#5 人は働くために生きているのでは無い。そして、親類、友達、結婚、恋人の類は不幸の源泉かもしれない。

以下、完全に偏見の塊を綴るのであまり真に受けないように。

 

常に思うことがある。

なぜ、幸せになることはこんなにも難しいのか。なぜ世の中の人はこんなにも人生に絶望し、悲観し、苦しんでいるのか。

自分自身、順風満帆に生きてきた人生では無いからこそ、そういう人たちの気持ちはわかる。そして、現在、心の底から「幸せだ」と言える状態にシフトできているからこそ、思うことがある。

 

基本的に、世の中の常識なるものは危ないものが多い。

なぜなら、人は常識には無条件に従うからだ。当然、常識に従えば「常識人だね」ということで、他者から受け入れられるなどのメリットはあるかもしれない。しかし、そのメリットと、デメリットの比較考量については、人それぞれである。もしかすると、デメリットの方が大きい人だっているかもしれない。少し、常識から外れた方が多いに救われる人だっているはずだ。

常識に沿って生きて生き辛いのなら、非常識になって生きて良い。そして、その非常識さが、社会に何かしらの価値を生み出せるポジションは必ずある。プライベートでも、東京のように変人が生きやすい場というのはある。世の中は、探せば割と柔軟性があるところだと気付かされるものだ。

 

人は、常識なるものをそのまま飲み込んでしまう。そのまま受け入れてしまう。そして、そこに対して再検証の目を向けることはない。結果として、自分が感じている不幸の原因について理解することができないまま、他のところに原因を求めてしまう。

 

物事は、原因があるから、結果がある。全ての物事を、シンプルな因果関係では説明できない。が、基本的には、ある程度のことが因果によって成立していることを前提にするならば、原因を間違ったところに求めることが不幸を招く(というか不幸を除去できない)最大の理由になると思う。

 

驚くなかれ。

私の個人的な経験から言わせれば、

  • 仕事
  • 結婚
  • 恋愛
  • 友人関係
  • 親子関係

は、大体の不幸の原因である。

こんなことを人前で言うと、明らかに変な目で見られる。しかし、本当にそう思うのだから仕方が無い。

そして、人がなぜ不幸になるのかというと、それらについて過度な理想を描きすぎていて、現実とのギャップに苦しむからである。というか、世の中の人間は、それらの事柄にいちいち、人生の意義の大半を見出そうとしすぎなのである。ウェイトを重く置きすぎ、とでも言ったら良いだろうか。

はて、それらの大半を消失する老後はどうやって生きていくつもりだろう?笑

 

仕事が好きだったとしても、いずれ飽きるかもしれないし、嫌いになるかもしれない。これは異性に対しても同様。友人に対しても同じことが言えて、仲良かったのに疎遠になる事例なんていくらでもある。

だからこそ、ロイヤリティが重要なのかもしれない。仕事に対するロイヤリティ、異性に対するロイヤリティ、友人に対するロイヤリティ。そして、社会や国家に対するロイヤリティ。でも、残念ながら私にはそのようなものが薄弱なようである。

 

喫煙、飲酒、薬物利用は一時の快楽は与えたとしても、長期的に見れば身を滅ぼすような効用があると思う。とはいえ、飲酒・喫煙に関しては、完全にシャットアウトし過ぎると面白くないから、ほどほどに距離を置きつつ、楽しもうというのが今の日本社会のスタンスだろう。

私からすると、

  • 仕事
  • 結婚
  • 恋愛
  • 友人関係
  • 親子関係

の類も、それに同等と感じてしまう。少々麻薬的なのである。近接すると甘いが、近接し過ぎると翼を炎で焼き尽くされて、地に堕ちるようなイメージである。

ほどほどに、が大事。

生きる意義の大半が仕事にあると思い込みすぎている人が多過ぎる。生きる意義の大半が異性関係にあると思い込みすぎている人が多過ぎる。生きる意義の大半が友人関係にあると思い込みすぎている人が多過ぎる。生きる意義の大半が親子関係にあると思い込みすぎている人が多過ぎる。

毎日の楽しみの大半をそれらにアウトソースするのは良い。軽い気分として、それらが楽しいと感じるのは健康的だ。しかし、非常に重々しい問いとして、意味とか意義とかを追求する次元でも、それらに大半を持っていかれるのは、どうだろう。一周回って苦しく無いだろうか。実にもったいない。

