好きと評価は両立しないし、両立させたくないし、評価を受けることだけになると心が死ぬ=しんどい。
かと言って好きだけをやると、今度は評価が無い。
人生の要諦はこのバランスに尽きると思っていて、一見すると好きを貫く人生はハッピーに見えるけどハシゴ外されたら秒速で地獄行きで、まさに薄氷の上を歩くよう。好きなことをして好きな人と一緒にいて幸せみたいなタイプと、ドキュメンタリーに出てくる苦しそうな人たちは紙一重。
評価を受ける時には、好きとは無関係の次元、正確には対象が好きというよりせめて動詞の好きでなければならないと思う。
評価を受けるためには、評価者の評価のツボをおさえていないといけないのであって、例えば異性相手に純粋にその対策をしていくのは、試験とか面接の類と同じで楽しい訳がないし、やってるうちに、好きが削り取られるのだから、セックスという快楽報酬が待っていないと続けられないだろう。
そして、純粋たる好きな場合は、その想いや熱量を伝えてそれが受け入れられない場合においては結合しても不幸になるのであって、そこにあるのは、評価ゲーム。
好きなものに好きをストレートにぶつけて楽しむ好きな楽しみと、評価ゲームをプレイする活動の二つを分けて持っていないと辛いね。
そういう意味で、好きは自動詞的なもの、自己完結的なものになると思うし、それを何か一つ見つけておくと良いよね。
俺の場合は旅だけどね。
好きなことを仕事にするのではなく、好きなことに貢献する評価ゲームをプレイすることで評価ゲームに感謝できる構造が1番しっくりくる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。