#2 個性を殺し、楽しさを奪う教育からは不幸な人生しか生まれない

生きていて楽しくないと思う理由は、シンプルである。

主体性が奪われているからだ。能動性が奪われているからだ。ありのままの自分が奪われているからだ。

子供の頃は、生きていて楽しいと感じやすい。しかし、大人になるにつれて楽しい事が減っていく。それは、我慢や協調、集団生活を教え込まれるからにならない。

 

部活や学校教育で教え込まれる楽しさは、私は社会的洗脳に過ぎないと思っている。すなわち、99%の苦しみを耐えた向こう側にある1%の快感。お勉強努力レースや、体育会系の部活、厳しい仕事の中で教え込まれる快感。これらは、ランナーズハイのようなもの。

社会のシステムを前提に綿密に仕込まれた、都合の良い快感教育に過ぎないと感じてしまう。

 

学校教育の手法と、カルト教育の手法は全く持って瓜二つと感じる。

 

楽しさというのは、自分が自然としてしまう事だ。

させられるものではない。

主体性というものと関わっている事だと思う。もちろん、すべての物事を、「楽しい事」「楽しくない事」に二分法で分けることはできず、グレーゾーンもあると思う。しかし、基本的に楽しい事は自分でやりたいと思うこと。楽しくないことはやらされることである事が多い。

 

基本的に、楽しさは他者から与えられるものではない。自分で見つけ出すものだ。楽しいと思う感情は、身体性に根付くものなのだから当然だと言える。もちろん、みんなが楽しそうにしていることに参加するのが楽しいと感じる人だっている。人から評価されるのが楽しいと感じる人もいる。

楽しさをアウトソースしている感じ。

 

しかし、「楽しさ」というものは、基本、自分の中から自然に湧き上がってくるものだ。だから、本来ならば、自然とやっている事が楽しい事なはずである。

ほら、これがあなたの楽しいことだよ、楽しいでしょ?

というのは明らかにおかしい。

 

ほら、自分がやっているこれが、僕の楽しい事だよ、というのが自然だと思う。

 

基本的に、学校教育や社員教育の中で、個性というものは押し殺されていく。場合によっては主体性だって奪われていくかもしれない。えらい人や先生の話を聞いていると、自分の感覚や思想が奪われていくかもしれない。そうすると、楽しい事が無くなっていってしまう。

また、日々の生活の中で、やらなければならないことで埋め尽くされていたり、お金がなかったり、時間がなかったりするとどうだろう。きっと、何かを楽しもうとする心の余裕だって無くなっているはずだ。

 

楽しくない、面白くないと感じるのは、外から押し込まれる人生が続いているからである。

自分を起点にして動いていないからである。

90%以上のサラリーマンが仕事を楽しくない・面白くないと感じているらしいが、ごく稀に、仕事をめちゃくちゃ楽しんでいる人がいる。

きっと、彼らは自分を起点にして動いているはずだ。自分が大好きだったブランドで働いている。ずっと憧れだった仕事についている。自分を起点にして組織を動かしている、など。

・・・・・・・もしくは楽しいと思い込まされているか。

 

人にはそれぞれ個性があり、やりたい事・したい事がある。これを抑制し、協調し合って、相互利益・全体利益を追求していくのが社会の基本的なシステムである。そして、昔は「個性」といったものが邪魔であった。みんなが個性を押し殺して、相互利益・全体利益を追求していくのが世の中の基本的な仕組みであったのである。

工場に人員を集めて、ひたすら作業をさせていたような時代を思い出して欲しい。

しかし、時代は変わった。そういう仕事は機械が代行するようになっていったし、その代わりとして新しい仕事が生まれた。

昔なら「遊び」とされていたような仕事がたくさんある。江戸時代の基準で言えば、遊びのような仕事だ。人間にしかできない、創造的な仕事が増えた。

それが朗報かはわからない。

遊びや楽しい事が仕事に置き換わる不幸というのはある。それなりの別の苦労があるのかもしれないとは思う(youtuberやスポーツ選手、AV男優が常に楽しいとは限らない)。

