西園寺は迎合しない 「お前の言ってたことは当たってた」って何回も言われてきたから

人生経験というのは、当然、あらゆる場面でもその端々に滲み出るものです。

 

西園寺は昔から、誤解される人間です。
ファーストインプレッションの評価が良いか悪いかで言えば、悪いことの方が多いです。

 

最初の頃、

すごく嫌われてたり噛み付かれてたのに、

あとあと好意を持たれるようになることは多いです。

 

「最初は嫌いだったんですけど・・・」とかよく言われてきました。

 

これはビジネス上でも全く同じことが起こっています。

 

西園寺の元カノは、「お前みたいな男が1番嫌いでお前みたいな人間と付き合うなんてあり得ないって最初思ってた」みたいなことを言ってきたことがあります。仲良い人にも、最初大嫌いでしたとか言われたことあるし、今仲良いけど昔は一時期めっちゃ誤解されて縁を切られた、喧嘩した、罵倒されたってこともあります。

それだけじゃないです。

あんまり仲が良くない女の子をキレさせて、
すごい気まずい雰囲気になって嫌われたけど、
しばらく時間経った後に、1番信頼できる男扱いされたこと、
美味しい展開になったこと、そういうことなんて多々あります。

 

もちろん、私のことをずーっと嫌いな人、

だんだん嫌いになっていく人だっています。

 

でも私は、関係が深まった人との間では、

たとえ別れがあろうと、避難されることがあろうと、

総合的に見て「あいつは合ってた」「あいつのこと誤解してた」「あいつは悪いやつじゃない(でも関係を続けるのは、もう、ちょっと、嫌かな、性格が合わないだけだけど)」ってボチボチの評価を総括的に得ることは多かったのです。

 

これはひとえに、私があまり迎合をすることが好きじゃないのと、言い方が悪いのに端を発する問題だと自分では思っています。

あと、基本的には「考えが深い」とか「考えすぎ」とかよく言われてきた人生です。なので、たとえば交際していた女性と、とある点でわかり合えず揉め、結果的に別れたあと数年たってその論点について、ひたすら謝罪されるとかこれまでに頻発してきました。価値観の相違で仲違いした人間が、価値観を進化させてきて謝罪されることなんて結構ありました。

時代が自分に追いついてくるパターンならぬ、

元カノが自分に追いついてくるパターンです。

 

もちろん、逆もありますよ。私が嫌ったり批判した相手について、謝罪して相手の感覚に後追いで追いつくことももちろんあります。

 

人からの評価というのは難しいもので、

一体何処を見られてどう感じ取られるかはわかりませんし、

時間が流れるに連れて評価は移り変わっていくものです。

相手だって人間ですから、成長し変化していきますからね。

 

下手に迎合した結果、

一時期的には好評価されたとしても、

しばらく経って低評価されて捨てられるパターンとか結構悲しいと思いませんか。

 

モテることを志向して作った自分で女性と関係を持つと、それ、あるあるパターンですね。

 

あと、友達がとある異性に惚れて、その人について「どう思う?」と尋ねられた場合、本当は良いと思わないのにいい加減に賞賛したりして、あとあと、その友達がその異性との間でいざこざがあって、ついでに飛び火をくらうとか信頼を失うってパターンも無くはないと思います。

西園寺さんは、友人が熱を上げている対象について、容赦なく否定的見解を披露して、それでその友人の気分を害して気まずい空気になって、そして時間が経った後に友人がその対象に絶望したり嫌悪する展開になって、後々強い信頼を得るようになった経験とかも本当によくあります。

 

心底思うのですが、人からの評価なんてマジでミズモノです。

そして人が言ってくることも案外、いい加減です。

 

だから、迎合して生きることの馬鹿馬鹿しさや危うさに、私は若い頃から結構気付いています。

自分のスタンスや主張を持って生きることの重要性に、自然に気付いてきました。

 

余談ですが、個人的に恐ろしいなと思うのは、あまり自分のスタンスなどを持たずして、人からの提言や意見を鵜呑みにしすぎる人です。あまり自分がなさそうな人。こういう人は、一見穏やかで優しそうに見えますが、何かあったときにブチギレます。責任転嫁してきます。主体性が無いんですね。こういう協調性が高そうなタイプは、一見人当たりが良いのですが、長い目で見るとぶつかってくるタイプより、ちょっと恐ろしく感じてしまいます。

