まず、個人的な事前の読みと直感通り、全体感としては前作よりクオリティが下がったものという印象である。というのも、前作とほぼ同じ外観で販売しようとしている時点で嫌な予感がしていたが、予想通り、焼き増し的な内容であった。
「売上を増やすにはどうしたらいいか?」
については、ほとんどの人にとって得るものはなく、また本書の内容を実践して成果を得るのはほとんどの人には不可能であろう。
森岡信者は、勉強した気になって、”病状”が余計深刻化するだけだろう。
本書は、
・氏の会社(刀)の宣伝本
・ジャングリアの宣伝本
・森岡ブランドエクイティの”メンテナンス”本
というのが実態ではなかろうか。
書き手自身で暴露しているが、著作第一作の発刊の時から、自らが関与する事業の宣伝目的の出版という多用してきたおなじみの戦術を今夏オープンのジャングリアに向けて使ってきた、というところだろう(あるいは出版社側が便乗を狙っている)。
“森岡毅 必勝の法則 逆境を突破する異能集団「刀」の実像(日経BP)”
も出版のタイミングがほとんど被っているため、今夏ジャングリアオープンの下ごしらえとして書店店頭配架での宣伝を狙っている。そして、PIVOTやら何やらにPR回りして、また林修の番組に出たりするのではなかろうか。
具体的な内容について触れる。
まず、「ド文系」「非大卒」には理解が難しいと思うが、
・全称命題(全てに当てはまること)の証明はほぼ不可能
・無いことの証明はほぼ不可能
というのは科学・論理の基本である。
「すべての猫は二足歩行できない」
という主張は、すべての猫をかき集めて証明しないといけず、事実上、無理である。
よって、前作(青本)で、「負の二項分布」を持ち出して、”全てのマーケットに当てはまる神の一般法則!”と言わんばかりの切り口を見た時から、氏に対する胡散臭い印象を持ち続けている。
非常に悪く言えば、理系・数学の悪用、もっと悪く言えば「エセ科学」の香ばしさである。
前作から、
「負の二項分布が当てはまらないケースもある」
と注意書きがあった分はまだ親切ではあったが、前作から今作も一貫して、「法則が当てはまるのが原則であり、当てはまらないのは一部、極めて例外的な特殊事情」として、この法則が絶対というニュアンスを残し、さらにはコトラーを当て馬としてその旧世代やコトラー信者を批判しつつ、「ターゲット矮小化は低レベルマーケターの愚策」と森岡信者を焚きつける内容は前作と変わらない。
ここが論理的に罪深いのだが、
「原則はこれ、だが例外もある」
といった前提の置き方はどのような主張もできてしまうため、論理的にはほとんどインチキに近い。加えてこのスタンスをとりながら攻撃的批判に使うのは、さすが「口喧嘩でアメリカ人に負けない(林修の番組での発言より)」と自慢するだけある。
また、論理的には誤った仮定・前提をおけば、どのような主張も論理的に可能である。私は、仮定・前提レベルでの違和感を前作から持っている。
氏には、論理的に高度な欺瞞を感じており、その隠しきれない攻撃的な性格から、危うさも拭いきれないというのが個人的な所感でもある(そもそも著者は”数学”を印象付けているが、今西氏と違い、文系学部卒である)。
今作ではネタ元であるバイロンシャープに本文中できちんと触れていたが、前作(青本)では小文字での引用で終わっていたと記憶している。このバイロンシャープが提示した「マーケットは負の二項分布している」、という話であるが、実はかなりしょーもない話ではある。
まず統計・確率の説明からせねばならないだろう。
既に触れた通り、”全ての事柄がこうだ!”という主張は論理的には事実上、困難であるため、
「●%の確率で当てはまる」
という範囲限定的な主張をする必要があり、そのために統計確率が用いられてきたというのが科学史である。つまり、統計確率が用いられた時点で、現象の基底にある構造はよくわからない(一意に確定できない)、ということである。
科学・数学の世界では、歴史的に統計・確率は長らく”邪道”とされてきたが、それはこの曖昧さにある。
そしてこの統計・確率的な近似というのは、あらゆる「パターン(統計分布)」があるのだが、ガンマ分布にしろ、負の二項分布にしろ、指数分布・幾何分布、正規分布、・・・・なんでも良いが、名前・種類は数多くあれど、だいたい、同じようなことを指している。
文系にもわかるように雑に言ってしまえば、統計分布というのは
・だいたいこの辺に収束する (身長など)
