(1)俺とカルト信者の違い

あなたは洗脳されていますか?

Are you brainwashed!?

 

そう聞かれて、私は「NO」と答えられない。

え?

やばい?

若かりし、「THE普通」を自負していた頃は、まさか自分が洗脳されているなんて、思いもしなかった。しかし、働くという経験を通じて、あるいはスポーツをする経験を通じて、あるいは自己啓発本なり何なりを読んでいくにつれて、「もしかして洗脳されているかもしれない」という思いを強くするようになった。

生き方の迷走

これだけ、生き方とか職業観が迷走し、メディアが多様化して、様々なライフスタイルが蔓延する世の中。インターネット社会で玉石混合の情報、ステマ情報などが横行する世の中。今の人は、割と、「洗脳されない体質」もしくは「世の中が洗脳社会」であることに気づいているかもしれない。その意味で健康だと思う。

むしろ、私なんかは、自ら進んで道を踏み外したから、常に心の中で、「道を誤っているかもしれない」という自己疑念が、ずーっとある。怪しい人たちの集まりとか、怪しい人が主宰するセミナーとか、怪しい人の教材とかたくさん行ってきたし、えっちな怪しいお店にもたくさん行ってきたし。

まぁ、いっぱしの大人になって、企業社会の中で揉まれている人たちは、大抵、仕事を通じて「これ良いのか?」みたいな思いを抱えてはいると思うよ。

組織のロボットに徹しないといけない部分と、自分個人としておかしいと思う気持ちの対立というか。

 

アメリカでは9.11以降、政府の陰謀だとか、メディアのステマなどを疑うようになる風潮が強まったらしい。実際、テロをきっかけに無茶苦茶な法律が通ってしまって、アメリカ国民は監視されるようになってしまった。

なんとなく、何を頼りにして良いのかわからない時代だ。

 

ロールモデルの喪失

昔と今が違うなー、と思うのは、「メインストリーム」が揺らいでいるということ。「これは安心だ、これは王道だ」というものに限って、グラグラと崩れてしまうということ。最近の世の中を見ていると、胡散臭い人と絡んでいた人が大統領になったり、トップが胡散臭いことを言っていたり、胡散臭いものがどんどん勢力を拡大する一方で、まっとうなものが崩れていったりする。

すると、人はロールモデルを失ってしまう。

1970年代は、生涯未婚率は2%ぐらいだった。

それが、今や男性は12倍(24%)、女性は7倍だ(14%)。

 

とりあえず食えれば良い。

とりあえず家族のために働く。

それが崩壊している。そもそも、資格とってもサラリーマンやってもどうなるかわかんない、そんな世の中だ。

 

あっ、でも誤解の無いように。どれだけ落ち目だって言われていても、トップ3%ぐらいに食い込めば、オワコン路線でも、たぶん、全然やっていけると思う。でも、10年後どうなっているかわからない。さっき、10年前の就職企業ランキングを見ていたのだけれど、その当時は結構、メディア産業が入っていたが、今は見事にごっそり抜けている。そうだ、10年前はスマホもYoutuberも無かったからね。

 

例えば、このテキストは東京大学に行けるような人に向けては書かれていない。あのぐらいのレベルに食い込めば、崩壊しつつある旧来の生き方、無難な生き方でも、何とかなるとは思う。

とはいえ、弁護士や医者がやたらメディアに出るようになったり、東大医学部在学中に会計士試験と司法試験とかに受かっちゃうような人がメディアに出てきたり、「美人すぎる臨床心理士」とか「美人すぎる医者」とかが話題になったり、パラレルキャリア、経歴モンスターみたいなものが目立つようになったのは、ある意味、そうまでして、売り物を作ったり、世の中にPRしないとやっていけない世界なのかもしれない。

2013年頃に流行ったこの書籍で予言されていた内容を思い出すね。

 

そんな世の中で、俺なりに考えてきたこと、実行してきたことというのをお話ししてみたいと思う。どうやら、世の中の人によっては、「大企業リーマンにならないと、公務員にならないと、怪しいカルトに騙されているような、道を踏み外しているような不安な心境になる」という人がいるからね。

 

