生きていて、「世の中おかしい」の根源にあるのは、借地借家法、会社法・商法、労働法、民事再生法(住宅ローン特則)が遠因である。

 

生きていて、

世の中おかしい

と感じる根源・遠因は法律。

 

たとえば、借地借家法は、オーナーの権利をめっちゃ制限している。これは、借りる側を保護する方向に働く。

結果どうなるか?

オーナーの審査が厳しくなる

のである。

 

これが日本社会における、「独り立ち」が難しい理由。

つまり、一回貸したら借り手は強烈に保護されるから、貸す側はかなり慎重になる。審査を厳重にやる。結果、まともな職業についていないと厳しい。

 

借りて仕舞えば保護されるが、借りる前が厳しい。

結果的に、

今緊急で実家を出ないといけない人

みたいな人が保護されない。

 

そしてこういう人たちが、セーフティネットを求めて、裸・身一つで飛び込める夜の街とかに救済されている。キャバクラなんかはキャバ嬢が賃貸審査を通れるようにアリバイ会社を用意して、そこで雇用している証明を出したりする。

 

似たようなことが、会社の採用でも起こる。

会社は採用すると、簡単にクビにできない。

なぜなら、労働法でめちゃくちゃ守られるから。結果的に、採用は採用前が厳しくなる。正社員を採用する前には凄まじい面倒なプロセスがある。エントリーシートを書け、グループディスカッションをしろ、面接の茶番に付き合え・・・。

採用される側も、

正社員既得権益

をめがけてあれこれする。対策する。キツネと狸の化かし合いである。

 

解雇できない代わりに、会社はサラリーマンの人生をガッツリ握り、人事を好きなように命令できる権利がある。

だから日本人は、「失業率は低いが、人生の自由度はない」という会社に骨身を埋めるスタイルになる。

また、正社員が、

先輩上司より先に帰ってはいけない雰囲気

みたいになるのもそれで、たとえば業務委託や、本来の派遣社員の理念としてのプロフェッショナル契約とは違い、「とにかくクビにするな、雇用を維持しろ」という制度が、正社員の仕事の領域を曖昧にした。

クビにしてはいけない代わりに、会社は労働者を牛耳ることができ、その労働者の給料を毎月安定して払うために売り上げを安定して将来も稼ぎ続けなければならず、ゆえに給料は低く据え置かれて、暇があれば働け、仕事を増やせ、というスタイルになって、「業務範囲が不明瞭」になる。

契約が、「仕事の契約」というより、「その組織に属する契約」になる。すると仕事の終わりや境界線がない。

これが正社員の苦しさである。

 

商法・会社法では、外観法理があって、

会社が外向けに、それっぽい責任者を立てた場合、責任者がやった外に対する行為は、たとえ、社内ルール違反でそいつに権限がないとか立場がないとしても、責任を負わないといけない

ということになる。

結果どうなるか。

営業担当、営業責任者、●●長みたいな立場の人間は、下手すると外との取引で会社・組織を壊しかねない。だから選定に慎重になる。

 

だから、

  • 会社で長く勤めてきたか?
  • 過去、同じような経歴があるか?
  • 問題を起こしていないか?
  • プロパーか?ホッパーか?

みたいなことを厳しくチェックする。リファレンスチェックがある。

これが会社員の息苦しさにつながる。

会社員は失敗してはいけない。ずっとルールを守り続けないといけない。

 

 

民事再生法には住宅ローン特則がある。家は生活の基盤だから、特別に保護されている。

これはどういうことか。貸してる側に負担がくるのである。

 

たとえば、金利が上がった世界で何が起こるのか。まず、信金からやられる。信金は地方の中小企業を相手にしているが、貸し先がなくて国債ばかり握っている。

金利が上がると、手持ちの債券は安くしないと売れないのだ。つまり時価評価額が下がる。

金利が高い世界がやってくると、信金への預金を剥がして、何か金利の高い商品に金を移そうみたいなフェーズがやってくる。そのとき、取り付け騒ぎとまでは言わないまでも、お金をおろしたい人が増えると信金は持ってる債券を決済しないといけない。すると含み損が出るのだ。こうして信金が弱ると困るのは地方零細企業である。

地銀、メガバンはまだ体力がある。貸し先がある。むしろ金利が高いので儲かる。貸した金利が上がるから。

 

