性格の良し悪しという概念は、20代以降、形骸化する。
20歳になると、国民年金の支払いが追いかけてくる。
現実が襲ってくる。
お金、将来、これらをよく考えないといけない。
そんな中で、「性格が良い子」なんかも、その現実に流されていく。一方、「性格が悪い子」とされながらも、将来のために準備をした人たちが、大人になると、結果的に金銭的自立を果たして、他者にタカらないようになる。
一方、性格が良いで生きてきたが何もない人たちは、どんどん、何もないまま年を重ねていってしまう。
そのあとが残酷なのだ。
結果的に、悪い人になってしまったり、そんな自分が許せなくなったりしておかしくなる。
また、劣悪な労働環境に陥ってしまい、どうにもならなくなってしまう。
そういうことがよくある。
18歳、20歳、25歳で、
「何をしているか」
「何をしてきたか」
でその人の将来は占えてしまう。
だから、大人になってから問われるのは、
「性格が良いか、悪いか」
ではない。
自分の生活を自分で支えられるか。
将来の負担を、他人に押しつけずに済むか。
苦しくなったときに、他者を恨み、依存し、搾取せずにいられるだけの基盤を持っているか。
そこが問われる。
もちろん、能力が高ければ善人になるわけではない。
お金があれば性格が良くなるわけでもない。
しかし、余裕のなさは、人の善意を簡単に破壊する。
生活が追い詰められれば、
他人の成功を憎み、
助けてもらうことを当然と思い、
自分の失敗の責任を誰かに負わせたくなる。
若い頃に「性格が良い」と評価されていたことは、
その人が親切で、従順で、争わず、周囲に合わせていたというだけかもしれない。
しかし大人の善良さには、もっと重い条件がつく。
自分の面倒を自分で見ること。
安易に他人へ寄りかからないこと。
現実から逃げず、将来の負担を先送りしないこと。
自分が苦しいからといって、他者の人生まで巻き込まないこと。
そう考えると、
性格の良し悪しが形骸化するのではない。
子ども時代の「性格の良さ」が、大人の現実に耐えられるものかどうか、試されるのである。
大人になっても性格が良い人とは、
ただ人当たりが良い人ではない。
現実を引き受けたうえで、
なお他者に不必要な負担をかけず、
自分の苦しさを他人への攻撃に変えず、
できる範囲で誠実に振る舞える人である。
性格とは、生まれつきの属性ではない。
現実に追い詰められたとき、
その人がどのような行動を選べる状態をつくってきたか。
その長年の準備まで含めて、
大人の性格なのである。
悪く言って仕舞えば、金
金がない人間は、性格が悪い
ゴミになる
クズになる
フリーライダーになる
残酷な結論を言えば、
大人の世界では、
「性格が良い」という評価だけでは、
ほとんど何の防御にもならない。
性格が良くても、
稼げなければ生活は苦しくなる。
将来への準備がなければ、選択肢は減る。
選択肢が減れば、嫌な仕事から逃げられず、
嫌な人間に頭を下げ、
家族や恋人や友人に依存しなければ生きられなくなる。
そして依存する側は、
いつまでも無垢な被害者ではいられない。
最初は、
少し助けてもらうだけだった。
少し待ってもらうだけだった。
少し多く負担してもらうだけだった。
しかし、それが続けば、
助けてもらうことが前提になり、
断られれば相手を冷たいと責め、
自分よりうまくいっている人を妬み、
最後には、
他人の時間、金、労力、感情を食いつぶして生きるようになる。
本人には、悪人になった自覚がない。
むしろ、
「自分はずっと真面目に生きてきた」
「性格だけは良かった」
「こんな自分を助けない社会の方がおかしい」
と思っている。
ここが最も残酷なところである。
若い頃に将来を考えず、
何も積み上げず、
現実から目をそらしてきた人が、
ある日突然、性格まで悪くなるわけではない。
何も持っていないために、
善良でいるための費用を払えなくなるのである。
人に優しくするにも、余裕がいる。
正直でいるにも、逃げ道がいる。
嫌な相手から離れるにも、金がいる。
不当な要求を断るにも、生活基盤がいる。
他人に依存しないためにも、能力と準備がいる。
つまり、
善良さは精神だけでできているのではない。
金、能力、健康、信用、選択肢といった、
現実的な資産によって支えられている。
もちろん、貧しい人が悪いわけではない。
恵まれた人が善いわけでもない。
しかし現実として、
余裕のない状態は、人間の善良さを摩耗させる。
だから、
18歳、20歳、25歳で何をしてきたかは、
単に将来いくら稼げるかを決めるだけではない。
将来、
誰かに頭を下げ続けるのか。
誰かに養ってもらうのか。
嫌な人間に従属するのか。
自分の不幸を他人に転嫁するのか。
それとも、
自分の生活を自分で引き受けたうえで、
なお他人に優しくいられるのか。
そこまで決めてしまう。
子どもの頃の性格の良さは、
余裕のある環境の中で採点された仮の評価にすぎない。
本当の性格は、
金がないとき、
仕事がないとき、
老い始めたとき、
誰にも必要とされなくなったときに現れる。
そのときにも、
他人を恨まず、
他人にタカらず、
他人を傷つけずに生きられるか。
それを可能にするのは、
きれいな心だけではない。
若い頃から積み上げてきた、
現実的な力である。
大人の善良さとは、
性格ではない。
自分の不幸の請求書を、
他人に回さずに済むだけの準備である。
性格が良いというのはクソの評価軸だ
そもそも、評価の基準が曖昧である
そんな曖昧な基準は機能しなくなる
一方、「金」「肩書き」のようなものはハッキリと機能する
