デスティネーションを作ろうとして書いた文章4 需要予測を走らせ、大博打

 

 

「間に合わなかった」

 

どれだけ時間的拘束から解放されても、時間から逃れられないことはある。

いや、結局、どこまでいっても、「時間の奴隷」なのかもしれない。

 

広島に来て牡蠣を食べずに去るなんて、風俗で射精せずに帰るようなものである。

どこかで持ち帰りでもできないかな、と思ったが、食べ物が食べ物なので無いだろうと思った。

 

別に牡蠣を食う代替手段なんていくらでもあるけれど(新幹線を無視して別日で取り直せば良い)、今の私にはこういう場面ぐらいしか「切迫した時間」を感じることがない。

だから、久しぶりに「時間」について考えさせられた。

 

 

この国のアカデミアは、先進国の割には世界的に劣位なのだけれど、物理だけは東大が世界TOP10に入る優秀な成績を収めている。

国語、数学、英語、物理、生物、地学、化学、地理、歴史、政治経済、倫理・・・・といった主要科目の中で、時間を取り扱うのは物理(physics)だ。

 

時間は、文字通り、physical(フィジカル)なテーマなのである。

 

痛みを伴わない教訓には意義がない。人は何かの犠牲なしには何も得ることはできないのだから。

ー鋼の錬金術師

 

身体性を伴わない時間には意味がない。時間は、「場所」と「当事者」なしには捉えようが無いのだから

ー現代の錬金術師 西園寺貴文

 

時間、とは、実は絶対的なものではない。

かの有名な、アインシュタインの「相対性理論」というのは、読んで字のごとく、時間が「絶対性」を持つものではなく「相対性」であることについて触れた理論だ。

彼は物理界のスーパースターだ。

Michael H. Hartが著した「The 100: A Ranking of the Most Influential Persons in History(歴史上最も影響を与えた人物ベスト100)」で10位にランクインしている。

アインシュタインが並み居る学者の中でも、ずば抜けて知名度が高いのは、彼の研究成果が「時間」という全ての人間にとって関心があるテーマでありつつ、時間の絶対性を揺るがしたからである。

 

時間
5年 43,800時間 2,628,000分 157,680,000秒
1年 8,760時間 525,600分 31,536,000秒
半年 4,380時間 262,800分 15,768,000秒
3ヶ月(四半期) 2,190時間 131,400分 7,884,000秒
1ヶ月 730時間 43,800分 2,628,000秒
1週間 168時間 10,080分 604,800秒
1日 24時間 1,440分 86,400秒

一般的に、人間の時間のうち1/3が睡眠に、1/3が仕事に取られている。

一生は、10の9乗(1,000,000,000)秒。正確には25億秒。

小学生の時、「き・は・じ」を習ったと思う。距離、速さ、時間のことだけれど、時間はあくまで物体の運動を巡る相対的な概念でしかない。

 

これはなんとなく、インフレの話に似ている。

例えば今、1000円でコーラが10本買えるとして、10年後にコーラが5本しか買えなくなった社会では1000円の価値は半減している。お金の価値は相対的だ。・・・・同一通貨の価値変動より、為替レートの方がわかりやすいかもしれない。2011年10月、10ドルのものは760円で買えたが、2015年1月には1200円になった。

同じように、東京〜名古屋間は現在、新幹線で1時間30分かかるけれど、2027年に開業予定のリニアモーターカーに乗れば40分で行けるようになるから、日本はその分「狭くなる」「近くなる」ことになる。

 

つまり「実質」という視点である。関西人には「正味」の方がしっくりくるかもしれない。

豊臣秀吉が現在の岡山県あたりで毛利と戦っていた際、信長の訃報(明智光秀に裏切られて殺される=本能寺の変)を聞いて、爆速で引き返し京都の山崎で明智光秀を討った「中国大返し」は移動時間に8日〜かかったとされているが、この史実が「爆速だった」と評価されていることからもわかるように、昔の日本は「広かった」のである。岡山〜京都間は一週間以上の距離だった。

現在は、新幹線に乗れば、広島〜京都間で1時間40分の距離である。

 

要するに時間は、

どれだけの事ができるか?