・ちょっと偏る (年収分布など)
・だいぶ偏る (売れているコンテンツタイトルなど)
という感じでいくつかパターンがある。
この傾向論をもとに、当て推量をするのは誰もがやっていて、
例えば
・身長2mの人間はほぼいない
・人はだいたい80歳くらいで死ぬ
という類の日常的な予測も統計的予測の一種である。
もう少し専門化すると、
・●年以内に南海トラフ地震が起こる確率は●%
・●年以内に首都直下型地震が起こる確率は●%
というような予測ができる。
「生理予定日から、1週間、生理がこない、妊娠している可能性が高い」というのもその類の予測である。
この分布自体は、大した話ではない。分布を用いて、応用的に計算に発展させ、その予測精度を上げると、文系からすれば魔法のように感じるのかもしれないが、統計的な予測は、厳密な予測ではない。
統計分布とは、現象の発生パターンを近似したものである。
統計分布から、その分布で近似される現象のメカニズム=基底構造について逆算的に考えることもできるが、あくまで限定的・曖昧である。
もう少し突っ込んだ話をすると、統計を使えば、「精度高く当てられること」と、「ふんわり当てられること」がある。
森岡・今西コンビや刀には、精度高く当てることやその応用について、技術があることは否定しない(しかし彼らが公表する数字の多くは疑義がある)。
基本的には、統計的な大枠の捕捉と、これを補う形でコンセプトテスト、消費者アンケートなどを行い、それらデータとの整合性や、過去の経験・学習から紐付けを行うことで精度を上げていくことは可能で、実際著者も統計的近似だけではなく、あらゆるテストデータや関連指標も観察しながらマーケを行っているだろう。
一旦まとめると、
・森岡氏の主張は、全称命題(全てに当てはまること)ではなく、原則や例外があるという「何とでも言える前提」をおきながら、都合が良い部分はこの前提をもとに、既存理論への批判的主張を行っている
・その「大体のことに当てはまる」と主張する原則自体が、統計確率論という曖昧さ
という問題を抱えている。
ここで一旦、拠り所であるその原則(負の二項分布)について触れよう。
前作から今作に至るまで、一貫した森岡主張(ネタ元バイロンシャープ)は、
(1)頻度とシェアは共変関係である
(2)(1)より、ターゲットシェアを狭めてロイヤリティを高めるは愚策である
というものである。そしてこの数学的担保に、「マーケットは負の二項分布している」というものだ。
“コカコーラを毎日飲むヘビーユーザーは少ない”
“ほとんどの人はコカコーラを年間に数本しか飲まない”
“コカコーラが成長したければ、ヘビーユーザーにこれ以上飲ませるより、飲まない人にシェア拡大したり、年間1本飲む人に2本飲んでもらった方が良い”
という結論が、負の二項分布からは導かれる、みたいな話である。
意識高いカタカナ語・英語を並べて煙に巻く・カルト的求心力を得るのは、氏の古巣であるP&Gのお家芸、もっというとその辺の意識高いベンチャー企業でもよく使われているが、優しく言い換えると、
”人気者(人気のブランド・商品)は、たくさんの人に支持され、たくさん買われるよね”
と言っているだけである。
確かに昔のUSJのように、一定程度集客をしなければ、収益採算の観点から成立しないビジネスにおいて、不要にターゲットを狭めている基本路線を改変するのは効果がある。また、これはUSJのライバルであるディズニーリゾートがやってきたことでもある(ディズニーに、ハードな絶叫系が無いのは老若男女を集めるためである)。
だが、これを知ったところで、
「お客さんは広くとったほうが良いよね」
という自明の話にしかならない。そして、これが現実的に行えない、リソースに限界がある、という諸般の事情から、氏やその一派が否定してきたコトラーのSTP理論などが古くから重宝されてきた。
厄介なのは、焚き付けられた
「森岡信者」
が各地で、
「ターゲットを狭めるのは愚行だ」
と反乱を起こし、さらには、自分の所属の雇用関係を無視して、”うちの上司はエビデンスマーケティングを知らない、教祖森岡様のお話と反している”と「エビデンスも何も知らない人間たち」が暴れ出すことである。実際、この手の人種を見て、閉口した人は多いのではないだろうか。森岡本を引用して謎のマウンティングをしている恥ずかしい大人を見かけたことはないだろうか。
“満州は日本の理想郷!大陸進出せよ!”
