拝啓 何者にもなれなかった者たちへ
手前味噌で申し訳ないが、私は何者かになれた者である。
きっと、こんなタイプの人間は珍しいのだと思う。願った野望は全て叶った、全て手に入れた。20代で。
そして、人生ゲームを全クリしてしまったような感覚を若くして覚えた。
何者かになれた者として、何者にもなれなかった者たちに伝えるべきことがあるだろうと思う。
私からすると、私が何者かになれたのは必然であった。なぜならば、多大なる犠牲を支払ったからだ。犠牲は好き好んで支払ったが、私の目からすると、「何者かになれなかった者たち」は支払っている犠牲が安い。足りない。だから当然だと思う。申し訳がないが、圧倒的に努力の桁が違う。
これはいわゆる成功者・何者かになれた者たちが内心わかっていて、あえて公言しない点であるが、はっきりいって何者かになれなかった人たちとは、粉骨砕身の度合いがまるで違うのである。全く比べ物にならないスケールである。
私は文字通り、人生の全てを賭けたのだ。だから結果は必然だと思う。
問題は、何者かになれた者というのは、
- 自分の納得、達成感
- 他者からの承認
は物凄いものがあるが、しかし、それが「幸せ」とは全く異なるということである。
人生は壮大な暇つぶしであるため、こういったものののために人生を使うのも良いだろう。しかし、この生き方が幸せなのかどうか、と問われるとわからないのである。
つまらない回答だが、きっと、ありきたりな青春を過ごし、女子高生と出会い、恋をして、そのまま一緒に大学に上がり、新社会人数年くらいで結婚し、そしてそのまま別れずに家庭円満、、、、、みたいな人生が、幸せだと思う。それは、何者かになれた人生ではないけれど、充足する・満たされるものがあると思う。
もちろん、それもうまくいかないことは多い。
結婚しても、満足できないことは多い。
一般に、人は、
- 社会的成功
- 家庭の成功
のどちらかがあれば、「まぁいいや」と思えると思う。一方でどちらもなければ、やはり心は埋まらない。虚無だ。それを自分で納得させようとしても、辛いものがあると思う。
好きなことをやっていても、生きていくための仕事から逃げられない。
「何者かになれなかった」。
そう落ち込んでいても、実際のところ、うまくいっていないのは家庭ではないのか。
何者かになれなくても、幸せなパートナーや友人に囲まれていたらそれなりに満足できるのではないか。そういったものが無いのではないか。
要するに、虚無感があるのだろう。
虚無感を埋めるために、何かをしたか。何かをしようとしてみたか。
結局、心を充足させられたかどうか、なんだと思う。
私の場合、人生で一回くらいは、思い描いた通りのことを実現させられないと、自分で納得がいかなかった。だから思いっきりやったのである。その先に得られたものは、俗物的な報酬もあったが、結局は心理的な満足感だったのだと思う。
何者にもなれなかった。
それは、心の渇きなのだ。
敗北したって、全力でやったと思えたのなら、それでいいと思えるはずなのだ。
だから、やればいいのだ。
やったのか。やってないのか。
カッコつけずに、等身大の自分を見つめて、自分の心が欲してるものに蓋をせず、全力で体当たりしてみたのか。挑戦したのか。
22歳から、10年、15年、そうやって目先のことに一生懸命やってきた人間なら、それなりの感触と、反省と、納得感があるはずである。
「何者かになれなかった」
という虚無感の正体は、本当に、結果なのか。
プロセスに、甘さがあったのではないか。
本当に全てを捧げたのか?
私は、全てを捧げた。
胸を張っていえる。
私の場合は、恋をして、普通に家庭を作って・・・・みたいなありきたりなストーリーでは満足できない気がした。納得がいかない気がした。一度くらい、何か大きな野望を持って挑戦するべきだという感じがした。だからチャレンジしたのだ。
心を満足させたか。がむしゃらにやったか。
努力をしないことは、楽だ。
でも、後からツケが回ってくる。「それでよかったのか」と思うようになる。
燃え尽きるほどやりきった人間は、「精一杯やったのだ」と思える。
なんとなくでは、魂が腐ってしまう。
本気でやることは、心を納得させるためでもある。
一生懸命とは、文字通り、全てを賭けること。
そして、それをやることの疲労・リスク・コストに恐れ慄いた人たちが、後になってこう思うのだ。
「何者にもなれなかった、これでよかったのか」と。
本当に全てを捧げて燃え尽きていたのなら、そんなことは思わない。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。