新興宗教の会合に出席したことがある

大学時代、芦部本を読み漁って憲法を勉強していた身として、普通よりは「思想の自由」「信教の自由」「言論の自由」みたいなものを重んじているつもりだ。自由に生きたいとか、自由に生きてると吹聴する人たちはたくさんいる「軽々しい連中」はたくさんいると思うけれど、私はその軽々しい連中の中でも、自由に対する思想の根源に学生時代の法学の勉強があったりする。

だから、「少しは」考えている方かもしれない。

だから安心して欲しい。

人間は好き勝手に思想してれば良いと思う。公共の福祉に反しない範囲で。

 

大昔の話なんだけれど、親が親の知り合いとの付き合いで新興宗教の会合に参加するということで、連れて行かれたことがある。

(ちなみに、大人になってもキリスト教やらモルモンやら、イスラムやらいろんな信徒に勧誘されていろんなところに連れて行かれたことがある。外国人に友達が多いとこういうのは割と普通だ。)

その当時の私は、「THE・無宗教国家、日本」の典型的な日本人にありがちな発想として、「非科学的だ」とか「怪しい、胡散臭い」みたいな気持ち全開でいた。「神がいるなら、なぜ悪人は裁かれないのだ」とか「神がいるなら、なぜこんなにも不幸な人が溢れているのだ」みたいな、ありがちな発想をしていた。

まぁ、だから全然乗っからなかった。

多分、今思えば、シンプルに必要が無かったのだと思う。ああいうのは、生きるのに苦労していない子供の段階では、そんなに必要が無い気がする。

 

あんまり、両親にコミットしてなかった

詳しいことは省略するけれど、私は、家庭内の不和とかも色々あって、小学校高学年〜中学校ぐらいから、精神的な拠り所を家庭の中に失っていた。別に虐待されていたとか、家から追い出されたとか、そういうことではなかった。ただ、なんとなく虚しさがあった。心に虚無感があった。心が乾いていた。それを埋めるように、他人を求めた。なんとなくそして、友達との繋がりなどを求めていく中で、外の世界を知った。恋愛もした。早かった。俺の心は欠乏していた。

友達ってなんだろう?

人によって、友達の定義は違うけれど、ほとんどの場合、「過ごして楽しい人」「一緒に遊ぶ人」ぐらいのライトな付き合いだと思う。

でも、私の場合、精神の拠り所みたいなものを求めていたから、「深いレベルで分かり合える人」「心を交わせる人」「いろんなことを打ち明けられる人」というのが、私なりの、深い友達・親友の定義だった。

だから、仲良くなる人にはいろんなことを打ち明けたし、いろんな哲学とか思想、他人の感覚みたいなものも、自分の中にガンガン取り込まれて行った。ある意味それは、親から離別して、外の世界のものを取り込む作業だったと思う。

恋愛を通しても、いろんな風が入って来た。

 

恋は強烈だった。

生きる意味とか、価値とか、喜びとか、生きがい、生き方を探る上で。恋は強烈だった。強烈すぎて、身を焦がしそうになったことが何度でもある。神に近づきすぎると羽が燃やされて地に堕ちるらしいけれど、そういう体験は恋愛の中で何度もあったような気がする。

物心ついた瞬間から、恋愛は正義だとされる。

普通の行為だとされる。

ドラッグやら、パチンコやら、酒やタバコ、暴力はいけないとされる。メディアでの描写も注意が払われる。その一方で、恋愛はお構いなしだ!恋愛せよ!異性を追え!結婚するのが当たり前だ!カップルになるのが男女だ!そういう価値観は四方八方から飛んで来た。

多分、ある年齢まで、私も、「いわゆる普通の、幸せ」とか、「普通の生きがい」みたいなものに見事にフィットしてたし、「結婚しない奴は負け組だ!!」「独身は可哀想!!」みたいなことを思っていた。

いつからだろう?

変わったのは?

フラッシュモブなんて、臭い。

臭すぎる。

そこには、人工的な匂いしか感じない。現代的な、偽りの何かを感じる。リアルじゃない。きっと、昔の人は、こういうのを見て、むず痒さを感じる。こっぱずかしい感じがする。そんな感じだ。何か、何かが違う。乗せられている。

育ちの違いか?

