらうものでしょって言う子供じみた発想から抜けきれなかったのが一点、単純に自分も楽しみを共有できないことに支出することが嫌だったってのが一点(プレゼントやるぐらいなら一緒に呑みに行こうぜ的な)。

でも、今は違う。今は、プレゼントが好きだ。最近、とあるユーチューバーの動画で、『どっちのプレゼントの方が女の子の心を捉えるか、そのセンスを競いましょう』みたいなものがあったけど、まさに、プレゼントってそーゆー世界だと思う。ファッションもそうだけど、一種の自己表現でもあるんだよね。何を選ぶのか、と言う点に自分らしさが投影されて、それが人からの好意形成に影響すると。そしてそれ自体を自分の喜びとして楽しむみたいな。まさに、精神年齢高めの人、経済的余裕がある大人の人の楽しみの世界だと思う。

たぶん、言葉の世界も、コレに近い。

コミュニケーションってのはすっごく深遠な領域であって、そんじゃそこらの表面的なノウハウやハウツーでどうにかなるほど甘い世界では無いし、機械化やIT化が押し寄せる中、人工知能の未来が待っていると言われる最中、唯一、人間らしさと創造性が純粋に要求されるフィールドでもあると思う。

 

魅力的な人間性と言葉は、ワンセットで捉えるべきテーマだというのはすごく感じる。

魅力的な立派な人を見るたび、そんなことをひしひしと痛感させられる。

そして歳をとるにつれ、そんな深妙かつ精妙な領域で差異が生まれてくるのかもしれない、なんてことを考えると、人生の奥深さを感じずにいられない。誰もが自分の中に表現しうる魅力の素があるとすれば、それを脱漏させることなく表現し伝えるためには、やはり言葉への造詣とこだわりがある方が良いのだろう。

EminemやJayabrahamを見習って、辞書を本代わりに片っ端から読んでみるのも悪くないな。

 

あぁ、ところで、性悪金髪超絶ビッチの、潤った陰部に、俺様の男根をぶちこみ、大量射精してぇ。

(ダメだ、こりゃ)


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。