天才と秀才を分けるのは、意外にも天才が大衆に関心がある一方で秀才に全く関心が無いこと。
どうしてわかってくれない?
何でそれが流行るんだ?何が面白いんだ?
などと、いわば『市場』が理解できず苦しむのである。
天才の苦悩は、大衆がわからない苦悩。
疎外、排斥。
生前に名をあげないまま死に、
死後に評価を上げていく天才はいる。
天才の評価は時代が追いつかない。追いつけない。
他方秀才は、下位を見下し上位優越に浸りながら、その一方で、天才に対しては羨望と嫉妬が渦巻くという板挟みにあること。
一定数、大衆の支持を得る天才や、あるいは秀才が取り組んでいるベクトルの延長線上、いや、飛躍した先に天才がいるのである。
秀才に理解できないのは、天才の思考ロジック、着眼点、ひらめき。
秀才は、凡人に対してはテキトーにマウントをとっていれば何とかなることを知っている。
- 東大
- マッキンゼー
- 司法試験合格
などのスペックを打ち出せば大衆はワラワラと群がる。出版業界なんかはこれを一番わかっている。一般サラリーマン界隈で、この手のスペックが大事なのは、手足の凡人たちに対して求心力があるからでもある。
なぜならば凡人はコンプレックスの塊だからだ。人生の中でしっかりと序列意識を植え付けられた。
では凡人は?
凡人は非凡になりたい。優秀になりたい。上を目指したい。
その一方で、逆に異質なものや変なものを見下している、排斥しているのである。というか理解できない。彼らがアウトオブ眼中をするその中に、いわば天才が隠れている。
通常、凡人はこのように、秀才に憧れるノーマルピーポーである。
- 嬉しい
- 楽しい
- 気持ちいい
みたいな感想文だらけで生きている。
インフルエンサーは実は天才でも秀才でも無いことが多く、『凡人の中で目立ってる凡人』ということが多い。凡人を一番理解できて足並みを揃えられるのは凡人である。
注意が必要なのは、多くの人から支持された方が換金しやすい以上、
天才が金持ちとは限らない
ということである。
特に今の時代はコレが強く言える。
秀才は賢いので天才がわかってしまう。できないがわかるのである。凡人は天才がわからない。できないしわからない。レーダーにも映らない。
天才というのは、びっくりするほど大衆に知られない。
天才という評価を確立した人ですら、何をやったのかわからないままなんとなく認知されている程度である。
それでもまだマシな方だ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。