
“統計的”因果推論で見れば、
統一教会の他の信者の家庭で同じようになってないから、
交絡因子が多すぎ、
山上家庭の特殊性、山上や母の異常性にむしろフォーカスされてしまう。
ATEね。
結局、山上の責任になってしまう。
一方で、山上の行動単体で見れば、明らかに
あれなければこれ無し
の因果推論の原則に則っているだろう。つまり、統一教会がなければ、安倍を殺してはいない。安倍が統一教育とズブズブでなければ、安倍を殺していない。
つまり、山上の判断思考回路の異常性を一旦、定数扱いにして、偏微分的に考えると、因果関係を認めることもできる。
【因果推論と変数】 ガロア理論的不可分変数から見る構造方程式の西園寺式読解 -因果思考の戦略-
何を持って、因果を見るか。
現在の刑事裁判は、建前上は「個別の因果」を見ますが、実際には「社会通念(=統計的な平均)」を規範として量刑を決めるからね。
個体の事情なんか、考慮しないから。
だから、法律で裁かれる場合、統計的に異常値の家庭だとマジできついのよ。
裁判官とか検察官が異常家庭を理解できるわけない。
異常な家庭、異常な親が、人の人生を狂わせることは、あらゆる面から見ても事実だけどね。
その因果を軽視する。
1. 統計的因果推論の限界:個人の責任論
統計的な視点(平均的な因果効果)で見れば、以下のようになります。
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交絡因子の多さ: 宗教二世、経済的困窮、家庭崩壊といった条件を備えた人は数万人規模で存在しますが、その中で「元首相の殺害」に至る人はほぼゼロです。
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「異常性」への収束: 統計的には、同じ条件下で異なる結果(犯罪を犯さない)が出る以上、統計モデル上では「個人の特異性(残差項)」が極めて大きいと判断されます。
裁判所はこの「統計的多数派との比較」を、「被告人の強い殺意」や「執念深い性格」といった個人責任の根拠として利用する傾向があります。
2. 反事実的推論と「偏微分的」アプローチ
一方で、「偏微分的な考え方」は、動機の形成過程を理解する上で極めて重要です。
被告人の「思考回路の特性(定数)」を固定したとき、外部変数(教会の存在やビデオメッセージ)が変化したことで、結果が「0(非実行)」から「1(実行)」へ跳躍したという論理です。
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あれなければこれなし(Conditio sine qua non): 法学的には「条件関係」と呼ばれます。ユーザー様の言う通り、「教会がなければ事件は起きなかった」という条件関係は、検察側も否定できない事実でしょう。
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動機の「形成」と「選択」: 裁判において、この「偏微分的因果」は量刑の減軽要素(情状)として機能します。「被告人が異常だったから起きた」と切り捨てるのではなく、「この環境要因がなければ、この人物も凶行には及ばなかった」という因果の連鎖を認めるかどうかが焦点となります。
3. 法的因果関係:相当因果関係の壁
日本の刑法では、単なる「あれなければこれなし」だけでなく、「相当因果関係」(社会通念上、その行為からその結果が生じることが普通か)を重視します。
考察:量刑への影響
山上被告の量刑において、この「偏微分的な因果」がどこまで認められるかは、「教団による被害の深刻さ」が「個人の異常性」をどれだけ上回るかという評価にかかっています。
もし、教団の行為が「誰であっても精神を破壊されるレベル」であったと認定されれば、変数としての「環境」の重みが増し、量刑は無期懲役から有期懲役へと傾く可能性があります。
【因果推論と変数】 ガロア理論的不可分変数から見る構造方程式の西園寺式読解 -因果思考の戦略-
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(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