一方で、住宅ローンを組んでるような個人については、変動金利を組んでいても、実は変動金利が反映されるのは一定の時間間隔による。結果的に、金利がある世界においてどのような変動が連鎖するかというと、

信金と地方零細→地銀→メガバン→個人

という順だが、ご覧の通り、やっぱり個人とその住居は手厚く保護されている。

そして、民事再生法の住宅ローン特則でもあるように、やっぱり個人は最後の最後まで守られる余地がある。つまりこれは、「問題が先送りされる」ということを意味する。先送りされて、どんどんマグマが溜まり、爆発する。

 

つまり、この流れで言うと、不動産業界へのダメージはかなり後から効いてくることがわかると思う。

 

 

 

何が言いたいか?

法律は、経済の自然の法則を歪める

のである。

 

酒を法律で禁止したらアングラビジネスの世界で高値取引される材料になる。

売春だってそう。

 

法律や税制がどこかに介入すると、その歪みがどこかに別の形で噴出するのである。

 

そこに、我々が普段感じる、

おかしい

みたいな違和感が生まれる。

 

 

さらに厄介なのは、法律が単に経済活動を制限するだけではないことである。

法律は、人間の行動を変え、企業の組織構造を変え、資本の流れを変え、そして社会の勝者と敗者まで変えてしまう。

たとえば、相続税。

資産を持っている人が亡くなったとき、その資産の一部を税金として徴収する。富の世代間固定化を抑えるという目的がある。

ところが、実際には相続税を支払うために土地を売却しなければならない人が出てくる。

そして、その土地を買い集めるのは誰か。

資金力のある不動産会社や投資家である。

本来、資産の集中を抑えるはずの制度が、条件によっては、資金力の乏しい所有者から資金力のある所有者へと資産を移転させる経路にもなってしまう。

しかも、大資産家ほど専門家を雇い、生前贈与、法人、信託、資産評価などを組み合わせて、制度に適応する余地がある。

つまり、同じ法律でも、対応能力によって実質的な負担が変わる。

ここで重要なのは、法律の文言が平等であることと、法律がもたらす結果が平等であることは、まったく違うということだ。

そして、もっと根本的な問題がある。

法律はしばしば、現在存在するものを基準に権利を与える。

土地を所有している人、すでに許認可を取得している事業者、長年営業している企業、一定の資格を持つ人、特定の日付以前から活動している人。

この人たちは制度上の権利を持っている。

一方で、これから参入する人には、同じ条件が与えられるとは限らない。

たとえば、タクシー業界。

国によって制度は違うが、ニューヨークではかつて、タクシー営業に必要なメダリオンが巨額の値段で取引されていた。

なぜか。

単に自動車を運転して人を運ぶ能力が高いからではない。

営業できる車両の数を制度が制限していたからである。

つまり、希少性そのものが法律によって作り出され、その希少性が資産価格になっていた。

ところがUberのような新しい事業形態が登場すると、それまで守られていた市場の境界が揺らいだ。

メダリオンの価格は大暴落した。

ここには非常に重要な構造がある。

法律によって作られた希少性は、法律や制度解釈が変わるだけで消滅しうる。

逆に言えば、法律によって保護された地位を取得することは、単に知識や技術を身につけることとはまったく異なる経済的意味を持つ。

知識や技術は競争相手が増えれば価値が下がる。

しかし、制度上の参入制限があれば、競争相手の増加そのものを抑制できる。

この違いは大きい。

もっとも、制度に守られた仕事だからといって、必ず高収入になるわけではない。資格者の供給が増えたり、そもそもの需要が減少したりすれば、当然、収益性は下がる。

重要なのは、その仕事が難しいかどうかではない。

誰が、何を根拠に、供給量を制限できるのか。

そこを見る必要がある。

そして、これは国家による規制だけの話ではない。

税制が変われば、企業が設備投資をする場所が変わる。

補助金があれば、本来なら採算が合わない事業が成立する。

医療保険の診療報酬が変われば、病院や診療所が提供するサービスの構成が変わる。

都市計画によって容積率が変われば、同じ面積の土地でも建設できる床面積が変わり、土地の経済価値が変わる。

ある地域に鉄道を通すか、道路を整備するか、あるいは開発を禁止するか。

それだけで何十年にもわたる人口移動、店舗立地、地価、雇用が変わってしまう。

ここで気付くのは、経済における「勝者」が、必ずしも競争で最も優れていた者ではないということだ。

むしろ、制度が作った有利な位置に、最初から立っていたという場合がある。

