メルマガ8

 

▶︎第0部:西園寺のつぶやき

 

はい、どうも。

現在、空港で眠たい目をこすりながらmacbookに向かっている次第です。

(あぁ、眠い)

 

最近、すごく思うことがあるのですが、「人間って何かを選ぶ自由って無いんじゃないか?」ってことです。

 

 

ーーーーーー

Which selection brings you happiness?

(どの選択があなたに幸せをもたらすだろうか?)

ーーーーーー

人を生涯悩ませ続けるこの問いですが、そもそもその「問いの立て方」が間違っているのかもしれません。

思考とはニアリーイコールで「問い」だと思っています。

思考の質は問いの質。

 

人が人生で悩んでいることは、そもそも問いの立て方を間違っていることの方が多い。

私はそう思います。

 

恋愛とかがわかりやすいですね。

「好きになった」のか、「好きにさせられたのか」。

 

一方通行であれば、秋葉原で買ったダッチワイフ相手に毎晩愛を囁いていれば良いですね。ダッチワイフに名前つけてね。

ーーーーーーーー

男:「おい、ジェニファー!なっ、中に出してやるからなっ、なっ、中にっ・・・・」

(スコスコ・・・・・・)

 

ダッチワイフ:「………………………」

ーーーーーーーー

 

(うわっ、やべー。今、この文章を隣に座っているスーツ女子に見られた気がする・・・・・・。)

 

現実の恋愛というのは双方向のフィードバックループなはずです。どちらかがリーダーシップを発揮する、というのはあるでしょうが、基本的に対人関係は双方向の円環的な作用がまわってるもの。

好きになったのか。好きにさせられたのか。

だから、自分で相手を選んでなんかいない、いや、選べてなんかいないのではないでしょうか。

 

こうやって考えると、社会に生きる私たちに、自由な意思と、それに基づく選択はあるのか。自分が「これがしたい!こう生きたい!」と思っても、世界がそれに呼応するレスポンスを与えてくれなければ意味がありません。

そして、その「〜したい(want)」の意思の根っこから、もはや自分のものなのか、不思議に思う。そもそも、ありとあらゆる欲望や価値観、知識を植え付けられているのに?

 

自分の体で検証する限り、もともと備わっている願望や考えなんて、ひどくシンプルなものばかりですよ。

だから、人間なんて、本当のところは自分で考えてやいないし、自分で決めてやいないと思うのです。

 

正確には考えられないし、決められない。

 

本当に自分の内側から、自然発露的に「結婚したい」と思ったのか。「彼女が欲しい」と思ったのか。「金が欲しい」と思ったのか。そういうものは、社会的に生み出された幻想・虚構の一部であり、学習させられたもの。しかし、我々は確かに、そういった営みや対象から「じんわり」とした喜びや興奮を感じる。

不思議です。

 

私はこれまでに、「ブレイクスルー」なるものを度々経験してきましたが、それを経験した後になって、過去を振り返り検証してみると「問いの立て方が間違っていたから行き詰まっていたんだ」と感じたことは多かったです(まぁ、それも勘違いかもしれないけどね)。

 

例えば人生の選択。

「どっちを選ぶべき?」というのは大方の人が考えることでしょうが、おそらくこれは「どっちでもいい」「どれでもいい」「どれも同じ」なんだと思います。ましてや、迷っているのなら尚更そうでしょう。

そもそも人生について、「Aを選んでいたら・・・・」と仮定して考えるのは非現実的です。

人間は何を選んでも、選ばなかった方について後悔するものです。

正解があると思わない方が良いかもしれません。

 

仮にAとBという選択肢があったとして、Aを選んで失敗だったと思ったら引き返せば良いし、引き返せないのであればそのまま歩んでしまえばいい、そうすれば何か見えてくるかもしれない。また、Aを選んだ先でCという別ルートだって見えてくる可能性もあります。

ビジネスなどの場合は、ある程度、動かしようのない要素であったり、普遍的なポイント、fixしないといけない点があったりするので話は少し変わってきますが、「人生」となると、まず正解は無いと考えて良いのではないでしょうか。

ということで私は、川の流れのように生きているわけです。

こう考えると、「どっちの道か?」という定点的かつ硬直的な見方、展開を織り込まない見方に「成否の原因」を求めるのはちょっと違うかもしれない。

 

ほらね。問いの立て方だ。問いの立て方で景色は変わるんだ。

バタフライエフェクトという映画を観て、感動したことがあります。あれを観ていると、人生というものが簡単に形成されていないカオスな世界だということがわかります。「Bを選んでおけば良かった!よし、過去に戻ってBを選ぶぞ・・・・」ということをやると、そのBの先でもっと最悪なことが起こる・・・というのがあの映画のおおまかなストーリーで、ジェンガゲームのごとく、どこかのブロックを引っこ抜いたらどこかに別の影響が及ぶわけですね。

