あいみょんを『オンナ』という目で一度も見たこと無いし、かなり神々しい現人神みたいな風に見えてしまっているファンなわけだが、あえてあいみょんと付き合ったらどうなるのだろうと妄想してみる。
カラオケなんか行った暁には大変なことになる。
あいみょんは実は結構おっぱいが大きい。前にボディラインがハッキリした服を着ていた時に気付いて結構巨乳だなと思った。けど、そーゆーのを見てもそれでも全く、興奮しない。触りたいな、とかもまったく思わない。まったく1ミリも興奮しない。あいみょんとエッチしたらどうなるだろうとか考えても1ミリも興奮しない。キスとかもそう。まったく、この人とのキスやセックスに興味が持てない。
それより何より、歌って欲しいなとか、喋ってみたいなとか、何を考えてるのだろうとか、何を読むんだろうとか、何して遊ぶのだろうとか、どんな人と友達するんだろう、とか、純粋に気になってしまう。
でもそれは、誰かを好きになった時にその人のことを想うような、知りたいと感じるような、ドキドキするものとはまた違う興味の持ち方である。単純な好奇心というかなんというか、そういう類である。
そもそも、顔が特別好きというわけではない。
小顔だし、スタイルも良い方だと想うし、髪も綺麗だし、肌も綺麗、歯も綺麗だけれど、『うわっ、かわいいっ、ドキドキするっ』みたいな風に思ったことがない。そういう目で見たことがない。多分接近してもドキドキしない。至近距離でもドキドキしない。
でも、確実に言えることは、あいみょんは男ではない。コレは間違いない。男みたいに見える女…..というわけでもない。異性であることは間違いない。
純粋に人に興味を持つ。下心は一切無く興味を持つ。でも、その対象がたまたま女性である。異性である。でも下心は一切沸かない。別に手を繋がなくてもハグしなくても良い。それでも近づいてみたい対象。そして、ルックスを見てエロいことを考えるわけでも、トキメクわけでもない。
純粋にこの人のことを知りたい、交流してみたい。近づいてみたい。そしてその気持ちが、とりあえず異性らしき人であるこの人に向いている。そんな感じ。それはいわば、友達になってみたいと思う感覚なのだろうか。いや、友達はそれはそれで違う気がする。それは本当に普通にただの友達になってしまいそうな気がして違う。
色欲に溺れた私にとって、そして大なり小なり『オンナ』という武装がされた女が街を闊歩するこの世界で、そしてはじめての勃起からずっと性欲に囚われてきた私にとって、この体験はまさに不思議なものである。
オンナを一切感じさせないオンナに、純粋に人として惹かれる。
きっと、あいみょんにはお金がある。おまけに印税で不労所得がある。だから、『えっ、お金持ちなんですね💕』みたいなリアクションをされることは無いだろうし、そういう意味でも俗っぽい会話をする必要が無いだろう。
まさに、金と色欲から、無縁の対象。俗世とは乖離した世界になる。
7歳の頃から『オンナ』を感じさせたフィギュアスケーターの本田望結ちゃんと違って、20代のあいみょんからは本当に『オンナ』を感じない。彼女の書く歌詞には、愛されたいとか愛されないとか彼氏ができないみたいなのが多くて、本人の気持ちなのか世の中の気持ちを歌ったのかはわからないけど、もし1ミリでも前者の要素があるのならば彼女がオンナの枠組みを超えているからだと思う。
彼女がおっぱいを歌詞にしちゃうけれど、それはなんかやらしさのカケラもなくて、なんなら女性的な恥じらいも感じさせなくて、なんか、違うおっぱいな気がする。爽やかさしかない。
彼女に喋らせても、インスタをさせても、そこからはその年代の女の子的なものが一切出てこない。私可愛いでしょとか、私綺麗でしょとか、私可愛くなったでしょとか、私可愛くなりたいのとか、そーゆーものが一切出てこない。感じない。むしろ、私を女として見るな、純粋に音楽を評価しろ、と言わんばかりだ。というか彼女自身が音楽に魂を売っている。
20代の女の子であれだけ世間に顔が売れてしまっているのに、である。
つまり、あいみょんは存在自体が、俗世から乖離したものであり、そこに惹かれているこの心境にも、ある種の俗世から乖離したものを感じ、私はそこに神々しさを感じ、彼女を神的なもののように感じるわけである。
でも最近、あいみょんは少し綺麗になった。
綺麗になった、と言うのはいわば、俗世におけるオンナのベクトルに少し寄ったということだ。
だから、もしかすると、接しているうちに、ふと、オンナとして意識するかもしれない。あるいはこの人のオンナになる顔が見たい、なんてことを思うかもしれない。オンナの顔にしたい、なんて思うこともあるかもしれない。
そうした時に、きっと、どこかのタイミングで、ドキドキし始めるようになるのかもしれない。
…..でも思った。
本来、人を好きになるというのは、こういうプロセスを踏むべきはずなのだ。
本来は。
乳や脚を出して歩く女を見過ぎた。最初からボディタッチする女と触れすぎた。おっぱいや、マンコにしか興味がない女と交わりすぎた。資本主義の権化であるソープを使い過ぎた。出会って即セックスしすぎた。下心でマッチングアプリを使いすぎた。ナンパしすぎた。ガールズバーやキャバクラを経験しすぎた。可愛い女の子に惹かれすぎた。結婚を急かされた。年収や仕事を気にされすぎた。将来を真剣に考えてる人みたいな条件をつけられた。顔が可愛い女と交流しすぎた。
異性の中身を一切見ずに生きてきたのだろうか?