 

幸せそうな老人を見たことがあるだろうか。

仕事は定年退職し、配偶者は他界しており、高齢なので特に友達がいるわけでもなく、子供は自分の元から巣立っている。そういう老人で、楽しそうにしている人を見たことがあるだろうか。話をしたことがあるだろうか。

すごくシンプルに、楽に生きている。ゆったりとした時間の流れであったり、空や風、動物といった自然のものと戯れている。美味しい食事をつまみながら、ちょっと酒を引っ掛けたりして楽しんでいる。

たぶん、ここにヒントがある。

実際、私の生活もこういうスタイルに近い。

 

社会は、仕事が素晴らしいものだと煽る。

恋愛が素晴らしいものだと煽る。

結婚が素晴らしいものだと煽る。

友達100人できるかな?なんてことを教え込む。

 

別に、それらは否定しない。それで幸せな人は良いと思う。しかし、個人的な経験だと、それらに「人生の意義の大半を見出す」と苦しい。シンプルに、辛いのである。それらの領域に対して、過度に希望や幻想を抱く、理想を求める。これはきつい。

それらにあまりにも執着し過ぎるから、余裕が無くなる。「遊び」がなくなる。そして期待や理想が散々裏切られて、勝手に絶望し、怒り狂い、当たり、余計に負のスパイラルにハマっていく。

私は割と、希望とか理想の類を捨ててないし、前向きに生きているタイプだと思う。しかし、世間の人たちと捉え方が違うのは、それらを、

  • 仕事
  • 恋愛
  • 結婚
  • 友人関係

のようなものの中に見出していないことである。それは、ひねくれてるとかそういうことではない。希望とか絶望とかそういう概念すら、それらの領域にあまり持ち込んで無いのである。テキトーなのである。

ここが、普通の人たちと私の、決定的な違いと言っても良い。

 

そういうのから全て解放されてみると、案外、人生は自由だと気付くものだ。

見栄や人目も気にしなければ、本来、自由なのが人生なのである。

 

そうやって自由な気分になってみる。

すると、「何をやっても良いのだ」という気持ちにさせられるから、「成功したらすごいけど失敗したら一般的なキャリアに戻るのが難しい仕事」とか、「夢物語のような仕事」とか、「針の穴を通すような確率の仕事」とかにチャレンジすることができる。海外に移住しようとか、納得がいくまでブラブラしてみようとか、そういった思い切った決断もできる。

すると、個人的には心が軽くなるような思いがするのである。

 

働くことが偉いことだ。偉い仕事に就くべきだ。カッコイイ仕事がしたい。素敵な異性と出会いたい。そろそろ良い年齢だから結婚したい。何でも言い合える素敵な友人が欲しい・・・・・。

人は、そういうことを「自然に」考える傾向がある。自然に、というのがポイントだ。それらを当たり前のように捉えているのである。当然の前提のように。

 

もちろん、仕事、恋愛、結婚、友人関係の全てを通して、幸福を追求する生き方もありだと思う。そういうことができている人もいると思う。それこそが生きがいだ、という人もいると思う。

でも、私にはどうも、しっくりとこないのである。

たぶん、向いてないというのもある。

 

若いうちは、「立派なビジネスマンになりたい!」とか「立派な社会人になりたい!」という感じで意気揚々と社会に飛び込む人は多い。そういうフレッシュな人間はあるシーズンになると街でやたら見かける。

その一方で、若くして悲観的になっている人たちも沢山いる。

彼ら・彼女らの口からは、希望を持つから絶望する、なんてことはよく言われる。だから、人生について、早々から諦めている若い人を見かける。「悟って」しまい、暗い顔をしている若い人をよく見かける。元気を失っている若い人をよく見かける。

もったいないと思う。

希望を持ったら絶望するから「希望を持たない」という考えは、筋道としては悪くない。ただし、惜しいと思う。なぜなら、希望を見出す場所を間違えているように思うからだ。別に、希望自体はこの世界にあると思うのだ。それ自体はなんら夢物語では無い。

  • 仕事にやりがい全開!ハッピーMAX
  • お給料もうなぎ上り
  • 会社ではチヤホヤされ
  • 美人で性格の良い奥さんを手に入れ
  • 円満な家庭
  • 広々とした新築のお部屋
  • 可愛い子供達