 

人生、成るように成る。

きっと、それでしょう。

 

だから私は、こんなに変数だらけでカオスな世界で、「フィックスされているものは何か?」って考えると、自分の中にしかそれを見出せません。そして、そんな自分すら緩やかに変わっていくのが人生。

自分の中で、

「おそらくこれは変わらないもの」と思うものと、

「これは変わるだろう、変えられるだろう」と思うものをまず把握する。

そして世界の変化も眺めておく。

 

変化するものと、変化しないものをうまいこと使いこなして生きていく。

そんなつもりでいます。

 

人生の選択において、選んだ後の方に大事なプロセスが待っているものです。選んだ後にどうするか、です。

逆に言えば、選んだ後にちゃんとプロセスをこなしていけるマインドセットを携えていられるために、ちゃんと「選ぶ」ということでしょうか。人間、自分の意思で選んだと考えられるものは真剣にやるし、その真剣さがまた良い結果に貢献する場合が多い。

 

問いの立て方で見方が変わる世界はまだあります。

例えば事業収益。世の中では、「一体何をやっていいのかがわからない」という状態のまま、情報やハウツーを漁っている中小の社長さんや零細ビジネスのプレーヤーがたくさんいると思います。しかし、結局のところ、

<1>客数を増やす
<2>客単価を上げる
<3>購買頻度を増やす

の3つしか突破口はありません。

単純に、それらに向かう策を実行すればいいのです。その方向性に進めば良い。あるいは自分のビジネスモデルがどの方向に特化するのに適性があるかを判断すれば良いのです。

 

人が不安になっているときというのは、

ーーーーーーーーー

「この方向性であっているのか?」

ーーーーーーーーー

というのがほとんどでしょうが、こと、「金を稼ぐ」に関してはシンプルです。

間違っているもへったくれもなく、
売上が「価格」・「回数」で成り立っているのは事実なのですから。

 

(「人」が、「お金」を払って売上が成っているのは動かしようのない事実でしょ?)

 

それらの変数に従属する(貢献する?)打ち手をいじってもうまくいかないという場合には、そもそもオファーを間違えているか、ビジネスモデル自体が崩壊・陳腐化しているかです。

広告文をいじくっても、どうにもならない時だってあります。

西園寺だったら、医師のごとく、そのビジネスに外科的手法を施します。手術です。

 

wikiで「手術」について検索すると、手術には目的が4つがあるそうです。

<1>切除する
<2>形成する
<3>移植する
<4>検査する

 

まさに「コレ」ですね。

場合によっては大胆なリストラクチャーが必要なこともありますし、「あぁ、このビジネスはご臨終です」とか「ちょっくら延命ができるだけですね」判断してしまうこともあります。

コストかけて人の腹を開けておいて、さらなる病巣が見つかったとか、「再度執刀して、とある組織を切除しないといけません」とか告げて良い顔をする人はいません。ましてや「切断」とか「ご臨終宣言」とか尚更。

その意味で、自分のビジネスは良いですね。

いじくり放題です。

 

これまで、何度自分のビジネスを自分の手で潰してきたり、整理縮小してきたことか。

 

とはいえ、大方の死にかけたビジネスは「移植」でなんとかなります。適切な移植を施せば復活すると思われます。落ち目になったAppleコンピュータを復活させたのはパソコンでの躍進ではなくて、ipodという音楽プレーヤーでした。

ビジネスの最小構成単位は、「客」「提供価値」「提供方法」という感じで、細々とした構成要素を最大公約化して行くことができるでしょうが、ご臨終寸前のビジネスは雑多な構成要素を公約化させた視点、ビジネスモデルの骨組みを捉え、そして「移植」措置を施すという抜本的改革で、まぁ、なんとかなる場合は多そうです。

 

ビジネス・コンサルティングとかコーチングの類は、内科的手法、つまり薬を与えるようなことをします。情報の提供です。西園寺の知人に薬学を専攻して薬剤師を目指している人がいますが、「すべての薬は毒である」というのは薬学の世界で一番最初に勉強することらしいです。

このブログを含め、すべてのビジネス系情報も「毒である」ということはあらかじめわかっておいた方が良いと思いますよ。シャブ中になる前に、もっと自分の免疫とか体力に頼ってください。なるべく「体質改善系」の薬を処方しているつもりですが、どこまでいっても薬は薬です。

 