 

心に触れてもらえない。それは、幸せじゃない。

多分、シンプルに、「コレじゃない」ってなる時、誰もがあると思う。

幼い頃、何も考えずに取り憑かれていたもの。

若い頃、なんとなく惹かれたもの。

感動して、胸をときめかせて追いかけたもの。

つまり、俺の人生は、どこかで迎合しちゃっていたのかもしれないね。どこかで、子供心を失って。自分らしく生きる勇気を失って。自分の好きを貫き通せなくなって。どこかで折れて。でも、折れた先にできた「それらしい自分」が許せなくて。ムズムズしていて。つまらなくて。それで結局、生きづらくなっちゃって。

でも、それはそれで発見だったと思うんだ。

できないことはできない。

続けられないことは、続けられない。

心の声を聞けよ!俺!!!!!

 

何も信じていない、洗脳されていない=ガッツリ、ヤラれてる

ゲンキンな話しよう。

神頼みってどんな時にすると思う?

・・・・・・。

そう。辛い時だ。どうしようも無い時だ。絶望の淵にいる時だ。

こうやって考えると、何かしらの信教というのは、相当しんどい場面に出くわしている人であったり、人生の荒波を落ち着いて渡っていきたいという思いがある人にかなり欲されることがわかると思う。

私も、レールを歩いている時、「自分は普通だ」という自負があった時は、何も思っていなかったけれど、何が正解なのかわからない暗闇に飛び出せば、何か、拠り所がいるということに気付いた。

たぶん、何も信じていないとか、洗脳されてないと断言できるのは、そんなに難しい状況にいないからだ。チャレンジしていないからかもしれない。

・・・・そして。

いつか、気付くことになる。

「自分はニュートラルだ」「自分は中間だ」「自分は純白だ、染まっていない」という人に限って、実は何かに傾倒している。事実、私がそうだったのだから。

 

勉強の効用

何のために勉強するのか、というのを考えてみてほしい。

最近、学校の意義とか、大学に行く意味とか再考されるようになってきた。私からすると、実務的な意味ではかなり意味が無いと思う。学校教育は。

でも、教養を身につける意味では良いと思う。多分、これが洗脳社会を前にして判断する拠り所になるんだ。私が見る限り、思想や信教上の拠り所が無い人たちは、結構、学識なんかに頼っている人が多いと思う。

学校で習うことを、大雑把に7科目に分類してみよう

  • 国語 (読解、創作、話術、精神世界、文章、哲学、心理、感情)
  • 数学 (幾何、代数、関係と構造、解析、論理、統計、確率)
  • 理科 (化学、地学、物理、生物、コンピュータ、工学・工作)
  • 社会 (政治、経済、歴史、法律、経営、経済、組織、環境)
  • 英語 (海外事情、海外文化、宗教、為替、国際関係)
  • 保健体育 (スポーツ、セックス、本能、食事、武道)
  • 芸術 (音楽、絵画、武芸、舞台、色彩、建築、ファッション)

実は、何らかの判断基準を得るとか、拠り所を得るという意味では、学校の勉強は使える。土壌が豊かになる。

まず、「社会」は使えるって、直観的に誰もがわかると思う。資本主義とは何なのか。社会主義・共産主義とは何なのか。世界史はどうなっているのか。日本史はどうなっているのか。日本の経済は。世界の経済は。世の中の仕組みは、権力統治は、政治・行政・選挙の仕組みは。

こういうものは間違いなく、拠り所になる。

数学も頼りになると思う。というのは、統計データを集めたり、構造を見たり、予測モデルを立てたり、コスト計算をしたり、そうすることによって直観に反する事実が浮かび上がってきたりする。例えば、年金制度の破綻を見抜いたり、テレビCMでガンガン広告を打って急成長しているビジネスの事業モデルを調べて、国内市場における浸透率などについて仮想モデルを立てれば、旬がいつで、ピークアウトはいつか、なんてことはすぐにわかる。特に、日本企業は大抵、ガラパゴスだから計算は簡単だ。

例えば、国内における経済成長期に、経済力が上がっていく各家庭に対して白物家電や黒物家電を売りさばくことで大きくなっているメーカーがあるとしよう。単純に、人口マーケット、所得、買い替え需要、国際マーケットでの状態、こういうものがわかれば、ある程度、分析は可能であるし、現況としてその構造の中でどういった組織構造をしているのかを分析すれば、「組織は戦略に従うけれども、戦略は組織に従う」側面もあるという、歴史的な事実と照らし合わせることで、どのようなミスを犯しかねるか、またそのミスによって、従業員がどのような損失をくらうことが考えられるか、色々予測は立てられる。