みたいな、「ありきたり」な幸せ像を脳裏に描く人は多い。だから辛い。

漠然と、「普通の幸せ」の最上級みたいなものをかき集めた、幸せ像を描いて社会に飛び込む人は多い。そういうものこそが一番ハードだというのに。

そーゆーのをこじらせると、生きる気をなくしてしまうと思う。下手すると、何かを面白いとか、楽しいだとか、感じる・思う気持ちを無くしてしまうのである。だからこそ、どこに希望を見出すのかとかはよーく考えた方が良いと思う。

外国人と会話した、とか、美しい景色を見たとか、できなかったことができるようになったとか、わからなかったことがわかるようになったとか、面白いゲームにハマったとか、面白いドラマを見つけたとか、自分で何かを創ってみたとか、行きたい場所があるとか、・・・・・・・そういうところから感じられる幸福感をもっと大切にしても良いのでは無いだろうか。

 

私からすると、

  • 仕事
  • 恋愛
  • 結婚
  • 友人関係

といったものに対しては、そこまで希望とか理想を見出さず、テキトーにしておくのが幸せに生きるコツだと感じる。そこらへんはテキトーにしておき、別の領域で自分の感性を満たせば良いと思う。

幸福感を追求したり、楽しみを探したりするというか。本当に素直になって、自分が何に喜びを感じるのかを追求していくのである。

今、世の中ではインフルエンサーとして影響力を持っている人たちがいる。楽しそうに暮らしている人たちがいる。彼らは、若い頃に結婚を経験して、「もういい」と悟っているタイプが多いと感じる。

多分、純粋に、楽しさやワクワク、幸せを追いかけるとそういう結論になってしまうのだと思う。

 

人間は「幸せ」になるために生きていると思う。なるためにというか、誰もが幸せになりたいと思っている。だけれど、その幸せの大半というものが「結婚」「仕事」「友達」というところにあると思考停止的に思うことが、あらゆる不幸の元凶のような気がしてならないのは私だけだろうか。

楽しそうに生きている人間は、ちゃんと、それら以外の領域で何かを見つけているものである。

別に結婚とか、仕事とか、友達とかを避ける必要は無いけれど(避けすぎると生きていけないかもしれないけれど)、あまり執着しないというか、それらから距離を置くことを覚える。そこにしか希望はないと絶対視することから解放される。それらから、生きるパワーを抽出し過ぎようと思わなければ良いのである。自分のガソリンをそこらに求めすぎると疲れてしまう。テキトーに付き合っていれば、ふとした時に幸せが滲み出てきて、こぼれてきて、ちょっと美味しいよね、ぐらいの感覚で良いのでは無いか。

大学生ぐらいまでは、みんな、仕事に対してある程度「テキトーなスタンス」を持てているものだ。アソビがある。余裕がある。しかし、一度社会に出てしまうと、一気に視野が狭くなるのである。そこから逃げようというスタンスが無くなってしまう。真正面から受け止めすぎてしまうのである。だから、真面目な人ほど鬱になる。

 

例えば、仮に結婚をしたいと思った時。結婚と所得には明確な相関関係がある。つまり、低所得者の結婚率は低い。結婚をしたいと思った時、現実問題としてクリアしなければならない最低の所得ラインというものが存在すると思う。存在するというか、そういうものがあるような気がしてくる。

当然、世の中の人はなるべく高い所得を得ようとしているし、そういうところには人気が集う。しかし、賃金が高い仕事がなぜ賃金が高いのかというと、それなりの精神的消耗であったり、難しさであったり、苦労が伴うからである。才能や経歴、能力的な制約があるからである。リスクがあるからである。

そうやってやっとこさ得た賃金を、例えば奥さんであったり、子供であったりにつぎ込む。そして、その先の家庭生活で、うまくいかないことがあるとストレスが溜まるのは当然である。特に、そのためにたくさんのことを諦めたり、我慢したのであれば。

昔はそういう営みを義務として捉えていた人たちが多かった。同調圧力も強かっただろう。あるいは、今の若者と同じように最初は幻想を抱いて行ったけど、あとあと、「現実は違かった・・・」となっている人が多かったのだと思う。