 

人からの評価がないと生きていけないのが人間ではありますが、その反面、迎合していると面白くないし場合によっては信頼を失うことだってあるのです。また、主張がない・個性がない人間として、尊重されずに軽く扱われることだってあると思います。

私は、人間は卵のようなものだと思っていて、黄身と白身の2層構造だと思っています。黄身の部分というのは、人間の本質のようなもので、これは大昔からずっと変わらないものであり、その人個人についてもずっと基本的には変わらない部分です。白身の部分というのは、時代に左右されたり、時期や期限などによって変わるもの。また、その人自身が進化・成長していく部分。

 

人間、誰だって二面性を持っていると思いますが、大事なのは相手の黄身の部分に刺すこと、相手の黄身の部分からこちらに対する評価を得ることだと思っています。白身次元は案外、どうでもいいものです。そして、白身次元は見える次元ですが、見える次元と本質は違うのですから、あんまり相手のリアクションだったり、相手の情報を気にしすぎて迎合したらたぶん、あんまり良くないはずなんですよね。

 

迎合しないってのは、相手が男か女か、20代か40代か、どういう見た目か、表面上はどういうことを言ってくるのか、そういうことをあまり気にしない、シカトするっていうことでもあると思います。人間誰だって、空気なり反応なりを読みたがるものだし、合わせて気に入られたがる生き物でもあります。好かれたい、って気持ちから逃げることはできない。

でも、好かれたいって思ってやった行動の先で嫌われたら悲しいし、好かれたいって思ってやったことについてあとからボロクソ批判を受けるのなんて不本意の極みってやつでしょう。しかし、人間からの評価っていういい加減でミズモノの世界には、それがつきものなのです。その恐ろしさというのは、人気商売に従事する人や、舞台に立っている人、人に向けて広く情報発信をしている人などはよくわかっているはずなのです。

 

顔色を伺わない、って結構大事です。

大人になると、どうしても気を遣ってしまいます。

 

西園寺だって、何度震えながら、メルマガの送信ボタンを押したか、ワードプレスの投稿ボタンを押したか、数え切れません。

女性に向かって、何度、清水の舞台から飛び込む気持ちで赤裸々な心境を語ったり、言っていいのかわからないことを言ったり、正直な指摘や批判をしたことがあるか、数え切れません。

何度友人に向かって、強烈なdisり毒を吐いたことがあるか、わかりません。

 

しかし、これまでの人生経験上、迎合しないで生きるってことが、

(表面的には他人との摩擦を生じさせたり、細々とした問題を誘発するとはいえど)

自分にとっても他人にとっても良いことだと思うようになってきています。

 

特に、大事に思う相手ほど。

深い関係、長い関係を結ぼうとしている相手ほど。

 

つまり、自他に対する誠実さを貫く、ということでしょうか。

 

もちろん、歳を重ねるに連れてそれなりの大人らしい振る舞いとか、言葉の選び方というものについて、言い訳のしようができなくなる場面は増えていくでしょう。

しかし、遠いヨーロッパの国からやってきた女の子に、「これまで生きてきた人生の中で、これほど落ち着いて話せる相手、心開ける相手はあなたがはじめてだわ」と言われたり、英語圏の国からやってきて日本で社畜街道を歩んでいる人間にLINE電話で辛辣に日本企業disりを聞かされている自分をふとメタ認知したとき、

「この生き方はそこまで間違ってない」

とたまに強烈に自己正当化したりするわけです。

 

西園寺さんは、自分をつくって偽って、演じて生きている人にやたら好かれる傾向にあります。

「こいつは良くも悪くもまっすぐ生きてやがる」と思われているのでしょう。

 

もちろん、西園寺さんだって平気で嘘をついたり、自分を偽ったり、演じたりします。思いっきり手を出すつもりでいるのに、「何もしないから!」と宿泊先の部屋に女性を招いたり、ジェントルメンぶってみたり、図太くて強い男を演じてみたりすることも多々あります。

