生きた心地がしない、生きてて楽しくないのは、死を意識してないから。生きられるのが当たり前だと思っているから。
人間は死をリアルに意識した瞬間、全ての感覚と思考が鋭敏になる。逆にいえば、生きられることが当たり前と思ってる間は催眠にかけられているかのごとく。
死のリアルを実感して命の有限性を体得的に知る。
死をもってして生が輝く。
-
敗戦の屈辱の回避に発した日本人の変質はいよいよ来る所まで来てしまったような気がします。家族なり企業組織なり国家なりという、不可避の連帯の中にありながらの過剰な個の主張は、戦後の悪しき所産である悪平等を生み出し、その中での努めることなしの甘えと無責任はマゾヒスティックな他力本願をますます助長して来ました。
たとえば昨今の子供のわがままぶりにしてもそうだ。試験が嫌だから、運動会が嫌だから、それをするなら死ぬなどという駄々を、なんで、それなら死んでしまえと突き放すことが出来ないのか。それがいえない教育者は所詮保身の故にとしかいいようがない。強く叱ることが慈悲なのだと自覚出来ぬ者に教育者を名乗る資格もありはしまい。
『亡国の徒に問う』(文藝春秋)
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。