薬というのは、基本的には「人間本来の機能」を引き出しているだけ。投薬された人間の本来の機能に頼っています。

毒な部分もあります。

ビジネス・コンサルティング、コーチングの類、ビジネス書、ハウツーの類はまさにそれ。基本的には、学び手側に委ねられる部分が大きいのです。だから自己啓発で人生が狂う人と、成功する人に分かれるのです。

コーチングで飯を食べている人に聞いたことがあるのですが、「結局のところ、人は最初から自分の答えを持っているものですよ」とのことでした。

 

とはいえ、「気休め系」もバカにはできません。

世の中では「気休め系」「メンタルケア系」「癒し」みたいなものを軽く扱う風潮があります。そういう人に対していつも思うのは、

「じゃああなたは今後、一生海を見なくても平気ですか」

「あなたは今後、一生家から出られないとしても平気ですか」

ということです。

気が狂うでしょ。

 

ね。

 

メンタル大事。精神状態大事。

創造性やIQのコンディションは、心理状態に大きく左右されるそうです。

実際の医療のシーンでもあると思いますが、医学的には「アウト」だった人が、何か「人知を超えたスピリチュアルな気休め」というか、そういうものと出会い症状が良くなった、みたいな話聞きますよね。

 

はい、前置きが長くなりました。

授業始めまーす。

(これ、気に入った)

 

 

 

▶︎第1部:お金について

 

前回は、Done is better than perfectとかの話をしましたよねー。

 

何の勉強をするにしても、「全体像」を把握することって大事です。

ざっくりと全体像を把握して、やってみること。各論は適宜掘り下げていけば良いです。

ましてや、学校のお勉強ではないので、ざっくりいきましょう。

ビジネスの場合は細かなところに粗があったとしても、大筋で間違えていなければ何とかなるのです。そして、このいい加減さを、「いい加減な人間」である私はひどく気に入っています。

 

私は、

  • 要点
  • 結論
  • 全体
  • 本質

ばっかり気にして生きています。頭が悪すぎて(記憶力が悪すぎて)細かいことが覚えられないのです。

 

学校のお勉強やサラリーマン世界で求められるのは、各論や枝葉末節における「完璧さ」のような感じが、私はどーしてもしてしまいます(まぁ、サラリーマン社会でも出世すれば話は別かもしれませんが)。ほら、学校教育も、アベレージで評定しようとするじゃないですか。完璧を求めている感じがありますよね。バランスが良いことが良いことだ、みたいな。

でも、ビジネスの世界では、その人の能力が、(通信簿的に)「ほとんど1」のような感じであったとしても、1個だけでも「5」とか「6」があれば何とかなってしまいます。ビジネスで成果を出している人間に、いびつな人間が多いように見えるのはそのためですねー。

例えば、「税金」という科目で頭を悩ませているビジネスプレーヤーは多いわけですが「プロに投げる」ことで解決します。ホリエモンが、「毎年、この時期になると確定申告がどーたらというツイートとか見かけるけど、自分でやっている時点でもう負け。俺は一度もやったことがない。」みたいな趣旨のこと(うろ覚えですいません)を言っていたと記憶していますが、まさにソレです。

そして、ビジネスをやっている人間にとって最大の節税策は売上を上げること。家計でも同じですね。節約するより稼ぎを増やした方が良い。節約や資産運用に逃げるのはもはや「負け」を認めた人間の水際の粘りみたいなものです。西園寺さんも負けを認めた頃には節約とインデックス投資に逃げようと思います。

(いや、そんなことするぐらいなら楽しくバイト生活送るぜ!)

 

ところで、DRMの全体像は覚えましたか?

 

ーーーーー

<1>集客 → リストを集める → ありきたりじゃダメ
<2>教育 → リストを教育する → 面白くなきゃダメ
<3>販売 → リストに販売する → メリットがないとダメ

ーーーーー

 

会計の勉強をするときもそうですが、簿記という計算技術(枝葉末節)に溺れて全体像を失っていたのでは、同時に目的意識も失ってしまいます。「借方が左でー、貸方が右でー、覚え方はぁー、か『り』かたの『り』が左向いているから借方は左ー、か『し』かたの『し』が右向いているから貸方は右ー!!」・・・・・・

とかいうのは枝葉末節です。

もちろん、これが日商簿記1級レベルになって、「ファイナンスリースとオペリーティングリースの会計処理は・・・・」とかになったって同じです。会計という次元からトップダウン的に考えれば要するに、「資産か、費用か」という議論をしているんだということはすぐにわかります。そして、会計というフォーマットが描写しようとしているのは、