しかし、良くも悪くも、あまり自分を抑え込むということができないのです。

悪く言えば、不器用なところも多いわけです。

 

まぁ、自分に関しては99%の粗と、1%の長所で生きていると思っていて、自分に関しては99%悪いように見られても思われてもしゃーないと開き直っているところがあります。というか、そういう風に考えている方が、自分としても変に気負わなくて良いから楽なのです。そして、事実、自分という人間は、そういういびつな構造で成り立っていると思っています。

ただその1%の部分に、「自分の生き方をする」という長所が含まれているわけです。

 

大衆に追随したい本能、人目を気にして好かれたい本能、これまでに刷り込まれてきた常識や当たり前、べき論、・・・・・こういったものから解放されて、自分の感じたまま、考えたまま生きたい、そうすることで自分は幸せになれる、という感覚が私にはあるわけです。

そして、その感覚を殺したまま、人と関係を結んでも意味がないだろ、と思っているところがあるわけです。

 

どうせ、好かれようと思って好かれる人間でもないし、

カッコつけようと思ってカッコがつく人間でもないのだから、ってね。

 

P.S

人からの程よく見下されている、

ダサいなぁ、弱いなぁ、恥ずかしいなぁ、バカだなぁ、と思われているから、

ある程度傍若無人な振る舞いとかって許されるのかもしれません。

あまりに強い人、完璧すぎる人が言いたい放題言ったり、めちゃくちゃに振舞っていたらかなり威圧感は強いでしょうね。

 

西園寺さんなんて、ダメ人間・クズ人間で、自虐的かついじられキャラ的な部分もあるから、結構、大目に見てもらえているところはあると思います。

 

西園寺さんのことを好きだと言ってくれる女の子は、

会話中、99%は「disり」ですよ。ほとんど、私に対してdisりばっかりです。

 

うざい、キモい、ダサい、痛いなどなど。

見下されてます。

 

仕方ない。

事実、全ての人間に、見下されてもおかしくない人間ですからね、そもそも私なんて。

自分なんて、最低、底辺って気持ちはずっとあります。

どーしよーもない、と。

でも、それでいいんだ、って。

 

自由を心底感じた瞬間は、成功した時もそうだったけど、手放した時もそうだったから。

自由は、上の世界にあるけど、底の世界にもあるんです。

 

最低だけど、最高ってやつです。

 

見下されるって悪いことばかりじゃないとも思っているんですよ、実は。

本当に、本心で。

 

「はいはい、あのバカがまたなんかいい加減なこと言っている」って思われるのって素敵じゃないですか。

そう思ってもらえるから、見下されるから、自由になれるみたいなところって絶対あるはずなんです。

 

自由になれない人って、ある意味、見上げられているのかもしれない。そのプレッシャーが大きいのかもしれない。そう思うんです。

 

自分なんて、ゼロなんです。

無職なんです。

人様から見下されてなんぼなんです。

 

でも、だからこそ、自由なんだって感じるんです。

 

何かを蓄積したり、守ったり、しがみついたりすればするほど、自由から遠のくのは経験上、よくわかっているんです。

 

人からのdisられたり、見下されたり、笑われたり、誤解されたとしても、それでも動じない境地にまでたどり着いてはじめて、そこに自由があると思うんです。

 

最低だけど、最高な生き方をしたいです。

 

人生うまくいって、人からの評価される蜜の味を覚えたとしても、底辺の矜持みたいなものは絶対に忘れたくないってのはあるんですよね。

 

はじめて、いろんなものを手放して、捨てて、落ちたのは15歳のときだったけど、あのときは、「あーあ」って気持ちもあったけど、それ以上に「清々しい爽快感」だったんですね。そして、そこから新しいものが手に入っていった。人生が変わっていった。

はたちそこそこらへんの年代で、ニート経験した時も、すごい「うわーとうとうここまできたか」って感覚はあったけど、でもそこから始まったものが後々大きな違いを生んだしね。

 

だからねぇ、

こう、

あらゆるものを手放して落ちる感覚が嫌いじゃない。

 

あの開き直る感覚が嫌いじゃない。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。