と暴れ出した青年将校・急進派に引きづられて泥沼の大東亜戦争・敗戦みたいな流れに引きづられるムーブメントのようなものを生み出すかもしれない。
いい歳した大人が、
「ビジネス書に書いてたから」
「あの凄い人が言っていたから」
と振りかざすのは結構、恥ずかしいことだと思うのだが、なぜか森岡信者にはこの手の人種が大勢いる。
「うん、わかった、じゃあどうするの?」
と多くの人は聞き返したいだろう。
実際、著者は、前作でそのような突っ込みを多々受けたため、本書が”アンサー”らしい。
アンサーは、
・ウケるコンセプトを考えよう!
・でも、自社優位性が取れないとターゲット拡げた分競争に勝てないね!
・広さを取りつつ、独自性も取ろう!
という感じで、3つの円が重なるポイントを探そう、みたいなベン図が提示される。
それを、「こんぴてーてぃぶえっじ」「かんぱにーでぃふぇんす」「こんせぷと」などと言って、”人間は認識の世界に生きている!” “価値は認識なのだ!” “作り手の想いが伝われば・・・”などと、つらつら続く。
なるほど!
つまり、宣伝に見えない宣伝本を出して信者を作り、マスコミに取材され話題を作り、なんか人気のあるブランドと協業を持ちかけてIPを寄せ集めて、あとはなんか凄い3Dで「認識で遊ばせる装置」を導入!・・・
と、森岡氏の過去の打ち手から見えてくるソリューションを知り、「ズコーッ」とずっこける、みたいな感じである。
森岡氏は実績があるからまだ良いが、森岡本を公理的に扱って、「私は論理・科学的な真理を言っています、それあなたの感想ですよね?」的なひろゆき的な喋りをするコンサルをあちこちで見かけないだろうか?そして提供される打ち手が無い、弱い、酷い。
満蒙理想郷論から泥沼化、敗戦に転じた過去の日本のように、
「森岡毅やバイロンシャープに影響を受けたっぽい恥ずかしいおじさん」
が真似っこの書籍を書いて、
「すべてのマーケティング本・ビジネス書に疑問がある人へ」
などと敷居を広げて、結果、レビューでボコボコにされているのをちらほら見かける。森岡信者の悲しい末路である。
ご想像がつくかと思うが、
「シェアが大きいとロイヤリティも大きい」
というのは結果論である。
ここで伏線を回収するが、私はこれは、個人的には疑似相関だと思っている。
いわゆるダブルジョパティ(シェアと頻度が連動する)には、実は数学的には、これが発生するあるメカニズムがある。著者はこれを「ブランドエクイティが・・・」と言っているが、確かにそれもその通りなのだが、時間軸をとって流れを見るとこの相関の背後にある因果は、実はややこしい。おそらく、森岡信者は「水平展開すればロイヤリティも伸びる」と思っている人間が大方だろうが、「ロイヤリティを取ったから水平展開できた」とも言えるパターンもあるのだ。
そしてこれを、「プレファレンス(選好)」と言われてしまうと、”どっちとも取れる”のである。
実際、自営業の方や、事業責任を持っている方で、垂直展開をしていたら水平展開もできた、という経験がある方も多いのではないだろうか。
詳細は差し控えるが、「シェアと頻度が相関する」といっても、シェアを拡大すれば頻度もついてきてブランド成長するとは限らない。というより、「シェアを拡大する」というのは「シェアを拡大するためにシェアを拡大する」と言っているのと同義、同義語反復であり意味がない。「Xを行い、シェアを拡大する、頻度も上がる」の”X”を求めて、多くの人は本書を手に取るのだろうが、このXが前作では「プレファレンスM=価格、体験、ブランドエクイティ」などとふわっとしており、今作ではこれは「まーけてぃんぐこんせぷと」に言い換えられているだけである。