逆に、どれだけ能力があっても、制度が認める入口に立てなければ競争にすら参加できない。

だから、世の中には奇妙なことが起こる。

誰もが必要としている仕事なのに、参入できない。

誰も必要としていないように見える仕事なのに、制度上、必ず誰かを配置しなければならない。

需要が増えても供給が増えない市場がある一方、需要が減っても補助金や規制によって事業者が生き残る市場がある。

経済学的な需給だけを見ていると、この現象をうまく説明できない。

なぜなら、供給曲線そのものが、制度によって動かされているからである。

さらに、法律にはもう一つの重大な特徴がある。

それは、制度が変わる速度と、人間が人生を変更できる速度が一致していないことである。

国家は税制を変更できる。許認可制度を変更できる。ある事業を合法にも違法にもできる。

しかし、その制度を前提に住宅を購入した人、資格を取得した人、事業に投資した人、職業人生を築いてきた人は、簡単には方向転換できない。

制度の変更が一瞬でも、それに適応するために費やした10年、20年は戻ってこない。

しかも、政策変更には経過措置や既存事業者への特例が設けられることがある。

すると、新規参入者と既存事業者で異なるルールが適用され、過去のある時点で市場に参加していたという偶然が、将来の経済的優位につながる。

これは単なる能力主義ではない。

歴史的な経路依存である。

そして、ここからさらに興味深いことがわかる。

法律は、現在の所得分配を変更するだけではない。

将来、誰がどんな選択肢を持てるかという、人生の分岐そのものを変更している。

ある人には撤退する権利がある。

ある人には撤退すると失われる資格や許可がある。

ある人には事業を他人へ売却する権利がある。

ある人には、自分が働くことをやめれば収入も止まる制度しか用意されていない。

同じ1000万円を稼ぐ仕事でも、その収益源を他人に譲渡できるか、相続できるか、担保にできるか、事業として保有し続けられるかによって、経済的な意味は大きく異なる。

つまり、稼ぐ能力と、稼ぐ仕組みを所有する権利は別物なのである。

これまで人間は、収入を増やすこと、能力を高めること、優れた職業に就くことばかりを考えてきた。

しかし、本当に重要なのは、獲得した経済的優位が、どのような法的権利として残るのかという問題ではないか。

どれだけ優秀でも、その優位を所有できず、譲渡できず、本人の労働を停止すると消滅するのであれば、いつまでも市場に選ばれ続けなければならない。

逆に、一定の権利を保有するだけで、他人の経済活動から継続的に収益を得られる人もいる。

この二つを単に「年収」で比較しても、何も見えてこない。

結局、社会を理解するためには、需要と供給を見るだけでは不十分なのである。

需要を誰が生み出しているか。

供給を誰が制限しているか。

その取引によって生じる利益を誰が取得する権利を持ち、損失を誰が負担するのか。

その権利は、いつ、どのような条件で発生し、いつ消滅するのか。

そして、制度が変更されたとき、誰が逃げられて、誰が逃げられないのか。

ここまで見なければならない。

経済の表面には、価格、給与、利益、資産価格という数字が現れている。

しかし、その背後には、法律が定めた権利、義務、責任、参入条件、退出条件が存在する。

そして、その制度を所与として人々が行動した結果が、我々の目に見える社会なのである。

だからこそ、法律を学ぶということは、単に法律家になるための勉強ではない。

社会の表面に現れる数字や常識の背後で、誰がどのようなルールによって守られ、誰がその費用を支払っているのかを見抜くことである。

世の中がおかしいのではなく、ある制度の下では、人々がおかしく見える行動を取ることが合理的になっている。

むしろ、本当に問い直すべきなのは、その行動を生み出しているルールの方なのだ。

そして、もっと恐ろしいのは、そのルールの中で長く生きている人ほど、その仕組みを自然なものだと思い込んでしまうことである。

制度によって作られた希少性を「実力」と呼ぶ。

制度によって守られた地位を「努力の成果」と呼ぶ。

制度によって閉ざされた入口を突破できない人を「能力不足」と呼ぶ。

こうして、制度が生み出した結果が、いつの間にか個人の本質的な性質として説明されるようになる。

それこそが、我々が当たり前だと思っている社会の、最も見えにくい歪みなのである。

 


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@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。