<1>リソースの調達
<2>リソースの投下投資状況
<3>営業成績

というものです。ただし、貨幣的に測定できる範囲しか描写できていないという時点で、宿命的に欠陥を孕んでいることにも留意しなければなりません。顧問税理士に「広告費が多すぎるので削減しましょう!」と経営判断に介入され、潰れたビジネスというのは多々あるようです(まぁ、経営判断する側の自己責任ですけど)。財務諸表ではビジネスの本当の強さというのは描ききれない欠点があります。本当に大事なものは「オフバランス」しているのです。つまりB/Sに乗らない。

その代表格は、「リスト」だと米国の某著名マーケターは言っておられました。私もそう思います。

 

全体像を把握することの重要性は数学にも言えるでしょう。

西園寺のように出来が悪い学生は、中学に進学すると「数学なんて使えねーじゃーん、実生活にいらないじゃーん」とか言って、勉強を放棄します。私は見事にそれを実行しました。

(この文章はその程度の人間が書いているのをご了承ください。)

 

でも、そんなことは当たり前の話で、算数がテーマにしているのが日常生活における計算処理(生活能力)だとすれば、数学がテーマにしているのは「未知の問題に対する解決への取り組み方(問題解決力)」のようなものです。社会人向けの数学やり直しの教科書に、「数学が日常生活に役立たないと言っている人間は、馬鹿」みたいなことが書かれていましたが(いや、そんな汚い言葉は書かれてません。私が大胆に要約しただけ。)、おっしゃる通りと言う他ありません。

ぐうの音も出ない。

逆に言えば公式や解法を忘れて、何も残ってない人はたとえ数学の成績が良かったとしても何も学べてないに等しい、そうですよ。

 

私は「数学なんて役に立たねー!!」って学生の頃はずーーっと言ってました。大学生になって、文系科目でも数学が必要だと知って、嫌々ながらやり直したりしてましたけどその時ですら、価値と意味がわかってなかったから。

ただし、馬鹿なりに反論させてください。定理と公式と解法を忘れてしまえば、そのほかに何の役にも立たないと思われた勉強をするのが辛かったんです(泣)。中学生・高校生の時は、覚える科目だと思ってましたからね。

ということで、大人になって暇を見つけてからは、「問題解決の考え方」という視点から、数学の有用性と実益性を見出しつつ、ちょこちょこ勉強を続けてきました。

 

そんな数学には3つの分野があります。

<1>代数学
<2>解析学
<3>幾何学

それぞれから、問題解決のエッセンスは学べます。

例えば。

代数学が文字を使おうとするのは、わからないことを「X」として仮定し進めていくやり方、すなわち「仮説思考」と言えるでしょう。また、一般化された定式でまとめていこうとするのは「法則性・規則性」を見出していこうとするある意味「科学的姿勢」の基本と言えるし、一般化したものからまた具体的な計算に降りていこうとする営みは「抽象と具体の往復運動」をしていると言えるでしょう。

演繹と帰納といった方が良いでしょうか。

解析学も部分を抽出することで全体を推測しようとする「推定思考」であると言えるし、幾何学に関しては、イメージ化してしまえ、すなわち「情報の性質を変えてしまう」という抜本的な発想改革の世界のように思えます。

 

英語に関しても同じですよ。

ーーーーーーー

「主語」「動詞」「目的語」

ーーーーーーー

の順に並んでいるとわかっていれば、あとは何とかなります。単語とかは頻出なものからゆっくり覚えていけば良いです。いちいち難しい単語を使わなくても、知っている範囲でうまく情報を伝えようとすれば、場合によっては巡り巡って「賢い人」だと思われます。

(信頼してください。欧米人とセックスした経験のある私が言っているのです。)

 

イッテQの「出川イングリッシュ」を見ていると、確かに英語能力に関しては圧倒的に河北麻友子ちゃんの方が出川さんより上でしょうが、インテリジェンスは出川さんの方が感じます。そもそも言語はツールでしかない。「コミュニケーション」という意味で大成するのは出川さんの方だと私は思います。英語がうまくても、中身スカッスカだと外国人に相手にされません。

ほら、日本語が上手に喋れない韓国アイドルが、拙い日本語を使っていると、「かわいいー」って歓声を浴びているでしょ。そゆこと。

(純ジャパの我々がそれを真似てもモテるわけがないですね)

 

芸能人やスポーツ選手に英語ができる人が多いのは、彼らに中身があるので、話す機会が多々あるからです。

あと、発音。

私の知人・友人のアメリカ人、オーストラリア人は、「中国人の英語は、ぶっちゃけ、何を言っているかわからない」「インド人の英語はやばすぎる、ぶっちゃけ意味不明」とめちゃめちゃ言ってます。。。。。が、それでも喋ってる人は喋ってるわけです。堂々と。なんだかんだ言って彼らの英語も機能してますから。っていうか、オーストラリア人もアメリカ行きの飛行機の中で、客室乗務員に発した英語が理解されなかった、とかいう体験をしていたりするものです。