自分が起点になって、組織改革をする気が無い・その度胸が無い、影響力を行使できないのなら、波に乗るだけなのだから、しっかりと現状の組織メカニズムを理解しておく必要がある。

日本人の悪いところは、官僚を見てればすぐわかる。個人としては有能だけれど、集団になれば方向性を間違える可能性がある。忖度の嵐。改革の急先鋒になって、矢面に立つのが怖い、首を切られるのが怖い、権力で制裁されるのが怖いんだね。

つまり、日本で生きていく上では、国民性を十分理解した上で組織構造をよく理解しておく必要がある。権力者、ジジイ・ババア、現状の組織構造によって、方向性を間違え、最終的に突然死する。これは日本人で構成された集団にありがちな話だ。

だから、橋下徹氏や、ホリエモンみたいなのがレアなんだ。

 

日本人が弱い、理科と英語

さぁ、そして、英語だ。

実は、この英語が何より頼りになる。というのは、海外に出れば、日本メディアから解放される。日本語メディアから解放される。すると、そこで初めて、自分が鳥籠の鳥であったことに気付ける。外国人との交流によって、新しい視座も手に入れられる。世界が広がる。

洗脳に対抗するという意味では、数学、英語、社会は武器になる。洗脳に対抗するというか、自分なりの道を切り拓いて行く上ではね。Youtubeなんかを観ていると面白いよ。日本人を、外国人がどう見ているのか。そういうギャップがたくさん見つけられる。海外メディア、洋書などに触れていると、ググッと世界は広がる。

私の知り合いに、

お前たち日本人は国家洗脳をかけられている

と面白いことを言ってくるロシア人やアメリカ人がいるのだけれど、彼らからそんな面白い話を聞かせてもらえるのは、英語の賜物だ。日本に来ている外国人は、ある程度、親日だとか、日本通だとか、そういうことを考慮する必要がある。日本になんて見向きもせず、自費で旅行なんか行きたくも無いと思っているような連中と交流することで得られる視点は新鮮だ。

そして、Youtubeに関連して言うと、Youtubeは理科のメディアだと思う。

https://youtu.be/QH4VHl2uQ9o

コンテンツとして受けるのが、理科的なものが多い。「実験したらどうなる?」「この先どうなる?」「実際はどうなんだ?」「本当のところどうなんだ?」というものが人気がある傾向にある。

今、最も稼げる教科は理科系と言っても過言では無いのでは無いだろうか?

  • 地学
  • 化学
  • 物理
  • 生物
  • 工作、システム化
  • コンピュータエンジニアリング(プログラミング等含む)、コンピュータサイエンス
  • そのほか、コンピュータアート系(CG、Photoshop、イラレ等)

まさに理系の時代である。

フィールドワークの精神、実験の精神、ものづくりの精神、工作の精神、調査の精神。

そして何より、Youtuber的な生き方が理科的なのだ。彼らは、実験魂、遊びココロ、チャレンジ精神で生きている。リスクを背負って、日々挑戦している。

何がウケるのか?何が盛り上がるのか?実際にやってみたらどうなのか?そのPDCAサイクルを回しながら、実験的に仕事をして行く。実験的に生きて行く。

STEAM教育の時代なのかもしれない。STEAM教育、という言葉がある。

  • Science
  • Technology
  • Engineering
  • Art
  • Mathematics

この資格を取れば良い、この大学に入れば良い、この会社のペーパーテストと面接試験を突破すれば良い、みたいな発想が通じにくい時代なのかもしれない。本当の教養が試されている。

 

まとまりが無くなって来た・・・・・・

何が言いたいのか、わからなくなって来た。

とりあえず、俺は、いろいろ考えた挙句、現実的に見て、

「資本主義に迎合しないと、何も回らない」

ということに気づいてしまった。

 

生き方に迷ったりして、何かしらの思想・信条にコミットしていく。それには、なんというか、この世界で普通に働いて生きることを外さないという暗黙の前提がある。でも、俺はそれを壊した。

人間は、何かしらの思想信条を胸に生きていくけれど、私は、現実世界の仕組みを調べ尽くした上で、それにフィットした思想を持つようになっていったんだ。

 

次回以降、資本主義に迎合したストーリーを紹介していこうと思う。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。