という「運動マター」で考えるべきだ。

 

・・・・我々は「動物」なのだから。

 

 

私は、14歳ぐらいまで、「暇だな」と思うことは度々あったけれど、15歳以降、人生で暇だと感じた事が1度も無い。やることを見つけたからだと思う。時間が無くなった。

動詞を見つけた。

英語の動詞には、「will」「must」「can」「have to」「had better」といった助動詞がつく。私は、「will」を持ったし、同時に「had better」「have to」も感じていて、「Can」と思えるようになるために自己投資期間も必要だと思った。

つまり、運動をすると決めてから、私の時間は短くなった。

 

やることができると、暇が無くなる。時間が足りなくなる。

 

 

1869年は明治維新の翌年。この年、東京・横浜間で最初の電信が開通し、1871年には郵便制度が、1872年には東京・新橋〜横浜間に初めて鉄道が開通した。

日本はこの頃から狭くなり始めた。近くなり始めた。どのくらいのインパクトだったか。

この国の現在の不動産業界で使われている「徒歩●分〜」の時間数は分速80m、つまり時速4.8kmで計算されている。これを援用して徒歩の速度が時速4.8kmだと仮定したら、日本で初めて開通した鉄道は32.8km/hあったというから、単純計算で当時の日本人の時間は、沿線に限って6倍増えたことになる。1時間で移動できる距離が、部分的に4.8kmから32.8kmに拡大したのである

現在の日本人が、津田沼、船橋、横浜、銀座、浅草などを1日の間に簡単に移動できるのは昔の感覚からすればテレポーテーションに近い。この感覚は、地方と東京を比べれば体感的にわかる。

地方から上京すると、網の目に張り巡らされた毛細血管のような公共交通が、分単位でやってくる東京の電鉄のクオリティに驚く。大阪と比べても比にならない。地方の電鉄は電鉄である。東京の電鉄は電鉄では無く、本当にテレポートマシンのようである。東京には「待ち時間」という概念が無いに等しい。駅に行き、すぐ電車が来て、乗り、移動完了という感じで、代替的なルートも乗り換えパターンも腐る程ある。

単純な数学であるが、駅の数が増えると、その間を結ぶルートも急激に増える。n角形における対角線の数は、「n(n-3)/2」であり、これに辺の数を足した数がrouteの数になる。五角形型の駅の配置だとrouteは10、十角形型の駅の配置だとrouteは45ある。

実際の駅の配置がn角形のようになっているわけではないけれど、大阪の駅の数513、東京の駅の数717、これを大阪の面積が1,899 km²に対して、東京の面積が622 km²であることを考えると、私の言っている意味が伝わると思う。東京は大阪の1/3の面積しかないのに、駅の数が1.4倍くらいある。実質、4倍ぐらいの密度で駅があるように感じることになる。

だから、テレポーテーションしているかのように都内を移動できる。しかも、東京という街には何でもあるのだ。多様な特色を持った街がギチギチに密集している。

 

京阪神の路線図。スカスカである。

東京の路線図。ギチギチである。ピンポイントでどこにでも行ける。待ち時間ほぼゼロ。本当に分単位で来る。

やろうと思えば、羽田か成田に快速でアクセスして、あるい新幹線に乗り、北海道に飛び自然と美食を楽しんで東京に帰ったらお台場に行く、というように、「時間を濃密に過ごすことが可能になる」のが東京なのである。

東京で流れている時間と地方で流れている時間は間違いなく違う。

人の数も、密度も、レベルが違うのだから、「情報量が違う、情報のスピードが違う」と感じて当たり前なのである。オーダーもベロシティもずば抜けている。

私はあちこち移動するからわかるが、大阪・名古屋以下で過ごす1日と、東京で過ごす1日はあまりにも違う。東京は、濃い。

 

Hiroshima Electric Railway mapHisagi (氷鷺) / CC BY-SA (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)

この国の代表的産業である自動車が、はじめて国内で作られたのは1904年。徳川最後の将軍、慶喜が死んだのが1913年。

第一次世界大戦が1914〜1918年。戦争特需の揺り戻しで不況に突入したのが1920年、関東大震災が1923年、満州事変が1931年、5.15事件が1932年。

 

 

広島駅構内で、異色の光沢を放つ物体。

 

 

さすが広島だ。

駅にマツダ車が置いてある。

 