英語は世界語です。日本語みたいに1億ちょいの人間が島国で使っているだけの言語と同じ見方で捉える必要はありません。テキトーに構えてテキトーに使いましょう。

 

はい・・・・・。

ということで、全体像や要点を理解することの重要性をつらつらと述べてきたつもりです。

 

繰り返します。

ーーーーー

<1>集客 → リストを集める → ありきたりじゃダメ
<2>教育 → リストを教育する → 面白くなきゃダメ
<3>販売 → リストに販売する → メリットがないとダメ

ーーーーー

この全体に沿って、営業をかけてみましょう。

もちろん、売り物には「理想的なもの」があります。仕入れがないものを売ることが理想でしょうし、「自分と売り物を切り離せる(物理的制約、時間的制約から解放される)」ものが良いでしょう。

もちろん、WEB上でビジネスをすれば、商圏の制約からも解放されます。

 

さて。

今回は、DRMの全体像よりも、さらに上位のレイヤーである、

ーーーーーーーーーー

「売上の全体像」

ーーーーーーーーーー

の話をします。

 

売上というのは、実は決算書上の概念でしかありません。

世界中のビジネスプレーヤーが、「売上をあげなきゃ、売上をあげなきゃ・・・」とつぶやいているでしょうが、この売上というのは決算上の概念である以上、もう少し噛み砕いて見ていかないとピンとこないものなんです。

実は、売上とはこういう計算式で成り立っています。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

客数 × 購買頻度 × 単価 = 売上

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

なので、売上を上げたいと思った時には、

<1>客数を増やす
<2>購買頻度を増やす
<3>単価を上げる

というのが基本的な方向性になります。

まぁ、当たり前の話ですけどね!

 

これもDRMとあわせて覚えておくと良いですね。

 

 

はい。

ということで・・・・・、あなたは現在、

ーーーーーーーーーーーーー

「売上というものの全体像」

「営業についての全体像」

ーーーーーーーーーーーーー

を把握されている状態にあるかと思います。

 

お金の解決策を求めている人はたくさんいますが、自己啓発書だけ読んでいる人、資産運用の本ばかり読んでいる人、節約本を読んでいる人、起業してないのに節税の本を読んでいる人・MBAの本を読んでいる人・・・・・・、こういう人たちは本気でお金の問題を解決する気はありません。

お金欲しいと言いながら、実はお金は欲しくないんです。

気分をなんとか紛らわせたいだけです。ちょっと頭をひねって考えれば、そんなことをいくらしていたって現実的には何の意味もないということはすぐわかるはず。

 

お金が欲しければ。

お金を稼ぐしかないのです。

そして、稼ぐためには、価値を創造して、セールスをかけて、取引を締結する必要があるのです。

 

そして、これだけは覚えておいてください。

 

ーーーーーーーーーー

「誰でもできる、簡単なことで稼げる(稼ぎ続けられる)ワケがない」

ーーーーーーーーーー

 

簡単なことは、他人にすぐ真似をされてしまいます。

 

書店に行けば、多くのサラリーマン達が株やFX、ビットコイン投機の本を読んでいることに気付くでしょう。彼らは色々と御託を並べますが、結局のところ、「難しいことはやりたくない」わけです。

 

あなたが今できること、できそうな範囲のことで、「最も難しい」と思えることに挑戦すべきです。

なぜなら、あなたが難しいと感じることは、他人にとっても難しいから。そして、あなたが簡単だと考えることは、他人にとっても簡単なのです。

自分の思う「難しい」の基準が、人よりも高ければ、当然、あなたはアドバンテージが取れるでしょう。

 

私が知る限り・・・・ですが、高学歴な人たち、高難易度資格を持っている人たちって、「営業が嫌い、営業はしたくない」と思っている人たちが多いようです。営業が嫌いだからこそ、権力や権威の方向性に行く・・・・みたいな。

「営業はなんだかよく掴めないし・・・・」みたいな。

 

でも、最近はちょっと事情が違います。

高学歴の人たち、地頭が良い人たちが、「そろそろ俺も本腰入れて、ビジネスとか営業の世界と向き合わないといけないよな・・・・」って思い始めている感じ?

