政治
- 赤尾敏 – 右翼活動家、翼賛選挙では非推薦で当選。1951年解除後、大日本愛国党総裁に就任。
- 赤城宗徳 – 護国同志会の会員であったため、1946年1月から1951年8月まで公職追放。追放解除後、農林大臣、官房長官、防衛庁長官などを歴任。
- 池田成彬 – 三井合名理事、日本銀行総裁、第1次近衛内閣大蔵大臣、1945年A級戦犯容疑者に指定。翌年指定解除になるが、公職追放される。1950年追放解除を果たせぬまま死去。
- 石井光次郎 – 衆議院議員。戦時中、朝日新聞の取締役を務めていたため、衆議院議員転身後の1947年、商工大臣在任中に追放。1951年に解除されると、朝日放送社長を経て政界に復帰。後に法務大臣、衆議院議長。
- 石橋湛山 – 政治家、ジャーナリスト。戦前からの東洋経済新報社主宰を理由として、大蔵大臣在任中の1947年に公職追放。戦時中も一貫して軍部を批判し続けた石橋の追放には一部で批判もあった(石橋が反GHQであった[注釈 3]、名声を高めている事に対する吉田茂の追い落とし工作であるなどと憶測も飛んだ)。1951年追放解除。1956年に内閣総理大臣に就任。
- 石原莞爾 – 陸軍軍人、満洲事変を指揮した人物。極東国際軍事裁判山形県酒田市出張法廷で重要参考人として出廷したが、石原の主張は極東国際軍事裁判を認めず、そしてトルーマンとマッカーサーを批判した為と軍国主義者との理由で1948年(昭和23年)1月に追放され、翌1949年(昭和24年)8月15日に追放解除しないまま死去。
- 市川房枝 – 婦人運動家、参議院議員。大日本言論報国会の理事であったため。1947年に追放。1950年、追放解除。
- 植村甲午郎 – 農商務官僚、のち企画院次長。国家総動員法制定を指揮。日本経済連合委員会(現・日本経団連)会長在任中の1947年追放、1951年解除・復帰。
- 大達茂雄 – 小磯内閣で内務大臣。1946年追放、1952年解除。復帰後は第5次吉田内閣で文部大臣。
- 緒方竹虎 – 朝日新聞主筆。小磯内閣情報局総裁。1945年A級戦犯指定(のち不起訴)、翌年公職追放。1951年解除。第5次吉田内閣副総理。
- 小倉正恒 – 住友の6代目総理事、第2次近衛内閣で国務大臣、第3次近衛内閣で大蔵大臣。1951年に追放解除。
- 唐沢俊樹 – 内務省警保局長、阿部内閣で法制局長官、貴族院勅選議員。東條内閣で内務次官。天皇機関説事件や大本弾圧に関与。1951年に追放解除、第1次岸内閣で法相。横浜事件を陰で指揮したもと言われる。
- 河野一郎 – 朝日新聞記者を経て政治家となる。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選している。1945年の日本自由党の結成に参加。第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。のち衆議院議員に復帰、農林大臣。
- 渋沢敬三 – 日本銀行総裁、幣原内閣で大蔵大臣。渋沢栄一の孫。1946年に追放、1951年、追放解除。
- 膳桂之助 – 経済安定本部総務長官、物価庁長官。1947年第1回参議院議員通常選挙で当選するが、その直後に公職追放され、当選を辞退。1951年8月追放解除、同年11月25日死去。
- 灘尾弘吉 – 終戦時の内務次官。1947年に公職追放。1951年、追放解除。のち文部大臣、衆議院議長。
- 羽田武嗣郎 – 朝日新聞記者を経て政治家。戦時中は大政翼賛会に参加。1952年、追放解除。羽田孜元首相の父。