おそらく、前作で消化不良感を覚えた人、そして今作で期待はずれだと思った人のモヤモヤはこれである。
そしてこれは当たり前である。
“確率思考の戦略論”というタイトルから、統計確率とは何であるか、という、私が上記した内容を引き出して突き合わせる教養水準のない知的弱者が読者の大半で、おそらく「何かわかった気になって何もわかっていない状態のまま、よくわからず神輿を担ぐ構成員」になっているであろうからだ。
世界株式時価総額ランキングTOP20のP&Gに入社後、誰もが知ってるUSJに転職、その後名を挙げてコンサルティング事業を行う、というように、本当の意味でゼロから事業を立ち上げたことがなく常に「看板」「知名度」の追い風が吹く環境で仕事をしてきた森岡氏にはわからないかもしれないが、一般に多くの企業は、何もないところから立ち上がる。
その大半は人間でいうと「流産」している。本当にごく一部の企業だけが生き残り、さらにその中でごくわずかな企業だけが大きくなる。
バイロンシャープも森岡氏も、サンプリングバイアスゴリゴリの統計データに依って立っている。
まさに、著者の出身であるP&Gが、ほとんどの人が採用で落ちる、採用されても数年で消える、さらに長居できるのも出世できるのも一部、という世界であるが、氏が各方面から受けているであろう「生存バイアス」という意見そのものなのである。
森岡氏のような一部の綺羅星の下にある無数の死体に目を向けない、ということは、これも統計初心者にありがちな初歩的な誤りである。
森岡毅ごっこをしている怪しい信者に
「論文、エビデンスが、ターゲッティングは愚行だと言っているっ!」
と言われてそれに乗っかるのは危ないのは言うまでもないが、森岡氏や氏が率いるコンサル会社・刀についても、懐疑点はいくつもある。
・提携時は大々的に発表し、息荒くビジョンや可能性を語ったが、こっそり提携解消しているクライアント
・有期契約を終えたクライアント、あまり実績として前に打ち出されていないクライアント
なども出てきている。
この点に疑義を申し出た方が、刀の担当者から注意されているようなやりとりもネット上にあるので、興味がある人は調べてみてほしい。
正直、この手の本がどれほど流行ろうが、口を挟む義理も、メリットも、理由もない。
ただし、冒頭3点で提示した弊害・実害が、最近、看過できないレベルにまできていると思う。というより、批判的言説、対抗言説を出せる人間が少ないのではないかと思う。
前作で語られていた通り、批判的意見だろうとなんだろうと、視点の多様性は対象の解像度を上げる。私は以上を持って、著者や著作、取り巻きに対する見方に対して、多様性をもたらしたい。
特に、
“沖縄を元気にする”
という大義で(おそらく、この大義すら、鼻についている沖縄県民は多いのではないか)、1000億の資金調達を実現させ(メガバン3行には断られたらしい)、実際に沖縄北部に投資がなされ、現地の環境構造の改変に動き出している。
森岡氏の有能性は否定しないし、全国・世界レベルで見て傑出した人材なのであろうが、この人材が沖縄という最も貧しい部類の土地に目をつけ、各資本を巻き込んだ動きを行い、
「移動3時間圏内にアジアの主要都市がほとんど入っている」
と言っているのだ。
よくわからず、あちこちに根回しされ、うねりに巻き込まれている人間がいるのではないか?