 

そういう空気をすごい感じます。

 

私のクライアントさんを見ていても、「おおおお」と思うようなすごい人が結構いてます。

 

「あーあ、せっかく、低学歴で資格も地頭も何も無い自分が、やっとこさ見つけた生きる道が商売の世界だったのに・・・・・・・、この世界も結局、賢い人たちに侵食されて行くのか・・・・・」

なーんてことを、思う今日この頃です。

 

職を失ったらヒモになろーっと。

 

 

 

▶︎第2部:世界について

 

この世界はミュージカルかもしれない、っていう話をしたいと思います。

 

私が、「この世界ってミュージカルなんじゃね?」と一番最初に思ったのは、確か小学校1年生の時だったと思います。

学校の先生が、りんごとりんごをそれぞれの手に持って、

 

ーーーーーーーー

先生:「はぁーい!みんなー!ここにりんごが一つ、こっちにもりんごが一つあります。1+1は、何になりますかー??」

 

みんな:「2ーーーー!!」

ーーーーーーーー

 

と答えている空気を見て、「ん?」と違和感を覚えてしまったのです。そして、純粋に、「1+1=2」であることを理解できない自分がいた。

ヤバイのかな、自分、って思いましたね。その時。

絶望的に頭が悪いのか・・・と思いました。

 

とはいえ、その当時は語彙がありませんでしたし、自分が抱えた違和感を言葉にできない。ボキャブラリーがない。だから、なんとなーくモヤモヤとしたものを脳内で浮かべながら、違和感を感じていたのです。

 

後年になって語彙を身につけた西園寺が、当時、脳内で浮かべた疑問を解説するとこういうことになります。

 

ーーーーーーーーーー

それぞれのリンゴを、1という数字に対応させているけれども、

その2つのリンゴは質量が違うのではないか。

 

そもそも自然界には同質・同形なものは見たことがないぞ?

全く同じ質量に見えるものって人間が人工的につくったものじゃない?

 

となると、「1」とかいう数字も人間が勝手につくったもので、

これは人間が言葉遊びをしているだけではないのか。

 

そもそも1とは何なのか。

どこから来たのか。

 

言葉遊びをしているだけなら、

1+1=3

でもいいのではないか・・・・・極論言えば・・・・・・・

ーーーーーーーーーー

 

ちなみに、これと全く同じような疑問は、大人になり、「お金」というものに対しても向けられるようになります。

最近は、お金なんてものは幻想だ!ってのはよく理解されるようになってきましたよね。クレジットカードとか電子マネーとかが流通してくると、「お金って何?」ってな感じになりやすくなる。そんな状況もあって、だんだん、お金の正体がバレつつある。そして、賢い人から、「金って紙くずじゃん!!」って気付き始めている。

(今、賢い人はじゃんじゃんお金使ってますよね。)

 

 

・・・・実は、まぁ、この世界のほとんどは、ファンタジーなんですね。

虚構なんです、虚構。

 

 

(扇動的な表現を用いて)極論を言ってしまうと、

ーーーーーーーー

この世界は全部、嘘

ーーーーーーーー

なんです。

 

正確に言えば、機能的な嘘と非機能的な嘘がある、と言ったらいいのでしょうか。

 

お金に価値がある、というのは機能的な嘘の代表例です。

お金の歴史を紐解くと、「金本位制」が保たれている時代までは本当にお金に価値があったのですが、それ以降は無くなってしまいました。ご存知だと思いますが、1万円札は原価20〜40円くらいらしいです。なぜ1万円に価値があるのかと言えば、「みんなが価値がある」と言っているから価値があるのです。

その証拠に、1万円札は、無人島ではケツを拭く紙にもなりませんし、海外ではそもそも、そのままでは使えませんね。

 

学歴に関してもそうですが、高学歴の中に「本当に頭が良い人」がいる一方で、「学歴がない人とそこまで頭のレベルが大差なさそうな人」だっているわけです。割とそういう人がいたりすると思います。

厳密に言えば、学歴というのは頭の良さ以外にも、その人がいろんな価値を持っていることをたくさん証明している信用指標です。が、世の中を見ていると、「高学歴だから頭が良い=高学歴の人がした仕事だから価値がある=だから値段が高い」というロジックで、価格が通用している場面であったり、特殊な業界が形成されているシーンに度々出くわします。

みんなが認めているから・・・・・社会がそれを認めるから・・・・・というやつです。

 

「会社」というものについてもそうですよ。

みんな、「会社、会社」と言いますが、会社とは何でしょうか?建物でしょうか?でも、会社は引っ越しますね。会社にいる人だって入れ替わります。場合によってはビジネスモデル自体も変わります。そして、潰れたり、新しいものが立ち上がったりします。

これも結局、虚構と言えば虚構です。

 

法律に関しても全く同じです。みんなが大好き、織田信長は現代にタイムスリップさせたら即効死刑台行きですよ。つまり法は、時代的な価値観の反映ということでもあり、常に人間の判断が織り込まれているものであるということは忘れてはなりません。そして、現在のように現実の変化が早くなってくると、全然法が現実に追いついてこなくなります。

 

