若い人たちに教えてやるべきことはただの一事、生に期待すべきものは何ひとつとしてない、少々譲ってもほとんど何ひとつない、ということに尽きる。各人の引き当てたあらゆる見込み違いを列挙して、「失望表」を作成し、これを学校に掲示するというのが理想だ。(『生誕の災厄』)
— シオラン (@Cioran_Jp) April 30, 2019
二十歳になる前、私に理解できたと誇れる唯一のことは、子供をつくってはならないということだった。両親とは、いずれも無責任な者か人殺しだ。畜生だけが子供つくりにいそしむべきだろう。同情心があれば、私たちは「人の親」にはなれまい。「人の親」、私の知るもっともむごい言葉。(『カイエ』)
— シオラン (@Cioran_Jp) April 28, 2019
反出生主義は正しい。おそらく。
人生の51%以上は親の選択で決まる。
人生の不幸や問題はほとんど親起因、家系起因なのに人はその宿命を愛してしまう。だから苦しむ。
社会の権力者が経済のために、そしてマジョリティが自己都合のために出生主義を掲げる。やって反出生主義は滅殺される。
だって、中出し気持ちいいもん。
家族という逃避先とか、居場所があると心が楽だもんね。
特に人は自分の人生の落下を予期したり、弱くなると、強烈に絶対領域が欲しくなるから。
これ正しい事が通らないことの一例。
正しいことと通用していることは別。
おそらくこの世界で最も罪が重い部類に入るのが出産。殺人と出産は同じくらいに罪が重い。
80%か90%くらいの人は本来出産不適格で、それでも突っ切った結果として、その後20年くらいは犯した罪に対する贖罪の家庭が待っている。もしかすると子供がうまく羽ばたけないので、その贖罪の期間は延長されるかもしれない。
親はなぜあんなにも強烈に子供愛をアピールするのか。
もし、親が口にする通り、子供への愛情があるのであれば、人生と世界は不条理だらけで、そこを生き抜く過程を左右する初期設定を自分が決めてしまうことや、社会に張り巡らされた格差、何より生きる苦しさを知っているはずである。
そして、彼ら彼女らの口にする通り、子を思うのであれば、真っ当な思慮深さがあら限りにおいては自分の意思決定で人生の大枠を決めてしまうこと、そしてこの世界に産んでしまうこと、その先の長く苦しい道のりを案じるはずである。
多くの親はそれをわかっている。そして、子供に見抜かれて突かれるのを恐れている。だから、過剰に愛をアピールし、そして社会全体で親への崇拝をねじ込む。教育する。
過剰な愛のアピールは罪滅ぼし、フェイク、抗弁、予防線の意味合いもある。
あなたも親になればわかるわ
のフレーズでわかる通り、究極のネズミ講である。
ある意味、産まなかった・作らなかった人はまだ見ぬ自分の子供を愛した結果、産まなかった・作らなかったとも言えるのである。
要するに子供は親の自己都合で生まれる。
あらゆる方面から考えれば考えるほどそうなる。そしてそれで恩恵を受けるのは親である。子供に感謝を押し付けるのは間違っている。
出産は強烈な自己愛と盲目的自己肯定、あるいは快楽主義、またなどの所産である。子に選択権はほとんど存在しない。その点で釣り合いを取れるように親には産後、あらゆる義務や課題が次々降る。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。