日本人の中国人嫌いは、ほとんど「B型嫌い」と等価だろ。 〜日本人は本気でマジでB型が大嫌い〜

「中国人は自己中心的で空気を読まない」
「声がでかくてマナーがない」
「主張が強く、協調性がない」

――これらの言説を並べたとき、ふと既視感を覚える人もいるのではないだろうか。そう、これは日本における「B型」に対する見方と、ほぼ一語一句変わらない。

 

 

ここで、典型的なB型の性格傾向とされるものを見てみよう:

  • マイペースで自分のルールで動く
  • 興味の対象に全振りし、興味のないものは徹底的に無関心
  • 空気を読むより、自分の欲望や目的を優先
  • 「和より自己」「空気より主張」
  • 社交的だが、深い信頼関係には至りにくいことも
  • 集団よりも個人の行動原理で動く傾向

 

日本人が中国人を嫌う理由とほぼ一緒である。

これを中国の都市部の一般的な人々に当てはめてみると、不思議なほど一致してしまう。

 

冷静に考えたら日本人の中国嫌いは異常である。

なぜかというと、ロシアの方が面倒で、不義理をやられてきている。

ロシアには、厄介なことをされた前科がある。

 

中国には、自ら攻めたことはあっても、攻められたことはない。

しかし日本は、

ロシア脅威論

より

中国脅威論

の方が反応する。

 

理屈を超えている。どう考えても脅威・危険なのはロシアである。

 

中国大嫌いなのである。

このアレルギーは本能レベルのもので、

「AO型社会」

における日本において、B型に対する生理的な嫌悪に近い。

 

実際、日本は血液型的に見れば「AO型社会」と言える。A型とO型が人口の7割以上を占める日本では、「和を重んじる」「空気を読む」「場に合わせる」「自己主張を控える」といった価値観が“常識”として浸透している。

そこに突如として、B型的なふるまい=空気を読まない、自己中心的、目的最優先の直進型の存在が現れると、「非常識」「協調性がない」と拒絶反応が起きる。

つまり、中国人に対する反感とは、B型的ふるまいを“国家レベル”で目撃した時のアレルギー反応に近い。

そしてこの嫌悪感は、論理ではなく“場の秩序”を壊されることへの本能的な恐れに根ざしている。

 

たとえば、電車の中で大声でしゃべる中国人観光客に眉をひそめる日本人がいる。

だが、それは本当に“迷惑”なのか?

むしろ、「静かにすべき」という**無言の合意(空気)**が破られたことへの怒りに近い。つまり、「マナー違反」ではなく「同調圧力違反」に腹を立てているのだ。

その証拠に、日本人は「西洋人」が同じことをしていてもそこまで目くじらを立てない。なぜか。「彼らは違う文化だから仕方ない」と無意識に処理できるからだ。だが、中国人に対しては「同じアジア人なのに、なぜ空気が読めないのか」と思ってしまう。

 

この“裏切られた身内感”が、余計に嫌悪を助長する。

 

さらに言えば、B型的な性格は、日本社会が抑圧してきた“個”の象徴でもある。
だからこそ、B型的なふるまいを目の前にすると、心の奥で押し殺してきた「本当はこうしたい」という欲求が揺さぶられる。

その“揺さぶり”を、不快と感じる。

 

A型はB型的な「奔放さ・自由さ」を押し殺している「内心怠惰族」が多いので、イライラするのである。

 

つまり中国人嫌いの正体は、B型的な自由さへの羨望と、抑圧された自我の軋みでもある。

 

もっとテキトーに生きようよ、現代社会、頑張りすぎだよ

とみんな思っているのに、一方で中国やインドみたいなレベルに下りたくない、日本社会の清潔さ、協調性、高度さに誇りを持っている。

そんなアンビバレンツさが日本人にはある。

 

山本七平は、戦後の日本社会を支配している不可視の力として「空気」という概念を提唱した。

「日本社会では、“空気”こそが最高権威である」

これは法や理屈よりも、“その場のムード”がすべてを支配するという構造であり、
同調圧力に極度に敏感な国民性を生み出してきた。

この文脈で考えると、B型や中国人のように、空気を読まず自己主張を貫く存在は、
単なる異物ではなく、「空気の支配を壊す破壊者」として潜在的に危険視されることになる。

だからこそ、「中国人=B型=空気破壊者」という連想が働き、感情的なレベルで忌避されやすくなる。

 

 

エドワード・ホールの文脈文化論で言えば:

日本:高文脈文化(High-context)
→ 「言わなくても察する」文化。ルールより“空気”を重んじる。

中国:中〜低文脈文化(Mid- to Low-context)
→ 明確な主張・態度を取ることが許容される。

ここに、ホフステードの文化次元論を重ねると:

指標 日本 中国
個人主義 vs 集団主義 集団主義的だが、閉鎖的同調圧力 集団主義だが、個人の主張が強い
不確実性回避 高(空気・手順・前例重視) 中程度(状況に応じて柔軟)
権力距離 中〜低(名目上平等だが実質は縦) 高(上下関係を受容)

 

日本は伝統的に「村社会型構造」を持つ。ここで重視されるのは:

  • 調和(コンフリクトを避ける)
  • 同質性(異分子を排除)
  • 名指しせずに空気で圧をかける
  • 礼儀、順番、謙遜、沈黙

つまり、「同じであること」こそが安心の源泉となっている。

 