要するに・・・・・・・、「想像上の現実」というやつが世の中に溢れているっていうことです。世の中には想像上の現実が溢れかえっている。まぁ、そういう意味では「嘘」というのとは厳密には違うかもしれませんが。

お金も、宗教も、会社も、言語も、法律も、これらはぜーんぶ、同等のものと言えます。私はそう思います。想像上の現実。機能的な嘘。

ただし、一般的な用法で使われている「嘘」とは、性質が根本的に違う。想像上の現実というのは、実際の社会でしっかりと機能しているのです。

(西園寺さんもよく嘘をつきます。女性に、「手を出さない」と言って、手を出したことが何度もあります。)

 

「虚構」「社会的構成概念」「想像上の現実」でしょうか。

 

これは科学の世界にも同じことが言えると思います。

アインシュタインは「世の中が、この世界を理解できるということになっていることが理解できない」といったようことを言っていました。

論理体系というのは、その正しさをその論理の内部からは証明できないという宿命を抱えています。

 

例えば、私が「1+1=2」になる理由がわからなかったとき、どうあがいてもそれが「おかしいかどうか」について、数字の世界のパラダイムの中では、検証していけないでしょう。なぜなら、前提がもう「ソレ」だからです。

自然の現象を観察する世界では、新たな観察結果が生まれると前提がひっくり返ることはよくあることでしょう。前提を疑い、一から自分で検証していくこともありでしょう。

しかし、その前提というやつも、突き詰めると人間が観測しているに過ぎません。心理学を学べばわかりますが、人間の認知のバイアスとはひどいものです。都合の悪い情報は無視して、自分をかばう解釈ばかりします。そうです。結局、個々人のバイアスであったり、人間世界で運用されているパラダイムの制約はつきまというのです。そもそも人間の観測は完璧なのか。どうでしょうか。

 

うーん、何だかよくわからない感じになってきましたね。

でも、わかりますかね。

この、いろんなものが揺らいでいく感じ?

 

今の25歳以降の年齢の人は、「youtuber」というのが新しい職業であることはお分かりのはずです。そして、この職業が世の中に生まれてくる流れ、経緯をちゃんと観察してきたと思うのです。

人にもよりますが、10代後半とかハタチそこそこの子だと、「youtuber」というのを職業としてしっかり認めちゃっている人が多いです。だって、彼らの若い頃からあったのだから、それが。

 

最近の小さい子供はyoutuberに夢中なので、子供がyoutuberを好きになれば釣られてママもyoutuber好きになる。ママがyoutuberを好きになれば、旦那さんも自ずと・・・・・。どんどんオセロの盤が一色に染まっていく。

こういう、リアルな変化というものを見てきているでしょ?

 

Facebookなどについても同じことが言えますよ。

SNSが無かった時代、みんなもう忘れちゃったかもしれませんが、これが生まれてから世の中ってだいぶ変わっていったと思いませんか。

(クレジットカードや電子マネーなどについても、未だに「お化けのようでコワイ」と思っている層だっています。)

 

世の中、みんなが使えば、みんなが認めれば、みんながそうだと言えば、社会的には認められてしまう。やっぱり、ある程度、社会は多数派の原理でまわっているように思える部分はあります。

そしてそれがなぜかと言えば、やはり、人間は社会的動物だからという答えに、私はいつも行き着いてしまいます。結局人は、どんな形にせよ、人と協力していかないとやっていけない。社会と接続して、社会の中で生きていかないといけない。

私が「空気を読むこと」と「空気を読まないこと」の中間で生きている理由はそこです。「常識」と「非常識」の間で生きようとしている理由はそこです。

 

(人から変と言われて喜んで良いのは、お金と女にモテている場合だけだと思っています。その2つがついてきていないのに、「変」と評されている場合、私はそこに、「difference」という価値を見出せません。)

 

お金というものが生まれてきた歴史を紐解いても、その必要性というのは「見知らぬ人同士を繋げて協力を可能にした」というのが、社会を俯瞰した視点から言えることだと思っています。

 

私が世の中をミュージカルと言っているのは、世の中を見て感じていることを直感的に例えると、そう思う・・・・ということです。

何かこう、一つの演目があって、みんなに役割があって、全体のストーリーがあって、観客がいて・・・・。

観客の中には、まるでリアルな世界のように感じている人もいれば、「どうせこれつくりもんだしなぁ・・・」と斜に構えている人もいる(ディズニーランドに行って「ミッキー!!」とはしゃぐ女の子がいると思えば、ミッキーの中にいるおっさんを想像する人もいるように)。

 

そこで、大きな声を出して空気を乱すかどうかは自由です。

 

私にそんな勇気はありません。

 

 

