制約と嫌悪感。
両方とも自然な感情であるが、処理に困る、TPOをわきまえないといけないのは同じ。
性欲に罪悪感はいらない。
人が嫌いだという感情に罪悪感もいらない。
親が嫌いでも構わない。
嫌いという感情は人生の道しるべになる。
私は人参が好きでは無いが、人参に嫌なことはされてない。嫌いな感情はそこにある。人間関係も同じ。あとは、食べ方を工夫するしか無い。
嫌いなものは嫌いなんだから。
人を嫌ってはいけない、という思い込みで生きる必要は無い。
軽く嫌い合っておけば良い。
嫌いの原因は何があるだろう?
嫉妬。軽蔑。あるいはその類のことを相手にされている。相手が危害や損失を与えてくる。相手が期待に応えない。絶対的な無関心。生理的拒絶。
こういうものが挙げられる。
人参の場合、生理的拒絶だ。
もし、何かが、誰かが、嫌いだと思った時。
嫉妬して無いか?
自分に問いかけると、案外本心が見えるかも。
それから、軽蔑してる、嫉妬してる。あるいは、軽蔑されてる、嫉妬されてるとき。それがなんで嫌なのかという感情を掘り下げてみよう。
もしかしたら、勝手に自分の位置を高くしてない?
もしかしたら、勝手に他人の位置を低くしてない?
勝手に見下してない?
本当に下なの?
それから、全ての人間は平等だという思想が横行しているから、上の人間は嫌われやすい。金がある、美人だ、有名人だ、御曹司だ、有名大学を出ている…..こういうのは、あきらかに格差を生む。でも、みんな人を平等だと信じてる。
そこで嫌悪が生まれる。
文化的上位にいる人は、優越感を出さないようにしながら、そしてそれを見透かされないようにする。そして、上位が下位を嫌うと、圧迫になりやすい。下位にいるものは劣等感があるから。
逆に言えば、自分が下位にいることで、嫌っていないか。
だったら、自分も上位に登れないか。
あるいは、別の方法で上に上がれないか?
嫌いという感情を克服するためには、どうしたらいいだろうか?
生きやすくするためには?
まず、上下の概念を刷新したら良いと思う。
そして、危害や損失、利益について自分で考え直してみよう。再考してみよう。何が得なのか。何が損なのか。そして、危害を与えてくる人がいたら、それは本当に危害なのか?だとしたらなぜなのか?誤解して無いか?
本当に敵なのか?
嫌いという感情が渦巻く中で生きていると、何か、ものの見方を間違えてるのかもしれない。
そんな気がしている。
というのも、うまくいっていない時が、そういう感情がぐちゃぐちゃに絡み合っている時だったから。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。