たとえば、欧米人が傍若無人にふるまっても「文化が違うから仕方ない」と受け入れられるのに対して、中国人は“身内っぽいのにルールを破る存在”として、より強い苛立ちを誘発する。

これはB型に対する「お前も日本人のくせに空気読まないのか」という感情にも酷似している。

 

 

日本人が「嫌う」中国人の特徴は、裏を返せば非常に合理的で結果志向である。

  • 「並ばない」→ 機会を逃さない即応性
  • 「声が大きい」→ 自己主張の強さ=存在アピール
  • 「譲らない」→ 交渉上の原則:引いたら負け
  • 「自己中心的」→ 他者依存せず、自力で突破口を切り開く

こうした特徴は、儒教的な「秩序と上下関係」×商人文化的なリアリズムのミックスによって形成されたとも言える。特に都市部の中国人は、「空気」ではなく「目的」と「交渉」で動いており、結果を出すことが最大の評価基準になる。

この意味で、彼らは「高コンテキスト社会(日本)」ではなく、「ローコンテキスト社会(契約・論理・結果)」で機能する文化を生きている。

一見“マナーが悪い”ように見えても、それは「場の空気」ではなく「目標の達成」が社会的に正当化されているからであり、彼らにとっては何も“非常識”な行動ではない。

 

 

この構図は、驚くほど根深い。

  • 自己主張 vs 協調
  • 個人主義 vs 空気主義
  • B型的振る舞い vs AO型的感性

この“文明的衝突”は、外交や経済を超えた、心理的・文化的な構造的摩擦に他ならない。

だからこそ、日本人の中国人嫌いは、実のところ“合理的な警戒”ではなく、“文化的なアレルギー”として発動している。そしてそれは、日本社会が持つ深層の「同調圧力」と「抑圧された個人主義」という病理を、逆に照らし出しているとも言える。

 

日本では「言わずとも察する」が美徳とされ、あえて明文化しないのが信頼の証とされてきた。

だが、それは裏を返せば:

  • 不文律に縛られやすく
  • 新参者を排除しやすく
  • 適応コストが高く
  • 問題の責任構造があいまい

ということでもある。

一方、中国を含む契約社会では:

  • ルールを言語化・明文化し
  • 合意によって取引関係を構築し
  • 結果がすべてで、人間関係に依存しない
  • 「察して」ではなく「説明して」が原則

これは、ITや国際取引、グローバルビジネスにおいて決定的に強い。
なぜなら、誰が相手でも同じルールで動けるからだ。

だからこそ、日本的な「察する文化」は、国内の同質社会では機能しても、外部との接触においては脆さを見せる。

それに対し、「契約で動く文化」は、拡張性・普遍性に優れ、スケーラブルである。

つまり、中国的・B型的文化は、グローバル時代の“OS”としてのポテンシャルを持っている。

 

 

ただし厄介なのは、中国社会は、身内や関係先を重視するところもあるということだ。

簡単に言えば、身内に手厚く、他人にドライ。

 

「我々は友人を上質なワインでもてなす。だが、敵に対してはがある」

-駐スウェーデン中国大使

 

まさにこれがB型の論理でもある。

① 友人(内なる関係者)には、
じっくり関係を築き、信頼を重んじ、柔らかく人間的に対応する。
ワインでもてなし、温かく繊細な“おもてなし文化”を発揮する。
契約やルールより「関係の質」が勝る。

② 敵(外部・対立者)には、
強硬に、合理的に、冷徹に対応する。
必要なら銃(=圧力・力の行使)も辞さず、明確なルールや力関係で制圧する。
契約主義や現実主義の論理が支配する。

 

小室直樹さんが指摘したように、中国社会では「関係(グアンシー)」が非常に重要。

これは、人間関係のネットワークの中での信頼や義理が、商取引や政治、社会生活の根幹をなすということを意味する。

つまり、

  • 公式の契約よりも人間関係が優先される場面が多い
  • 信頼関係が構築されれば、契約書よりも口約束や慣習の方が強力に機能する
  • 親密な「関係」を通じてリスクを減らし、柔軟な対応を可能にする

この「関係主義」は、欧米的な「契約重視」の文化とは異なる特徴。

 

現実の中国社会の日常や地方・中小企業レベルでは、「関係(グアンシー)による調整や信頼ネットワーク」こそが取引の実態を支えているのは確か。

 

 

中国社会の二面性とB型の共通点まとめ

親しい相手にはとことん丁寧で温かく
→ まるで上質なワインを振る舞うように、手厚いおもてなしや関係構築をする。
→ B型の「好きな人には深くのめり込む」性格と一致。

そうでない相手には冷徹で割り切る
→ 銃を持ってでも敵対する覚悟で臨む、ドライな合理主義。
→ B型の「興味がないものには一切関わらない・無関心」な面とリンク。

このような態度は日本のA/O型的な「皆に一定の距離で礼儀正しく」や「空気を壊さないように和を保つ」というスタイルとは真逆で、“濃淡はっきり、好き嫌いを隠さない”という点で、まさにB型らしいと言える。

 

 

 

名探偵西園寺 血液型の市場戦略 Blood on Marketer

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。