 

鉄道・電車に加えて、モータリゼーションも時間革命を起こした。

私は、経済的に自由になる前は車を所有していた時代もあったが、経済的に自由になってから車は所有しておらず免許証が宝の持ち腐れになりつつある。

子供の頃、自動車は「とても高価なモノ」「ローンで買うもの」というイメージであったが、今の私にとって大抵の車は、フェラーリ含め、ポケットマネーで一括で買えるものであり、中学生ぐらいの私からすれば、まさかそんな大人に若くしてなれるとは思わなかった。そして、大人の私は、この手の場面で無意識に「車を買うことで得られる喜び」と「ソープで遊ぶことで得られる喜び」を脳内で比較するようになることもまた、予見できなかった(税金がこんなに高いことも予見できなかった)。

 

広島は、マツダの城下町でもある。

NISSANの本社は横浜に、トヨタは愛知に、HONDAは東京(静岡発)にあることを考えると「かなりのビッグビジネス」が君臨する土地であり、実際、広島に本社がある企業で年商No.1はマツダである。

実は、バレーボールで有名なMIKASA、バスケットボールやサッカーボールで有名なmolten(モルテン)も広島なのである。貴方が日本で体育会系の部活、あるいは体育の授業を受けた経験があるならば、必ず1度はお世話になっている。

私は中学生時代、モルテンのボールを蹴りまくっていた。

 

それにしても、広島はやっぱりマーケティングが上手いかもしれない。

(静岡も、駅にちゃんとご当地メーカーYAMAHAのピアノを置いているので、上手い。)

 

 

 

関東・関西・中京未満の4大地方都市を指す言葉として、

“札仙広福”

という言葉があり、最下位は仙台であることは異論の余地は無いが、トップは「札幌か?広島か?福岡か?」と議論が錯綜している。

 

人口や法人数、総生産などを見たとき、「福岡がトップでは?」という声があるが、私が実際に足を運んで体感する限りでは、

広島がトップでは?

という感覚を常に感じていた。この感覚と、実際の統計値(現実)のギャップの正体についてモヤモヤとした感覚を持っていたが、これはマクロとミクロの違いだと思う。

県や市をマクロで見ると、北海道・福岡は大きな都市であるが、ミクロで見ると広島には、原爆関連施設、サンフレッチェ、カープ、マツダなど、牽引役のトップランカーが全国・世界的に名が通っている。要素単体がキラリと光る。ヴィッセル神戸の2019年のJリーグ順位は8位だが、イニエスタがいる、みたいな話で、広島は、GDPで福岡・北海道に劣るが、「マツダ」「モルテン」「ミカサ」という名の通ったスタープレイヤーがいる。規模でマツダに勝てるビジネスは、福岡・北海道には無い。

実際、街を歩いていても、スケール感がある。

西園寺貴文作成:全国売り上げトップランク企業分布マップ
※熊本のくまモンは関連ビジネスだけでそこらへんの企業を凌ぐ売り上げがあるらしい。※大阪のキーエンスは社員年収ランキング上位などで有名だが、企業としての規模は大阪トップでは無い。

著名・トップランカー企業の分布マップを作成した。宮城には東北電力ぐらいしかない。電力、地銀が有力というのは田舎の特徴である。奈良、宮崎、香川、富山、島根も同じような特徴を備えている。

福岡も九州電力が上位に来る時点でその特徴から抜け出せていないが、トップランカーにトイレのTOTOがある。そして、札幌にはニトリが、広島にはマツダがある。

この分析軸で行くと、「札仙広福」は、4位宮城(仙台)、3位福岡、2位札幌、1位広島という捉え方もできなくは無い。人口ベースで見れば、福岡は広島を上回っているが、茨城は京都も広島も上回っている。茨城といえば、全国都道府県魅力度ランキング7年連続最下位の絶対王者である。「茨城は京都より都会」と言われたら首を傾げる人が多いように、人口だけで判断するのは難しい。世界の国別人口ランキングワンツーフィニッシュは、中国とインドであるがこれらがアメリカより都会的か、と言われたら首を傾げるだろう。

統計の数字は、実際に現場を見聞きして、あらゆる分析軸でスポットライトの角度を変えてみないと見えてこないことがたくさんある。

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。