いいや。そんなことはない。アプリで知り合い、顔を知らない段階でテキストをやり取りし、連絡先を交換して通話をたくさんして、…..みたいな異性はコレまでに何人もいた。そういうこともたくさんやった。
もちろん、中身が面白いとか、相性が合うとか、話が合うとか、そういうことはたくさんあったけれど、純粋な強い興味、好奇心を持てていただろうかと自問自答すると少し疑問が残る。そもそも、興味や好奇心というものはそう簡単に持てるものじゃない。
世の中には女性シンガーやアーティストはたくさんいるけれど、ガガにしてもシャキーラにしてもニコールにしてもビヨンセにしても、みんなすぐに乳を出してしまう。谷間を出してしまう。
aikoはカブトムシすぎる。
Twiceは可愛いすぎる。
安室奈美恵は美しすぎる。
そこにはオンナのニオイがする。
あいみょんはしない。
小学校4年生の時にクラスの女子に誘われてその子の家に行ったことがある。当然、その当時はエッチできるかなとか、キスするかな、なんて思っちゃいない。1ミリも思わない。彼氏彼女の概念すら無い。ただ単純に話が合う友達だった。
なんというか、そーゆー空気を本当に久しぶりに、ふと思い出させるのだ。
男より女の方が色気付いたり、マセるのが早いから、そんな感じで友達として普通に交流していただけなのに、いつの間にか異性として好かれてしまって、その想いをぶつけられて、
『えっ、、、俺はそんなつもりじゃなかったのに、、、』
みたいに思ったことが数回あったけれども、いつの間にかそれは逆転してしまった。そーゆーリアクションを取られる側になり、それでもなんやかんやして交際に結びつける、みたいになったことも思春期にあった気がする。
いつも思うことがある。
俺は本当の意味で、異性に興味を持ったことがあるのだろうか。そこから始めた恋愛があったのだろうか。
もしかしたら無いかも知れない。
変な話だけれど、アプリ経由で知り合った顔の知らない女と仲良くなってしまって、そのまま会ってしまったことがある。全然ルックス的には好きな感じでは無かったけれど、それでも、一緒に過ごしているうちに居心地の良さというかそれなりの楽しさを感じてしまった。そこにいるのは、たしかに異性であって、でも性的に興味を持つわけでもドキドキするわけでもない。別にキスもしたくないし、セックスもしたくないという相手。
おそらく、夜の街でキラキラしてる女とセックスする時とは違い、ペニスがギンギンに勃つわけでもない。多くを求める事も無い。
もしこれが本当の意味で正しい恋愛だとしたら、恋愛は友愛に近いものなのかもしれない。でもそれだけでは足りない。まあ理論的には恋愛のメカニズムはもうわかりきっている。友愛的な感情に性愛的なものが噛み合わないと恋愛は作動しない。そして、そこにお互いの意思の合致という要素が加わる。コミットメントが恋愛を盛り上げる。要は、好きになるからもっと好きになる、だとか、好かれるから好きになる、だとか、好きになった先の反応や展開でもっと好きになる、だとか相互作用的なものだ。
お互いの好きと言う意思で、恋愛は加速する。
人を好きになるとはどういうことだろう。
実は、66%ぐらいは友愛的な興味と、『好きになるから好きになるんだ』みたいな要素でできてる部分はあるのかもしれない。
33%の性愛的な要素は大事で、オンナとしてのキラキラ感や可愛さがある女は、若年期にはとにかくモテる。ゆるふわでも、小動物系でも、セクシー系でも何でも良いけれど、とにかくそういう女はモテる。そして、世間やメディアが、オンナとしての魅力はそういうものだと煽り、描いていく。女優とは言わばその33%をパブリックに売り捌いても何の抵抗も持たない振り切ったオンナかもしくは、オンナの魅力をまとった内心サバサバドライのオトコかどちらかだ。
だからこそ、あいみょんには、老若男女を虜にする魅力がある。
もしかすると、33%に溺れすぎてるのかもね、と思う。それは男女共に。
でも、少なくとも、私は33%に溺れていたい。人生は仕事や向社会的活動だけでは無いのは間違い無いけれど、私はこの世の中で経済性を抜きにして幸福を語れない。恋愛なんてものは2の次でしか無い。そしてその33%に溺れることが活力になっている。バイタリティやエネルギーとは天来のものというより補給するものだと思う。ステーキやエロいオンナは、まさに肉食の対象であり、肉食になればバイタリティは加速する。そして、世間も、仕事も、オンナたちも肉食を好む。草食は避けられる。