- 鳩山一郎 – 政治家。統帥権干犯問題を発生させて軍部の暴走を招いたことによる。1946年に追放、1951年に追放解除。1954年、内閣総理大臣。
- 東久邇稔彦 – 陸軍大将、内閣総理大臣。1947年皇籍離脱、その直後に梨本守正ら軍歴のある元皇族とともに公職追放、1952年追放解除。
- 平野力三 – 政治家。追放決定当時は日本社会党衆議院議員。戦時中に所属していた団体が追放対象に加えられたことで該当者となる。平野は追放を差し止める仮処分を民事訴訟として起こし、東京地方裁判所はこれを認めたが、GHQは「GHQの指令による処分は日本の裁判の管轄外」と申し入れ、1948年2月に仮処分が取り消されて追放が確定した(平野事件)。1950年追放解除。
- 町田忠治 – 立憲民政党総裁。農林大臣。戦時中は翼賛政治会顧問。1945年日本進歩党総裁に就任するが、1946年1月公職追放。同年11月12日死去。
- 松野鶴平 – 立憲政友会幹事長。米内内閣鉄道大臣。1946年公職追放。選挙区には三男頼三 が身代わり立候補。追放中は吉田茂の政治顧問。1951年追放解除。翌年の参議院補欠選挙で政界復帰。のち参議院議長。
- 松本治一郎 – 政治家、部落解放運動活動家。1946年に公職追放されるが一旦解除、しかし1949年に再び追放。1946年の追放理由は翼賛選挙で推薦議員だったためで、1949年の追放理由は参議院副議長としての「反皇室的」言動が吉田茂に睨まれたためといわれる。1951年追放解除。参議院議員に復帰。
- 三木武吉 – 報知新聞社社長。1942年の翼賛選挙では非推薦で立候補して当選。1945年の日本自由党の結成に参加。翌年の総選挙後、衆議院議長に内定するが、第1次吉田内閣の成立直後に追放。1951年に追放解除。衆議院議員に復帰、自由民主党総裁代行委員。
- 山崎巌 – 東久邇内閣で内務大臣。特別高等警察の廃止や治安維持法などの治安立法の廃止を拒否したため罷免命令を受けると共に追放。1951年解除。のち自治大臣兼国家公安委員長。
ビジネス
- 足立正 – 王子製紙社長。追放解除後、ラジオ東京(現TBS)社長、日本商工会議所会頭、日本生産性本部会長。
- 石田礼助 – 三井物産代表取締役、追放解除後、日本国有鉄道総裁。
- 二代伊藤忠兵衛 – 伊藤忠商事並びに丸紅の基礎を築いた実業家。1947年9月に公職追放、1950年10月に追放解除。
- 大河内正敏 – 貴族院議員 理化学研究所の3代目所長。1945年A級戦犯として収監。1946年- 1951年8月6日まで公職追放。
- 小平浪平 – 日立製作所社長。1951年6月、追放解除。
- 五島慶太 – 東京急行電鉄社長。東條内閣で運輸通信大臣。1947年に追放。1951年、追放解除。
- 小林一三 – 阪急電鉄創業者。第2次近衛内閣で商工大臣、幣原内閣で国務大臣。1947年に追放。1951年追放解除。のちに東宝社長。
- 下出義雄 – 名古屋の企業家で、大同製鋼社長や、衆議院議員を務めた。追放解除後、名古屋証券取引所理事長。
- 下中弥三郎 – 平凡社社長、大政翼賛会発足に協力、大日本興亜連盟役員。1951年追放解除で平凡社社長に復帰。
- 田中正明 – 大日本興亜同盟職員、松井石根の中国訪問時に随員。復員後は南信時事新聞編集長。1949年に追放。
- 堤康次郎 – 西武グループの創設者で総帥・衆議院議員。1946年に公職追放される。1951年に追放解除され、翌年の衆議院議員総選挙で衆議院議員に復帰する。後に衆議院議長。
