#3 社会とか世間とかいう幻想

常に思うのだけれど、「社会」とか「世間」とかいうのは幻想なのではないかと思う。当然、「社会人」とか「常識」とか「世間一般の・・・」とかいうのも同様である。

そもそも、一個人が感じる「社会」「世間」なんて、朝起きて、家に帰るまでに行く「コンビニ」「スーパー」「飲食店」「職場」ぐらいじゃないだろうか。ネットやSNSを開けば、「社会」みたいな概念がバーンと目の前に出てくるけれど、結局、でかいスケールで活動している声の大きな人たち、インフルエンサーたちの盛り上がりにしか過ぎない。しかも東京人ばかりである。

いわゆる、仕掛け人のような人たちばかりだ。

あんまりそーゆーのに接続して踊らされない方が良い。

 

人は、一定の年齢になると「社会と自分」を考えるようになる。社会と自分との接点に悩む。だから、浪人生、ニート、専業主婦の悩みは結構深い。定年退職した人、介護離職した人、病気になった人、仕事を辞めた人、休職中の人、資格勉強中の人の悩みは深い。

私も、ニュートラルな期間だったり、社会にガッツリとそれらしく接続していた期間だったりを色々と経験した。

そして思う事がある。

 

多分、社会とか世間なるものは幻想だ。

そして、この点についてあまり、過度に考え過ぎない方が良いと思う。

「社会」「世間」「常識」「社会人」みたいな概念に縛られ過ぎている人と接し過ぎない方が良いと思う。カネカネしている人と接し過ぎると疲れるのと一緒だ。

 

もちろん、社会を意識している人の方が稼ぎやすいとか、有利にキャリアを作りやすいとか、人から賛同・協力を得やすいみたいなことはあると思う。

しかし、過度に意識し過ぎる必要は無いのではないだろうか。

 

あんまり他者や外部を意識し過ぎると疲れる。

自分を見失う。

楽しく無くなってしまう。

 

小さい頃には、誰もが社会とか気にしていないと思う。意識するとしても、すごく小さなスケールではないか。

すでに述べたように、社会人が思っている社会も、結局その地域に根付いたものであったり、自分の職場とか、所属しているコミュニティでしかなかったりする。自分が見ている範囲でしかなかったりする。

マスコミ、ネット、SNSが映し出す社会も、そんなに過度に意識する必要はない。というか、メディアを通して眺める社会なんて歪んでいるに決まっている。一部分しか映してない。

 

社会全体を変えることはすごく難しいけれど、自分自身が普段見ている範囲を社会と呼んでいるのであれば、ちょっと環境を変えるだけで自分の中の社会観は変わる。いろんな事が変わるかもしれない。

転職する、引越しする、付き合う人を変える。

それだけで、自分が見ている世界なんてガラッと変わったりする。仕事や働き方を変えるだけでガラッと変わったりする。所詮、その程度のものなのである。

 

それから、社会と自分をつなぐヘソの緒としての仕事について。

仕事をしていない時期を経験すればわかると思うけれど、仕事をしていないとどうも自分が社会の中で役立たずのような感じがしてくる。すごく悪いことをしているような気がしてくる。罪悪感や疎外感を感じる。

人によっては、ちゃんと働いてお金を得ているのに、自分の存在意義、自分の仕事の社会的な意義について悩んでいる人もいる。

 

結論から言うと、どんな仕事も稼いでいる時点で社会貢献している。だって、税金を払っているのだから。需要者がいるのだから。泥棒でさえ、得た所得には税金がかかる。

稼いでいなくても、稼いでいる人のサポートにまわっているのなら間接的な支援をしていることになるじゃないか。

仕事をしていなくても、コンビニで何かを買えば消費税を支払っているだろう。

 

結局、社会と自分の接点で悩むということは、「社会と自分」というよりも、「社会なるものを相当に意識している身近な他人」と「自分」の間における接点、という構図でしかない。ここで過度に悩んでいるだけだ。

選挙の投票率を見たら良い。

政治家の演説における聴取の集まり具合を見たら良い(結局、知名度が高い人が喋っている時だけ野次馬が集まっているだけだ。有能な政治家ほどそういうことをわかっていて、雑談やわかりやすい話に終始するし、選挙対策でタレント政治家を引っ張ってくるのもワケがある)。

別に、世の中の人も大して、社会を意識しているわけではないのである。

「正しい〜」

「間違っている」

「社会人として〜」

という冠言葉をつけて他者を批判するようなシーンにおいても、結局、個人的な感想にソーシャルな権威づけをしたい場合が多いのではないだろうか。

 

人間は、社会的評価で悩む。

ひどい人だと、このテーマですごく病む。

 

真面目な人だと、ちょっとレールを外れただけで、ちょっと普通とは変わった道を選んだだけで、自責の念に激しく囚われるのである。

しかし、世の中にはそんなデカイスケールのことを考えず、自由に楽しく生きている人たちが腐るほどいる。

そういう人ほど、楽しそうにしているものだ。

 

テキトーにちょろっと社会に接続して、ちょろっとお金を得て、ちょろっと社会から乖離して、またちょろっと接続して・・・・・

みたいなことを繰り返していくだけでも、十分にやっていける。

 

小さなコミュニティ、小さな範囲、ちょっとした接続、そういうことをやるだけでも食い扶持は得られる。

あるいは、接続の仕方を工夫するだけでも、うまいこと社会に迎合しない生き方だってできるのである。

そして、そういう生き方が最もやりやすいのが、フリーランサーのような生き方だと個人的には思う。雇われる場合であっても、地方だったり、零細ビジネスで働けばのほほんとやっていけるのだ。

町工場でも年収600万円出しているようなところは存在する。地方でも年収600取れるところはある。変なしょぼいビジネスを田舎でやっているのに年収1000万円取っているような人だっている。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。