学歴=準備力。社会は学歴という代理変数から、その人の「何」をしりたがっているか。

 

学歴というのは、18歳時点のペーパーテストで決まるだろう。

では、ペーパーテストで、一体、何を問おうとしているのだろうか。

 

ここに、出題範囲としてのテキストがあるとする。この中の習熟度を真に問いたければ、100%出題すれば良い。全部、問えば良い。無理ならば、高校生のうちに時間をかけて測定すれば良い。

しかしそれをやらない。

 

じゃあ、試験本番で、教科書の範囲から、つまみ食いする形で、いくつか出せば良い。

全分野から、ちょいちょいつまんで、出せば良い。

しかしそれもやらない。

 

ここに、学歴の本音があると思う。

 

極端な話、教科書のうち、50%だけをそこそこ勉強して、残り50%は全くノータッチだったとする。この場合においても、ランダムつまみ食い出題形式であれば、50%の得点は取れるはずだ。しかし、実際のテストでは、このような勉強で取り組んだ人は0点が下されることがある。

これはつまり、実際のテストでは、出題が偏っているということだ。

 

これは、税務署による税務調査と似ている。

 

税務調査は、全部片っ端からやるわけにはいかない。

そこで、一部、抜き打ちをするのだ。

 

これは警察の捜査もそうである。

 

調べる側が、少ないリソースで、うまく調べるための手法である。

 

 

受験者側は、どこが出るかわからない。

どこが出るかわからないから、全部やるしかない。

もし、それなりに勉強しても、自分の中の穴の部分を突かれたら、一切点が取れない。

だからちゃんとやるしかない。

 

もし、出題を読んで、対策しようとすると、ヤマカンが外れた時のリスクを背負うことになる。

出題側も、出題傾向を読ませないようにしている。

 

 

実際の本番のテストは、時間が限られて、出題も限られる。

結構、少ない範囲が出る。

そこで、点数を取らないと、落ちる。

 

教科書の範囲が100あるとしたら、実際に問われるのは、30くらいだ。

そのくらいしか問われない。

 

 

それで擬似的に、全範囲を問われる。

 

 

 

結局のところ、問いたいのは、

ストレートな意味でも教科書範囲の網羅性じゃないのだ。

 

ヤマカン能力でもない。

 

教科書の50%をやって、残り50%をやらないような態度でもない。

 

 

どこが出るかわからない、でも本番のテストで全部決まってしまう

という悲壮感から、そこに向けて対策になって必死になる、その本番準備力である。

そこには、社会性が出る。

 

何が問われるかわからないが、その一発勝負で決まる、という構図は、準備を要求する。緊張感を与える。全網羅的に対策しないといけない。

一方で、時間をかけて、全分野の習熟度をチェックするのはしない。試験実施側が知りたいのは、「あなたのこれまでの高校3年間の成果の全てを、この短いテスト時間と限られた出題範囲で測ります」ということに対する準備力である。

 

 

突き詰めると、学歴とは、それである。

その能力を示している。

 

 

 

全範囲を、丁寧に問うて、丁寧に習熟度を測らず、

「本番のテストで出た内容だけで能力を測る」

ということをやるのは、簡単に言えば、

落としたいから

である。

 

それをやれば、例えば、教科書の範囲のうち、

  1. 70%をやったAさん
  2. 60%をやったBさん
  3. 30%をやったCさん

がいたとき、全員に対して、丁寧な習熟度テストをやれば、彼らの習熟度はそのまま評価されるが、あえて本番で、

「全範囲の10%しか問わない」

やり方をすると、この3者は穴の部分を突かれた時に全員0点になる可能性がある。

 

こうして、無慈悲に落とされるのだ。

 

 

 

要するに、テストシステムは、穴がある人間を落としやすいのである。

 

全部を網羅した上で、

さらに、

丁寧に自分の習熟度を問うてくれることはないのだ

と緊張感を持って、「どこから攻められるかわからない」と対策するような人間。

 

これこそ、有名大学の門を叩くふさわしい。

 

 

要するに、有名大学が必要としない人間とは、

勉強を自分勝手にやる人間

である。

 

自分で、

  • これは必要
  • これは必要ない

と仕分けしてしまったり、

「私を丁寧に調べて」

と考える人間である。

 

 

好き嫌いが出たり、

自分の勝手な判断で取捨選択する人間が、嫌いなのである。

 

そうやって穴を作る人間、自分で選ぼうとする人間が、「要らない」のだ。

 

 

そうじゃなくて、あくまで、試験実施側が

「このポイントだけであなたという人間の全てを判断します」

というスタンスに対して、

「どこからくるかわ」

しっかりと対策して準備する人間、必死に食らいつく人間。

 

これが高学歴に相応しい人間だ。

そして社会は、こういう人間を欲している。

 

 

 

低学歴には、

  • 抜けがある
  • 漏れがある

のであり、

マイペースで自分勝手な勉強には、

「自分の好み」

が反映される。

そういうものを社会は嫌う。

 

お前が好きな科目、嫌いな科目など知ったことか。

お前がどれだけやってきたかをわざわざこっちが丁寧に調べてやる義務も義理もない。

 

試験実施側はそういっている。

 

 

 

社会が、高学歴を欲しがるのは当たり前だ。

 

 

 

社会というのは、

 

お前の全てを、この1時間の面接で判断します

 

という荒っぽい審査に対して、ちゃんと準備できる人間が欲しいのだ。

しかもそれで、ミスしない人間を。

「それで私の全てなんてわかりませんよね」と言わない人間を。

 

 

 

好き嫌い?

取捨選択?

 

じゃあ、専門学校でも行って、専門的なことに特化したらどうですか^^

 

 

・・・というわけである。

 

一方高学歴エリートなら、

「こいつなら、自社の幹部候補として採用して、関東・関西・それ未満の田舎に飛ばし、営業、経理、技術を経験させて、将来経営層にしても、全部そつなくやるだろう」

と思える。

 

 

そのため、27歳、28歳にもなると、

学歴もない人間は、

「で、あなたは何か、できるんですか?^^」

ということが問われる。

 

 

ほとんどのNOTエリートにそれはない。

 

だから、

大企業に歓迎された

高学歴エリートたちに及ばない。

 

 

 

おおむね、これが社会の仕組みである。

 

 

 

超1流の無資格者が使いこなしている、インテリジェンス、インデックス、インサイト

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。