- 服部玄三 – 服部時計店社長。1946年に公職追放される。
- 松下幸之助 – 松下電器産業社長。1946年に公職追放、松下電器労組と連合国軍最高司令官総司令部の交渉の末、翌年の1947年に追放解除。
教育
- 石原忍 – 1943年1月から1946年1月まで、前橋医学専門学校校長であったが、以前に軍歴があり、教職追放になり、自宅開業になった。
- 板沢武雄 – 日本近世史、日蘭貿易史を専門とする歴史学者。元東京帝国大学教授、法政大学教授。1948年1月から公職追放。1952年法政大学教授となる。
- 小野清一郎 – 東京大学法学部教授(刑法)。1946年から1951年まで追放。
- 紀平正美 – 学習院教授。国民精神文化研究所役員だったため公職追放され、追放解除されないまま1949年死去。
- 木村秀政 – 東京大学教授(航空力学)。戦時中、軍用機の開発に関わったことが問題視された。日本大学教授(後に名誉教授)。
- 杉靖三郎 – 1928年東京帝国大学医学部卒。橋田邦彦の下で電気生理学を専攻。日本的科学に賛同し1941年国民精神文化研究所文化部主任。1947年3月 – 26年8月 公職追放。1946年 – 1951年 医学書院 編集長 1952年 – 1969年東京教育大学教授。戦後、公職追放になったが、セリエのストレス学説を紹介し、セックス評論、大衆医学知識の領域で活躍した。
- 西田直二郎 – 歴史学者としては「文化史学」「文化史観」の提唱で知られる。政治・思想においては保守的であり、滝川事件後の新聞部長に就任、新聞部内で高まりを見せていた自由主義擁護の風潮を押さえる側に回った。戦時中は国民精神文化研究所所員として戦意高揚に努めたが、これらの経歴が戦後の公職追放処分の理由になった。
- 西谷啓治 – 日本の哲学者・宗教哲学研究者。京都学派に属する。公職追放後、京都大学文学部名誉教授、文化功労者。
- 平泉澄 – 歴史学者、東京帝国大学教授。皇国史観の権威。教えを汲んだ者達は平泉学派と呼ばれる。1948年公職追放、1952年追放解除。
- 松前重義 – 東海大学創設者。戦時中は大政翼賛会総務部長、のち逓信省工務局長。1946年に公職追放、1950年に追放解除。
- 宮川米次 – 日本の医学者、病理学者、細菌学者。愛知県豊橋市出身。医学博士。東京大学名誉教授。東京帝国大学伝染病研究所所長を務め、伝染病・感染症の拡大防止、撲滅などに寄与した。公職追放され、後解除。
- 八木秀次 – 八木・宇田アンテナの開発者。電気工学者。戦時中は内閣技術院総裁。1946年大阪帝大総長に就任するが、その直後に公職追放。追放中は日本アマチュア無線連盟会長。1951年追放解除。同年日本学士院会員になる。文献によっては教職追放とあり、追放期間にも、国有鉄道審議会委員、日本学術会議会員、科学技術行政協議会委員、電気通信省運営審議会委員、日本工業標準調査会委員、参議院全国区に出馬(落選)、外資委員会委員を務めている[2]。
- 山田孝雄 – 国語学者、神宮皇學館大學学長。公職追放は1946年、追放解除は1951年。
メディア
- 伊豆富人 – 九州日日新聞社社長。衆議院議員。
- 加藤謙一 – 講談社「少年倶楽部」編集長。後に学童社を創立し「漫画少年」を発刊。手塚治虫らを育てた。
- 菊池寛 – 作家、大映社長。内閣情報部参与として文芸銃後運動を提唱。追放中の1948年に死去。
- 正力松太郎 – 読売新聞社長。1945年、A級戦犯容疑で逮捕。巣鴨拘置所に収容される。1947年に不起訴で釈放され、その後追放される。1951年、追放解除。