 

しかし、芸能人や芸術家を見ていればわかるように、生活に直接必要のないものを生産しない職業が増えている。

書籍、漫画、雑誌、服、スイーツ、飲食、アクセサリー、テレビ・・・・・・・。

本当に、ダイレクトに生活必需品と言えるものは少なくなっているのだ。そういう世の中になりつつある。

 

だんだん、仕事というのは面白いものになりつつあるのかもしれない。

楽しい事が仕事にできる時代になりつつあるのかもしれない。

少なくとも、苦役のような仕事は減ってきているのでは無いか。

 

もちろん、そうじゃない領域も未だたくさん残ってはいるだろうけれど。

 

衣食住に関わるものの生産というのは、時代と共に機械化されている。合理化されていっている。肉体労働も機械にとって代われていく。流通やサービス業の従事人口は増えたけれど、情報化社会が進めばそういうビジネスも無くなっていく。ディスインターミディエーションは進んでいく。

すると、人間でしかできないサービス業、もしくは生存に直接関係しない、「遊び」「娯楽」の産業が膨らむ。規模が大きくなる。贅沢さや快適さを求めるようになっていく。そして、その中でも生産者だけが残るであろう。

 

仕事というのは、基本的に交換である。

相手が欲しいものを提供して、その対価として何かを得る。

医者が売っているのは健康だろうし、ボクサーが売っているのは人を楽しませる刺激だろうし、お笑い芸人が売っているのは笑いだと思う。高い稼ぎを得ている人が他者に与えているものを抽象化して見ていくと、案外、高給取りというのは「生きる上で必ず、必要とは限らないもの」を売っていたりする。

 

基本的には、どんな仕事でも、他者が欲しいものを売る。それと交換でお金をもらう。ただそれだけのことに過ぎない。これが基本原理だ。そして、たくさん儲けたというのは、たくさんの人に、欲しいものを与えた結果であると思う。

人が欲しいものは、時代の影響を受ける。外的なコンテクストに左右される。世の中の流れ、変化はわかっていないといけない。多分、今生きていて辛い人たちは、世の中の流れに乗れていないのだと思う。時代の価値観が、テクノロジーが、多様な働き方を実現可能にしているのに、大衆の常識や過去に引きづられながら我慢して生きている。結果として、昔のロールモデルに沿っているのにも関わらず、昔より報われておらず、未来が不安で、報酬も下がっている、みたいな。

 

もし、人生に楽しさを取り戻したいのであれば、そういう時代の大きな流れを読んで、なるべく個性を殺さない・自分を殺さない領域を探した方が良いのでは無いだろうか。

あるいは、そうやって豊かになった現代人に対して、贅沢や快適さ、楽しみを与え、シェアするようなビジネスにシフトしていくと良いのではないだろうか。

時代もテクノロジーも変わっているのだから。

 

ただ、各自が得意なことを仕事として選択する必要はあると思う。その方が、社会全体の生産性が上がるのは経済学的に証明されている。向いている仕事の方が、個人としても社会的評価を得やすい。

みんながやりたいことではなくて、自分が秀でているものを職業にすると、全体の生産性は上がる。結果的に、社会がより豊かになる。

しかし、人は自分で何が得意かわからない。好きなことさえわからない人もたくさんいる。仕事はやってみないとわからない事がたくさんある。それと、個人の願望としてやりたい事が、自分の得意なことと一致するとは限らない。

 

ただ、人のやりたいことなんてのはコロコロ変わる。結構、コロコロ変わる。

そして、得意なことというのは割と変わらないものである。

 

まずは、自分らしさを取り戻してみてはどうか。

自分が何を楽しいと思うのか。

何が得意だと思うのか。

自分の個性はどうか。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。