若い頃はミュージカルにどハマりしていました。ある段階から、ミュージカルを見抜くようになりました。そしてそんな自分を「真実を見抜く目がある」と誇っていたフシもあったぐらいです。ミュージカルの空気を乱そうとしたことも、劇場を後にしようとしたこともありました。

そして、その後、大人しく着席するようになった。ミュージカルを楽しむようになった。ミュージカルに参加するようになった。

結局、私はミュージカルの一員になりました。

 

 

キーワードはこれです。

「社会に、『センス良く』迎合しない」

 

……….ま、高城剛さんからパクったフレーズですけど。

 

 

 

▶︎第3部:人生について

 

私は、人生は積極的に負けた方が良いのではないか、と思っています。

負けトーナメントを繰り返していると、自ずと、自分の道が開けてくるというのが1点。それから、成功は学びを与えてくれないけれど、失敗は学びを与えてくれる、というのが1点。

失敗から学ぶ、ってのは深いですよ。良いですよ。

 

本当に成果を出している人たちは、総じて、失敗の果実を理解しています。そして、その果実はとても甘いと知っている。これは、現実をよーく見ていればわかることです。成功したければ、失敗を受け入れないといけない。現実的に考えれば、絶対そこに辿りつきます。

打率は3割あればスーパースター。そして、打席に立ってバットを振らない限り、ヒットはない。バントの人生を送るハメになる。面白いことに、人生は1本の長打やホームランで割と長いこと食べていけるものですから。

 

空振ろう。

負けよう。

自分の過去を振り返っても、負けがもたらした偉大な成果に畏怖の念を感じます。そして、改めて思うのです。

 

負けを恐れてはいけない。

 

W杯前には負けておいた方が良いのです。

自分にとってのW杯は何?まさか、小事にこだわって大事で負けるようなヘマはしてないよね?

常に自分に言い聞かせます。

 

なぜ負けたくないのか。なぜ、1回1回の勝ち負けに固執して全体的に大敗するのか。それはやはり、見栄やプライドで生きているからだと思うのです。そんなに負けることが嫌ですか。勝ち負けなんてものは、ひどく消費的なものですよ。アホな独裁者は無駄な戦争に固執し、面倒なDQNは路上での言い争いでひどく体力と時間を消耗しています。

争い事と悩みほど、時間を消耗することはない。

 

そして、これも現実を直視していると理解できることですが、若い人ほど強い者はいません。新しきは古きを取り除く。すべてのものはいずれ老います。古くなる。そして、全ての死には意味がある。自分が負けそうだ、やられそうだという時には素直に負けた方が良い。後進に道を譲った方が良い。さすれば、また、次の道が開けるでしょう。

私は負けを肯定してきました。

幸か不幸か、20代にしてだいぶ勝ってしまいましたが、これは、それまで以前に負けまくっていた集積が実を結んだだけです。とはいえ、それでも20代は負け戦の年代と思っているぐらいです。20代は負けの年代って言い聞かせている。

それでも勝ちすぎている部分があるんえす。なので、今のように勝ち戦ばかりしていると、逆に不安になってきます。そろそろ負けておいた方が良いのでは、って。あの、負けて苦渋を舐める感じが、後々蜜の味に変わるのを、脳みそが学習してしまっているから。

 

見下されることも良いことです。

こんな私にも、「人生失敗して、大学生が働くバイト先で一緒に働くおじさんになってしまい、若い人たちに見下されて、馬鹿にされまくるようなおじさんになったらどうしよう」とか、意味のわからない心配をしていたティーン時代があります。

今はどうでしょうか。

そういう人生も面白そうだと思ってしまいます。

そもそも勝手も負けても結果はひどく消費的なので、今は面白そうなプロセスに興味があります。人生は旅ですから。旅の醍醐味は寄り道でしょう。予期せぬ何か、でしょう。そして、人間万事塞翁が馬なのです。

 

人は見上げておいた方が良い。そして、見下されておいた方が良い。人は、人を見下すことによって相対的に優越を感じ、安心してしまうような心理があります。だからこそ、危ない。人様から、見下されたり軽く扱われても、それで良いんだってケロッとしてられない「自分のマインド」が危ない。それは、自分自身に何もないことを自己証明してしまっているから。そして、厳しさは自分自身に向ける必要がある。自分自身に厳しくなって、自分を高め続ける必要がある。

 

些細なことはどうだって良いのです。

人生のセンターピンは何か?です。

 

センターピンさえ倒せば、オセロの角さえ取っておけば、それで良いんです。

 

バットを長く持って長打を当てに行くことも、

バットを短く持ってヒットを狙って行くことも、どちらもできるようになると良いですね。

 

そしてそれは、散々負けたからこそできるようになることだと思うんです。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。