- 徳富蘇峰 – ジャーナリスト、思想家。1945年にA級戦犯指定を受ける(不起訴)。のちに追放を受け、1952年解除。
- 前田久吉 – 大阪新聞社長、及び産経新聞創刊者。「大阪」での戦意高揚のため。1946年から1950年10月まで追放。
- 松本重治 – 日本のジャーナリスト。財団法人「国際文化会館」(東京都港区六本木)の専務理事。理事長。アメリカ学会の会長。1947年から公職追放。
A級戦犯
- 1945年9月11日に逮捕命令(計40名[注 1])。逮捕されたのは主に東條内閣閣僚だが、本来はA級戦犯とは関係のない、フィリピン方面の軍関係者や人体実験関係者、捕虜収容所関係者などのBC級戦犯もリストに混ぜられて、逮捕された。
- 1945年10月22日に逮捕命令(1名)。
- 1945年9月11日に逮捕命令(15名)[注 13]。
- テイモン(日本占領中の駐日ビルマ国大使)、アウンサン(ビルマ大使館付陸軍武官、ビルマ独立軍組織者)
- ホセ・ラウレル(日本占領下で独立したフィリピン大統領)、ベニグノ・アキノ・シニア(フィリピン国民会議議長)、ホルヘ・バルガス(駐日フィリピン大使)
- ワカタン・ウィチット(駐日タイ大使)
- マーヘンドラ・プラタップ(インド独立運動家、アリアン義勇軍指導者)
- ハインリヒ・スターマー(駐日ドイツ国大使)、アルフレート・クレッチマー(ドイツ大使館付武官・陸軍中将)、ヨーゼフ・マイジンガー(ドイツ大使館付警察武官、逮捕後ポーランドに移送)
- ジョシアス・パンディユンスト(ラジオ東京・オランダ語放送員)、リリー・アベック(ラジオ東京・ドイツ人放送員)、チャールズ・カスンズ(ラジオ東京・オーストラリア人放送員・オーストラリア軍少佐時に日本軍の捕虜となる)、ストリーター(東京ラジオ放送原稿係・アメリカ人)
- ジョン・ポーランド(上海ラジオ・オーストラリア人放送員)
- 1945年11月19日に逮捕命令(11名)。主要な大臣や軍上層部など。
- 1945年12月2日に逮捕命令(59名)。軍の高官だけでなく、政財界に広く逮捕者。
- 畑俊六、平沼騏一郎、広田弘毅、星野直樹、大川周明、佐藤賢了
- 鮎川義介、天羽英二、安藤紀三郎、青木一男、有馬頼寧、藤原銀次郎、古野伊之助、郷古潔、後藤文夫、秦彦三郎、本多熊太郎、井田磐楠、池田成彬、池崎忠孝(赤木桁平)、石田乙五郎、石原広一郎、上砂勝七、河辺正三、菊池武夫、木下栄市、小林順一郎、小林躋造、児玉誉士夫、松阪広政、水野錬太郎、牟田口廉也、長友次男、中島知久平、中村明人、梨本宮守正王、西尾寿造、納見敏郎(12月13日に自決)、岡部長景、大倉邦彦、大野広一、太田耕造、太田正孝、桜井兵五郎、笹川良一、下村宏、進藤一馬、塩野季彦、四王天延孝、正力松太郎、多田駿、高橋三吉、高地茂都、谷正之、徳富猪一郎(徳富蘇峰)、豊田副武、津田信吾、後宮淳、横山雄偉
- 1945年12月6日に逮捕命令(9名)。国際検察局(IPS)が追加逮捕。
- 1946年3月16日に逮捕命令(1名)
- 1946年4月7日に逮捕命令(1名)
- 1946年4月29日に逮捕命令(2名)
- 1946年11月5日に逮捕命令(1名)
板垣征四郎、木村兵太郎、武藤章は外地で逮捕。橋本欣五郎は国内で単独で逮捕。(都合4名)
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説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。