「沖縄をハワイにする」
と言うが、ハワイは昔から、観光でやってくる富裕層と、現地の貧民のコントラストがひどいところである。沖縄も若干、その気がある。
北海道のニセコはリゾート化し、外国人向けのビジネスが値上がりし、時給も上がり、人材が吸い上げられて現地の産業が干上がっている。エッセンシャルワーカーが不足している。
森岡氏は、
「沖縄の地元資本に還元する」
と言っているが、巻き込んでいる沖縄の地元資本のメンツというのが、言ってみれば沖縄で「財閥的な立ち位置」を築いているような会社群である。
沖縄の貧困というのは、
「日本の地方の貧困」
の縮図のようなもので、要するに日本各地、それぞれの地域に名家・地元の有力企業・インフラビジネスなどがあり、これらの関係者以外は
「貧しい、仕事がない」
というものを突き詰めた構図になっている。
だから人々は、仕事を求めて上京する。東京は比較的、中間層が分厚い。仕事の選択肢がある。これは大阪・名古屋についても同様で、それ未満の地方・田舎と比べると、中間層に選択肢がある。
高度観光人材を育てて、地元に還元する、地元雇用を生み出す、というのも聞こえは良いが、ここにも違和感がある。
まず、沖縄はもう現段階で、ハワイを超えている。ハワイを超える観光客が入ってきており、一日あたりの使用する金額もハワイと同等である。
アジアの中で、観光客が多い国は、1位がタイで、2位が日本である。つまり日本も沖縄も十分選ばれている。
そして、ジャングリアの立地は、那覇空港から移動で1〜2時間はかかる北部で、美ら海水族館の近くであるが、美ら海水族館の「価格」と「集客実績」を考えたとき、
・美ら海水族館の集客実績がベンチマークとなる
・美ら海水族館の価格帯がベンチマークとなる
はずであるが、
(いくら高度な理論を使おうと、実際の集客実現実績のデータほど確度の高いものはないため)
私は、ジャングリアについて、
1.美ら海水族館より価格が低いことはないだろう
2.価格が水族館よりだいぶ乖離して高いなら、美ら海水族館規模の集客ができない可能性がある
3.価格を美ら海水族館と近いものにすれば、美ら海水族館と同程度の規模の集客はできるだろう
と考えていた。
そして、
2.であれば失敗の可能性があり、
3.であれば「森岡氏が各所で熱く語るほど、沖縄を変える何かにはならず、単なる添え物程度で、ただ成功事例として踏み台にされるだけだろう」
と予想していた。
2の「高い価格」というのは1万円を一定の基準として見積もっていたが、1万円を超えるとなると、森岡氏が言うように、
“3時間圏内にアジアの主要都市がある”
ということは、アジアの人間は、ちょっと足を伸ばして大阪のUSJに行っても良いからである。
おまけに、沖縄の強みである海や島国風土ではなく、
「森と恐竜」
のために、わざわざそれを目的として沖縄をチョイスするか?また、もともと沖縄に来ていたような層が立ち寄るとしても、有限な観光日程を割くだろうか?その規模は何人?(テーマパークは少なくとも6時間は滞在するだろうから、結構日程が潰れる)と考えていた。
そうしたら、案の定、森岡氏はジャングリアのオープン日発表のイベントで、
「ジャングリアの次」
の構想を語っていたので、尻尾を出したな、という感じであった。
発表された価格帯は、1万円を割って、意外と安いゾーンだった。
つまり、美ら海水族館の集客実績を参考に、近隣に、あまり価格が乖離しない施設を作り、まずは同規模の集客を目指す、という路線である。
