自己啓発の教えを、自らの身体を使って検証してきました。だから、本当のことがわかるんです。人生なんて、ほんと変わるときは変わるんです。だからこそ、厄介なこととかあって。
人生なんて、変えようと思えば変わるけど、その本気の変化を人に勧めたら何が起こるのかというと、短期的には痛みや悲しみが押し寄せるのです。
多くの人は、その目先の現象だけをみて、やらなきゃ良かった、冒険しなきゃ良かったとか思うわけ。で、挫折するわけ。
ほんとはその中途半端が危ないのにね。
たとえば、ですよ。
今、すごく愛おしい彼女がいるとする。彼女の両親にも挨拶をしてるとする。結婚すら意識してるとしよう。
世の中の大学生が、就職にあたり、彼女と勤務地が離れるとかどーのこーので迷ってるぐらいでしょ?だから、いい歳した大人はもっと迷うわけですよ。
でも、考えてみてください。
今、素敵な彼女がいる人は、その彼女との出会いが元カノとの別れの上に成り立ってることに気付くことでしょう。つまり、人生というのは、別れや捨てが次の変化を生むのです。得たものは捨てたものの上にあるのです。
人生というのは、電車に乗るようなものです。
次から次へと新しい電車が来ます。
つまり、人生における変化というのは、短期的には損失を生む。痛みを伴う。ビジネスにおけるポジティブな変化も、投資という表面的損失の上に成り立っています。
すべてそうです。
世の中の人は勘違いしてます。変化というのは現状の延長にある伸長だと思ってます。もちろん、それでも変化は起こりますが、その変化はドラスティックな変化ではありません。
ドラスティックな変化というのは、構造的変化なのです。
もちろん、多くの人の人生というのは、現状を改善、最適化するだけで大きく伸長するでしょう。しかし、問題はその伸長が望む方向性にあるかどうかです。望む劇的な変化がそれなのかどうか、です。
現状を改善し、最適化した経験や実績というのは、持ち運びできるポータブルなものではあります。電車の乗り換えと同じで、とりあえず望む方向にざっくりと進んでおけば、次の乗り換えに活きてきます。
とはいえ、そもそも何線に乗るか?飛行機に乗るのか?という次元での変化も必要なのです。そしてそこには、常に痛みや哀しみが伴います。
捨てなきゃならないからです。
日本人はこれができません。伸長は得意なんですけどね。
今の自分を形成しているものは、すべて、別れの上に成り立っている。土地、生育環境、食い扶持、人付き合い、異性関係、あらゆるものを手放してきていると感じます。
能力の差や努力の度合いで人生が変わらないと嘆き、社会や自己啓発の類をひたすら責めている人がいますが、彼らをみていて思うのは、今すがっているものを捨てきれてないってことです。
変わらないことを選択してるのです。
選択肢は3つあれば十分です。6個以上検討すると麻痺に陥ります。それだけあれば、視野狭窄は避けられる。
あとは、決断です。選択肢を広げることをすすめる大人は多いわけですが、決めて断つことをすすめる人はいません。かならず痛みが伴うからですね。
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。