とんねるずは死んだ

石橋貴明の口からとんねるずは死んだ、ってそれは衝撃

 

 

ビビってきたのは、まだ25、26歳の頃だった。早い成功に焦りが生まれる。

「あまりにも早くよい位置に着いちゃったので、キープしつつ前に進むには、よっぽどのヒットを出さないと。(レギュラーだった)『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、85年4月〜87年8月)が最初面白かったのに、途中からおニャン子クラブの番組みたいになっちゃって。『おニャン子クラブが終わったら、俺らも終わっちゃうんじゃないの?』って。『とにかく自分らの番組を作らないと』と思って、ひたすら企画書を書いてフジテレビに頼んでいました」

87年に『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ)、翌年には『とんねるずのみなさんのおかげです。』(同)がスタート。冠番組のヒットで揺るぎない地位を築いた

https://news.yahoo.co.jp/feature/1798

フジテレビとの蜜月関係というか、一つの局との関係性がかなり強かったことも伺えるし、この勢いのあったフジテレビという局との関係が、後の新しい時代のネックになっていた。

「100人全員を笑わせるのは不可能だと思うんですよ。絶対、自分の感性で笑わせたいという気持ちもある。1人でも引っかかって笑ってくれたら嬉しいんですけど、冠番組だと、1%じゃダメなんですよね。最大公約数を取りにいかないと。テレビというメディアは視聴率を取らないと続いていかないので。自分のやりたい方向に何かを足さないと、ある程度の数字は出てこなくなっちゃう」

視聴率については、「やってもやっても……正解が見つからない」と語る。

「最大公約数をどう求めていくか。時代であったり、いろんなことが重なり合わないと難しい。きっかけをつかんで、雪だるま式にでかくする。自分たちだけじゃなく、スタッフの力も必要で。スタッフが同じ方向を向いているかどうか、これが一番大事。端から端まで常にコミュニケーションをとって、巻き込んでいく。みんなプロでしたから、難しい発注をしても応えてくれましたね。『頭が焼けない程度にカツラが燃えるようにしてくれ』とか(笑)」

冠番組では多くの人たちの人気、支持を集めないといけないという難しさ。

石橋貴明に言わせれば、売れるというのは、「何年テレビに居られるか」だという。売れても勘違いせず、「このままだとあっという間に落っこちちゃうよ」と意識して、危機感を持てるかどうか。

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




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(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。