ただ、少しだけ、シンプルに人を好きになるとはどういうことか、ということを、お口直し的に再考できるような何かを与えてくれる存在があいみょんでもある。
それだけ、彼女は、歌がうまい。
そして面白い、ということだ。
その一点、二点で生きてる人間が、近年はとても珍しい。
世間にはあいみょんの良さがわからないという人がいるらしい。きっとその人は、割と年代層高めで、クリーンに生きてきたのではないだろうか。
若年世界は混沌としたカオスで、色欲が渦巻き、資本主義に飲み込まれながら葛藤して公私共にもがいている人間が多い。
私を好きじゃないならば死ね。
あまりにも過激な歌詞に、公のメディアでは放送禁止になったというが、この手のものを遠ざけたりするのはある意味オトナであって、この手の世界観が若いということだと思う。
私を好きじゃないならば死ね
という感性がまったくわからなくなったとき、人はきっとオトナになっていて、若年層をわからなくなっていて、そして余裕が持てるようになっていて、うまくいっていて、あるいは諦めていて。
大なり小なりメンヘラと呼ばれる状態に寄っていたり、感情の暴走を止められない、想いを抑えられないのが若いということでもあると思う。
私は10代の頃、別れ話を切り出した時に彼女に包丁を持ち出された事がある。泣きながら包丁を手に取った元彼女がいる。
今となっては、そんな狂気と若さの渦巻く恋愛とはまったく歪んだ世界に生きて、遠い昔話となり、ほとんど忘れかけている。
けれど、おそらく、程度の差はあれ、恋煩いで仕事に手がつかないとか、異性が気になって勉強ができないだとか、失恋して寝込んだとか、旅に出たとか、髪を切ったとか、進路を変えただとか、離婚して新しい仕事を始めただとか、離婚して酒に溺れるようになっただとか、大なり小なり、恋愛で身を焦がす経験は、誰もが持っているものだと思うのだ。
でもそれすらきっと、時間が経てば懐かしい思い出になると思う。きっとおじさん、おばさんになればそんな想いすらできなくなる。そういう狂ったものすら、どことなく羨ましくなるだろう。
人はだんだんオトナになる。
全ての物事には旬があって、辛い想いすらも、狂気の体験すらも、時が経てばできなくなり、やがてそれは羨ましい対象に変わっていくもの。
手が届かない、無縁のものになっていく。
辛い、苦しい、きつい、と思うことすら、誰かの羨望の対象かもしれない。選ばれた人にしかできないかもしれない。限られた時間にしか体験できないものなのかもしれない。失恋も、倒産も、浪人も、全ては遠い思い出となり、味わいたくても味わえることの無い人生のドラマとして、いつかノスタルジーの対象になるかもしれない。いつか、目先で、手のひらで感じられているものは、もう二度と体験できなくなるかもしれない。なんなら明日死ぬかもしれない。
The wizarding world of marketer.
魔法には期限がある。
あいみょんは魔法使いのうちの一人だろう。
以前、テレビのインタビューで、あいみょんのファンがインタビュアーに、どこがあいみょんの魅力なのかと尋ねられて
あいみょんの歌詞には嘘がない
と言っていたのが印象的だった。
なんとなく、言いたいことは、私はわかる。
日本の多くの女性は、彼氏に重いと思われた経験や、その経験をもとに重いと思われることを恐れるようになった経験や、軽くなりすぎてどこか宙に浮いてしまって彷徨って何がなんだかわからなくなった経験を持っているのかもしれない。
君たちは少し、marketingの世界や、businessの世界に来ることで、少し、人生が好転するかもしれない。
恋愛はドラッグに近い。それだけに身を浸すと、多くの人は危険な場合もある。女性誌やデパコスばかりじゃバカになるかもしれない。66%に少し比重を移して、かつ、少し普通に社会人活動に力を入れてみても良いかもしれない。
意外と男も、女の社会性や経済性、能力性をまとった姿に惹かれるものだということだ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。