これまでの人生を振り返ってみようと思う。
記憶を遡れる範囲からスタートしてみた時に、
人生のモチベーションチャートがどこから下がったのか。
それはやはり、
人と比べ始めた時
だと思う。
自分を人と比べ始めた時=社会性が身についてくる頃。
自分が社会集団の中で、どういう存在かを俯瞰し始める頃。
この頃から、やはり、人生の不幸度が上がっている。
私の記憶で遡れる範囲で言うと、それは小学校5年生。
小学校1年生ぐらいから、自分の家と周囲の家の違いくらいは認識できていたけれど、積極的に、ステータス意識が芽生えて、動き始めたのは小学校5年生くらいだと思う。
例えば、
1人で帰りたくない
とか
誰々と友達になっておいた方が良いのでは
とかね。
中1になるとこれが加速する。
思えば、「サラリーマン的」である。接待の精神である。
こうして、社会性なるものが身につき、
こうした方が良いのでは
と思う方向に自分を寄せ始める。感情演技が始まる。人間関係を構築するための仮面の構築が始まる。
中学校3年間は、それでとことん疲弊した3年間だった。
それ以降の人生でも、
この法則は共通しているように思う。
ステータスを意識し、
社会性を意識し、
他人の目を意識して動くと、
不幸が高まる。
ただし、それによって得られるものもある。
新しい経験。自己否定的な動き方。鍛錬。
でもやはり、向いていないことはサステナブルではない。
これまでの人生を振り返ると、
あそこに所属していたらすごいよ!!!
と言われるようなところに飛び込む経験は何度かあった。
その時の経験をつらつらと。
まず、
「看板」
で悦に浸れるのは最初だけ。
その世界に入ると、強い奴らがわんさかいる。
そこで認められないといけない。
受け入れられないといけない。
その世界のわかる連中には、結局、「個」として見られる。
個としての力、貢献がないとやっていけない。
これはスポーツ選手でもそうだけど、
ビッグクラブに行ったは良いけれど、全く試合に出られない選手がいる。
ブランド力はあって、ぱっと見すごいが、腐っている。
これは本当に良くない。
じゃあ、ブランド力もない、
実力も磨かれない、
怠けられる、
楽、
そういうところに所属していたらどうか?
そうすると、
一体何のために生きているのだろう
と自暴自棄になる。そしてある日、「完全に体が動けない」日がやってくる。
個人的な経験から言って、
ステータス性がある集団でブラック労働に駆られるキツさ
と、
ステータス性がない集団で楽だが無気力に働くキツさ
は完全に後者がきつい。
前者は、それなりに得るものがある。給与、社会的評判。きつい経験も次に持ち越せる。
- 名誉はない
- 地位もない
- スキルも磨かれない
- 成長しない
- 転勤もない
- もちろん給与は低い
みたいなところでは、日々を消化試合として過ごせるが、本当に
何やってんだろう
という気持ちにさせられる。
こういう場所は、
「ステータス性が高いハードな職場で燃え尽きた人」
ほど逃げ込みやすい場所だが、ここで完全に廃人が出来上がる。
ここでも、別の形で燃え尽きることになるからだ。
ある意味で、別の腐り方をする。
怠け癖がつく。
人生経験から言えることは、
その廃人コースは本当に危ない。
「楽だけど、何もない」
ところは本当に危ない。
そういうところに行って趣味で生きる方法もあるけれど、趣味に逃げれば逃げるほど、趣味が楽しいほど、仕事がキツくなる。
出勤するのがしんどくなる。
ハードすぎてもダメ。
楽だけど廃人になるコースもダメ。
これは人生で学んだポイントだ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。