事前に発表されている人材募集の情報から推定しても(スタッフ一人あたり捌ける客の数をUSJやTDLのデータから類推適用)、美ら海の集客実績を鑑みても、
“とんでもない大規模集客をする施設”
を作るわけではない。
森岡氏が入社する前のUSJで集客は年間700万人規模で、美ら海が300万人規模であることを考えても、大阪のような立地を持たない沖縄の北部で、USJに匹敵する施設は難しい。
要するに、
「美ら海水族館レベル」
「美ら海水族館に付け足す添え物」
的な施設を沖縄北部に、比較的コンサバに作り、
“ひとまず成功”
という実績を作り、そして次にいくというのが森岡氏率いる刀の野望であろう。
しかし、それを実態以上に大きく盛り上げるために、
・ここまで辿り着くのに苦節何年、、、
・背後にはこういうロジックが、、、
・沖縄を変えて見せます、、、
といったことを各所で叫んで、「森岡物語」の仕込みに忙しい、というのが現在の状況であると私は読む。
だからこそ言いたいのだが、
・沖縄県民の皆さんは、これで良いですか?
・次の沖縄県民は、あなたの地域かもしれませんよ?
ということだ。
ジャングリアが成功となれば、またどんどん盛り上がり、”森岡株”が上がり、彼の野望はブーストするだろう。
しかし、
・言うほど、地元は盛り上がらないんじゃないの?
・言うほど、沖縄は変わらないんじゃないの?
・あちこちで称賛されてるほどではないんじゃないの?
というのが私の疑義である。
日本全国の人間が、森岡氏を持ち上げて、力を与えて、この構図の人間のほとんどは沖縄に縁もゆかりもなく住んでもいないのに、良いんですか?ということだ。
仮にとてつもなく集客に大成功すれば、京都のようなオーバーツーリズム問題が、ニセコのような問題が起こるかもしれない。
そもそも、沖縄は、地政学的に”超重要 “のため、アメリカも日本政府も手放さないし、ケアし続ける土地である。
誰かに煽られて
「自立型経済」
などを目指す必要があるだろうか?
仮に、経済的発展を目指したところで、言っちゃ悪いが大阪・名古屋・東京のように発展することはまずあり得ないし、これは沖縄に限らず、他の地方創生にも言えることである。
沖縄県民の方々は、全国トップレベルの貧困だと言われても、幸福度は非常に高いことも知られており、出生率も高い。
つまり、本土とは違う独自の環境が成立している。
私には、ジャングリアプロジェクトの意義がよく”わからない”のである。
最後に、森岡氏のパーソナリティについて抱いている違和感を語って締めとする。
私は、比較的早い段階で、森岡氏の著作を認知した。
第一作、第二作が出て、社会的にまだ話題になっていない段階から認知している。
「面白い人物が出てきた(公の存在になった)」
と思った。
以降、彼の言説について、あらゆるメディアを通してウォッチしてきた。可能な限り、周辺情報も調べた。
そして、追いかけるほど、
「違和感」
が蓄積していったのである。
論理的に破綻している箇所があったり、ツッコミどころが満載で、意外と言行一致していない。
もちろん、完璧な人間などどこにもいないのだが、私の目にはおかしな点が多数映るのだが、それに反して、あまりにも「持ち上げる人物」が多かったり、「森岡教に洗脳された人間」に違和感があったり、テレビ・出版・ネットでの扱いがとにかく気持ち悪い。
賛否はある程度、拮抗していた方が良い。
特に彼らがやろうとしていることは、物理的にも、環境的にも、何かを動かして変えようとしている。
===
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。