日本社会では、25歳を過ぎた男女の価値が『若さ』『金』に収斂されていき、ヒューマニティが無視されるようになっていき、それは概ね40歳で完成し、さらに残りの40年は地獄を見ることになる。
だから三島由紀夫も川端康成も芥川龍之介もヘミングウェイも、自殺してしまうのだ。
25歳まで、結婚3年目までは夢が見れる、幻想が見れる。
Hell roadに突き進むほど仕事のありがたみがよくわかっていくのは、そんな凄惨な世界で自らの身を保つ居場所を見いだせるからであり、それを失ったOver35など風の前の塵に等しい。Over40には人前で悩みを吐露することすら許されない。だから、白痴化し、何も考えず、悩まず、可能な限り開き直って、権益を貪り食い、心のスイッチをオフにしてただただ生きることが最善となる。そして、Over50になれば完全に性的に終わると共に老後とやらが目前に迫ってきていることにも気づくかもしれない。
つまり、人間として人間らしくいられるのは24歳まで。そして、もっともヒューマニティーが輝くのは18〜22歳だろう。後にエコノミックアニマルとして生きていく事を強いられていくのだ。
生産性が無ければ価値がない。
ファンクショナブルでなければ価値がない。
あたかもそう言われているかのような状況の中で、目を瞑り、ふと人間らしく生きていた昔のことを思い出し、思い出に浸ったときにふと気づくのである。まぶたの裏側で子供時代の光景を思い出し、ヒューマニズムの残り香を嗅ぐ。すると、気づくのである。最初から、この世界に生を受けた以上、人間らしく生きることなんてハナからできやしないじゃないか、と。
世の中には知らない方が良いこともある。息子や娘が自立して、中年の危機、喪失感に囚われてはじめて、どうやら、自分には、人生には、何の生きてる価値も意味も無いと気づける惚けたタイプはラッキーだ。
終わってから人生の意味に気づくのだから。
人生は、酒を飲むかの如く、酔って大半を渡りきった方が良いことも多々ある。賢すぎると全てを悟って命を閉じてしまう。
賢すぎると早々にして自殺してしまうが、もっと賢いと、『知らぬフリ』をしてやりすごしてしまう。わかっていながら、やりすごしてしまう。本当の天才は、わかっていながらわからないフリをしている領域が多い。もはや全てを悟ってしまっている。
人生のエンディングは、バッドエンディングだ。
後半はただただ生きることになる。
だから、若いうちに地獄を見ておくべきだ。なぜなら、この世は元から地獄なのだから。若さという天国は、後に自分に襲いかかり必ず殺しにかかってくる。
若さとはフィクション。
そう、どんなブスでも赤ちゃんの頃は可愛いようにね。
生まれたての赤ちゃんが並ぶ部屋の中で、大人になっても可愛く育つのは一部だ。
プロテスタンティズムは、運命は決まっているとし、しかしながらその運命は後にならないとわからないとし、不安を煽り、自己研鑽を要求する。
いわばデスノートのリュークだ。
リュークには寿命が見えている。エンディングが見えている。
I’m gods child.
この腐敗した世界に落とされた。
若いうちの苦労は買ってでもしろ、は、ただのキャリア論じゃない。
死なないための教えなんだよ。
少なくともオレにはそう思える。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。