昔は家庭内において、女性と子供に強い立場は無かった。圧政されていた家庭が多かったと聞く。そもそも、昔は結婚自体も自由恋愛の延長線上には無くて、お見合い結婚とか政略結婚があったりした。しかし、不思議なことに、自由恋愛からの結婚スタイルに移行してからは、不幸になる人が増えているという話も聞く。たぶん、いちいち希望を見出したりせず、義務として、与えられたレールをなぞっていた方が楽だったのかもしれない。思考停止的に淡々とこなせていた方が楽だったのかもしれない。無駄な自由性が導入され、幸せだの希望だのをやたら演出してしまうような世の中、マッチングコストがかかるような世の中になってから、無駄に不幸が増えたのかもしれない。

こういう様々な苦労を差し引いてでも、仕事にハリが出る・家庭生活が幸せと思える人たち、余裕がある人たちというのは限られていると思う。また、その限られている人たちの間でも、その幸福感が持続する人たちも限られているのでは無いか。しかも、普通の幸せが、ますます難易度を増すようになっている。

 

就職ー結婚がワンセットになっているように見えるのが世の中だと思うけれど、これを「普通だ」とか、「幸せのための鉄板コースだ」とか、「みんなうまくやっている」「俺も私もしなきゃ焦る」みたいなことから解放されることが大事なのではないか、と個人的には思ってしまう。

 

そもそも就職しなければならないというのは幻想である。人は働くために生まれてきたのでは無い。働かない方が、健康だし、疲れないし、ストレスはたまらない。

仕事しないと、「お金が無い」という問題があるだけであって、それ以外の面では働かないことの方が良い面が多かったりする。人に優しくいられたりするものである。若い人の方が、そういうことに理解があるから、そういう働き方に憧れる傾向にある。発想が自由で柔軟だし、まだ染まっていないから。だから、youtuberとかにも憧れる。遊んで暮らせる身分を目指すのも当然の発想として出てくる。

しかし、年寄りになればなるほど、そういう生き方には懐疑的だ。変な働き方を絶対に許容しない。認めない。それは、自分自身の生き方を否定することに繋がるからでもあるだろうし、自分が社会的洗脳を食らっているからでもある。

でも、少なくとも子供達は自由だ。そういうものから、自由に生きている。子供たちは、全くもって囚われていない。そして、大人になっても、子供心を発揮して生きている人たちこそ、一番輝いている。

 

仕事に関して言えば、仕事というのは「辛いもの」という常識がある。だからこそ、仕事を「楽しい」「生きがいだ」と感じている人は、そう感じているとアピールしたがる。積極的にその状態を自慢したがる。しかし、それは仕事の内容100%が楽しいという意味では決してないだろうし、おまけに、仕事を楽しいと語る人のほとんどは

「そう思わないとやっていけないから、対外的にPRすることで、自己肯定・自己洗脳している」

ように見えてならない。

実際、仕事が「楽しい」「面白い」「やりがいだ」「生きがいだ」と語る人たちは、しばらく時間が経つと完全に意気消沈していたり、辞めようか・辞めまいかと悩んでいたりするものである。

 

ここまでの話を踏まえれば、親子関係も友人関係も、なぜ苦労を招くかわかるだろう。親子であっても、考え方は当然に違う。友人同士でも、それは当然だ。そうなると、当然、いろんなところで不一致が起こる。場合によっては、考え方の押し付け合いが始まる。マウンティングが始まる。自慢合戦が始まる。説教が始まる。仲違いが生まれる。

 

ここまで色々と綴ってきたけれど、あくまでこれらは、私が考える幸福論でしかない。ただ、自分の中である程度確信していることでもある。人間にとって、人生が劇的に変わるようなパラダイムシフトというのは、常識をひっくり返したところにあると思う。私も、常識をひっくり返すことで生きやすくなる場面は多々あった。

個人的な経験から言って、

  • 仕事
  • 結婚
  • 恋愛
  • 友人関係

のようなものは、過度に執着しないことがとても大切だと感じている。これらの中から、人生の意義の大半を見出さないような生き方。その方が、私は楽だと感じるのである。

この「楽」というのはかなりおろそかにされている感情だと思う。しかし、楽であることは大切にした方が良いと思う。特に、生きていて生き辛さを感じやすいタイプの人は、これまでの育ってきた過程で、悪い努力のクセがついている可能性が高い。自分を苦しめることが努力だと学習してきている可能性が高い。もう少し、楽に生きることを検討しても良いと思う。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。