そして、さらに残酷なのは、
準備をしなかったことの代償は、
本人だけが払うわけではないということだ。
親が払う。
配偶者が払う。
子どもが払う。
友人が払う。
職場の同僚が払う。
社会保障を通じて、見知らぬ誰かが払う。
本人が若い頃に先送りした問題は、
時間が経つと消えるのではない。
利息をつけて、
周囲の人間に請求される。
二十代では、
「まだ若いから」
で許された。
三十代では、
「事情があったから」
で同情された。
四十代になると、
周囲も自分の生活で精いっぱいになる。
親は老いる。
友人には家庭ができる。
兄弟にも守るべき生活がある。
誰もが、昔のようには助けてくれなくなる。
そこで初めて、
本人は、自分が孤立したと感じる。
しかし実際には、
突然、見捨てられたわけではない。
長年にわたって、
他人の善意を生活基盤として使い続けた結果、
その善意が尽きただけである。
助ける側にも限界がある。
一度助けることはできても、
人生そのものを代わりに背負うことはできない。
ところが、依存が長くなるほど、
本人の中では、
他人の援助が「好意」ではなく「義務」に変わっていく。
以前は感謝していたことに、
次第に感謝しなくなる。
援助が減れば、不満を持つ。
断られれば、裏切られたと感じる。
相手が自分の人生を優先すれば、
冷たい人間だと非難する。
こうして、
弱い立場にいることが、
他人を支配するための道具になる。
自分は傷ついている。
自分は恵まれなかった。
自分には事情がある。
だから、相手が我慢すべきだ。
だから、相手が譲るべきだ。
だから、相手が金を出すべきだ。
本人の中では、
これは搾取ではない。
救済を求めているだけである。
しかし、救済を要求される側から見れば、
それは明確な負担である。
性格の良さだけを評価されてきた人ほど、
この変化に気づきにくい。
自分は悪意を持っていない。
人を騙していない。
暴力も振るっていない。
だから、自分は悪い人間ではないと思っている。
だが、大人の世界では、
悪意がなくても他人を壊すことがある。
自分では何も決めない。
自分では責任を取らない。
自分では生活を立て直さない。
それでも、誰かが支えてくれることを期待する。
それだけで、
周囲の人間の時間と金と可能性を奪う。
悪人とは、
積極的に他人を傷つける人だけではない。
自分の人生を引き受けないことで、
結果として他人に背負わせる人もまた、
周囲にとっては加害者になり得る。
ここでは、
性格が良いかどうかなど、
もはや重要ではない。
本人が優しい言葉を使うか。
人当たりが柔らかいか。
困っている人に共感できるか。
それらは、本質ではない。
その人と関わることで、
周囲の人間の生活が重くなるのか。
軽くなるのか。
その人は、
自分の分の責任を引き受けているのか。
それとも、
見えない形で他人に転嫁しているのか。
大人の人間評価は、
そこへ移っていく。
若い頃は、
明るい、優しい、素直、真面目という性質が評価される。
しかし年齢を重ねるほど、
約束を守れるか。
働けるか。
金銭を管理できるか。
問題が起きたときに逃げずに処理できるか。
感情を理由に他人へ負担を押しつけないか。
という現実的な能力が、
その人の人格として扱われるようになる。
つまり、
能力と人格は、
大人になるほど切り離せなくなる。
無能だから悪いのではない。
失敗したから悪いのでもない。
問題は、
自分にできないことを認めず、
対策もせず、
その不足を当然のように他人へ補わせることである。
自立とは、
誰の助けも借りないことではない。
助けを受けたときに、
それを権利と勘違いしないこと。
可能な範囲で返そうとすること。
同じ問題を繰り返さないように、自分でも動くこと。
相手には断る自由があると理解すること。
それができる人は、
苦しい状況にいても、
まだ他人を食い潰さない。
逆に、
どれほど穏やかで人当たりがよくても、
自分の人生の責任を他人へ回し続ける人は、
長期的には周囲を疲弊させる。
最初は心配される。
次に助けられる。
その次は警戒される。
最後には、避けられる。
そして本人だけが、
なぜ人が離れていったのか分からない。
自分は性格が良いのに。
誰にも悪いことをしていないのに。
困っているだけなのに。
しかし周囲から見れば、
その「困っているだけ」が、
何年も続く請求書になっている。
だから、
若い頃に積み上げるべきものは、
地位や金だけではない。
自分の問題を、
自分で処理できる範囲を広げることである。
稼ぐ力。
断る力。
離れる力。
助けを求める力。
助けが得られなかったときに、別の手段を探す力。
失敗を認め、生活を縮小し、立て直す力。
これらは単なる処世術ではない。
他人を犠牲にせずに生きるための、
倫理的な能力である。
そう考えると、
二十代で何を積み上げたかという問題は、
成功するか、失敗するかだけの話ではない。
将来、
自分の不運を自分で引き受けられる人間になるのか。
それとも、
自分の不運を周囲の義務に変える人間になるのか。
その分岐でもある。
人生に失敗することはある。
病気になることもある。
仕事を失うこともある。
努力しても報われないこともある。
それでもなお、
他人を自分の犠牲者にしないために、
できる準備がある。
だから準備とは、
勝つためだけにするものではない。
負けたときに、
怪物にならないためにするものでもある。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



