- 天才は絶望と希望を知る者
- 絶望と希望は、2パターンある
- つまりコインの表と裏がある
- 普通ならば、片方の1パターンのみによって絶望と希望を解釈する
- しかし、天才はもう片方のパターンで動いている
- 天才が見出す絶望と希望
- それは、内的な領域に存在する
- 普通は外的な状態に絶望し、希望を見出す
- ゆえに天才は、不可解な状態下で謎の自殺を遂げたりする
- ゆえに天才に対する評価は、天才の死後にやってきたりする
- 天才が天才たる所以は、現実世界において、他者が評価を与える何かを成したことやその力に他者が敬服するからであるが
- 天才はそれを「後追いでついてきたもの」としか捉えていない
- 「お金や待遇は後からついてくる」「成功者になろうとするな、価値ある人間になれ」「努力は報われる」等の天才が発した金言の秘密はそこにあるのだろう
- 天才が見ている世界、天才の中にあるもの
- それは自らの意志
- そしてそれに根付く思考体系、パラダイム
- 内的な世界に生きるということは
- 明確な「問い」の意識がある
- なぜならば外的な世界で起こることの全ては「事象(=event)」でしかない
- 問いは現象を概念の世界へブリッジする
- 天才には言語化能力のある者と無い者がいて
- 天才の内的な世界について、自らが外部の人間に対し、ブリッジして説明できる人間とそうでは無い人間がいる
- また説明したがる人間とそうでは無い人間がいる
- 天才の思考体系やパラダイムは重層構造で複雑なレイヤーが縦横無尽に絡み合う複雑なパズルのようであったりするから
- たとえ説明されたとしても理解できるまで時間がかかることも多い
- 天才の中にある世界は、まるで濃厚かつ重厚なミステリー
- バスケの素人と天才の違い、というかシュートの素人と天才の違い(何かの本で得たうろ覚えの情報より)
- バスケの素人は、内的な意識の世界で、ボールと手の接点の感触、腕全体、リングに対して意識が向いているらしいが
- バスケの天才は自分の人体全体を射出台のように捉えるイメージで、地面と足の接地点から、ふくらはぎ、膝、太もも、胴体、両腕〜手に至るまでのエネルギー伝達意識が存在し、素人と比較した時に下半身に対する意識が圧倒的に違うようである
- ターゲットであるリングと自身の位置の間にある距離、放出するボールの放物線イメージをイメージして、地面、人体、ゴールまでを貫く放物線のイメージを設定した上で、逆算しで体「全体」を正確に動かせるらしい
- 他方、素人は両手、ボール、ゴールの意識しかなくエネルギーが散漫らしい
- 意識や思考が違うから、身体の動かし方も違って、結果的に事象としてのシュートも変わってくると
- ・・・・なんかの本で読んだのだけれど
- 基本的にどの分野の天才も着眼点が違う
- シンプルに言えば、天才の秘密は外からは絶対にわからない
- 天才と変人の違い
- 変人は単に奇をてらっているだけである
- よって、変人への評価は一貫して変人のままである
- いつまで経っても点と点とが繋がらない
- 変人と天才は紙一重だと言える
- 本来天才であるのに、変人としての一生を終える人もいれば、本来凡人なのに、天才として一生を終える人もいる
- なぜなら、「天才性」は本人に根付くものであったとしても、「天才」は評価であり、評価に結びつく力であり、社会的タイトルであるから
- それはイコールで誰か、何かの役に立ったということである
- しかし人間は利己的な生き物で、純粋に利他性だけで動くことはできない
- 天才は天才という称号を得る道の中で、エクスタシー、知的興奮、発見、達成感、快感、冒険、・・・など、内的な領域で自分を満たしてくれる何かを貢献行為と並行的に走らせているからこそ努力や行動を持続できるのである
- 本質的に、天才とは金、賞賛、名誉、称号といった外部から与えられるもので動かない者を指す。なぜならそれは結果に対して与えられるものだから
- 天才には、プロセスを渡り切る「自分なりの動機」が存在し、それこそがまさに、他者とは違う視点で世界を見ている証拠である
- 名誉、賞賛、金銭的報酬だけに溺れ、それだけに駆動されている人間の中に天才は存在しない
- 天才に使命意識があるのはなぜか?
- それは利他性と利己性が同時並行できる概念だから
- 社会的ニーズに対する救済者意識を勝手気ままに自らに与え、そのために苦難の道のりを越えていくという実写版映画を自分で楽しんでいる
- サッカーの天才は、ゲームについて真剣に熱弁し、泣きながら敗戦の弁を漏らす
- しかし、全てのスポーツは生産性の無い球遊びであり、無駄に酸素を消耗し、交通渋滞を起こし、混雑やセクハラ、川への飛び込み、酔っ払いの深夜徘徊、喧嘩などの遠因となっている
- よくよく考えれば、いい歳した大人が球遊びを「職業」とし、自らの遊びについて熱弁しているのである
- 「人生楽しんだもん勝ち」というものに、「社会的ニーズ」を掛け合わせてしまうのが使命感、天才の道
- 好きなことを突き詰めると金になるというのは実のところ、嘘では無い。
- なぜなら、人間の生活をとことん簡素化すると食う寝るヤるだけになるが、現代社会に溢れているものは人間が何かしらの生産を行った結果のものであって、人が好きになる何かというのは生産者の存在やマネーの動きが確かにある
- 資本主義である以上、資本主義の論理にそぐわないものはこの世に存在できない
- よって、好きになるものは何かしら、経済性があるのである
- 食う・寝る・ヤるですら、突き詰めると職業に結びつく可能性がある
- 好きなことがお金に結びつかないのは、「好きなことがお金にならない」の完全なる証明には直結しない
- 秀才も天才も険しい山を「登頂した者」に対して与えられるものだとしたら、
- 秀才は登頂ルートが公に示され誰もが参加できる登山ではあるが、大方の人が参加したがらなかったり、途中で疲弊したり、ドロップアウトしたり、時間がかかりすぎてタイムアップしたりするものをクリアした者に与えられるもの
- 天才は登頂ルートがハッキリとわからず、途中で死者や脱落者、行方不明者が続々と出るような道無き道を乗り越えっていったという意味で「未知性」が常につきまとう
- 本物の天才になることはできなかったとしても、偽物の天才になることは誰だってできる
- 島田紳助は、「スター芸能人(としての成功者)はだいたい偽物」と評した
- 天才には影がある
- それは内的な絶望・希望と、外的な絶望・希望が違うから
- 希望は光、絶望は闇
- 影は、光と闇のコントラスト
- 天才の栄華の背後には凄まじい影がある
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。