陰謀まがいのことを言うと「はい、まーた陰謀論」みたいな感じでスゴイ言われるんだけれど、私がこの国に対して不信感を持つようになったのは学生時代にさかのぼる。
だからと言って革命運動もしてないし、犯罪も犯してないけれど、日本的な思想教育からはだいぶフリーになれたと思っている。
私は一応、大学時代に、真面目に法学やら会計学を勉強していた。
公務員試験にも、経済学や法学などは出るから、法学についても一通り基本的な触りを知ってる人は多いと思う。しかし、私はその分野で定番と言われる、司法試験受験生や法学部学生が読むような基本書(結構お高い)を、自己投資と割り切ってガンガン買いあさり勉強していた時代があった。MBA関連の書籍もそのノリで激しく学んでいた時代がある。
三権分立、というものは誰もが聞いたことがあると思う。
すなわち、主権者である国民が国会議員を選び、国会議員が行政の長である内閣総理大臣を決め、総理大臣が最高裁判所長官を任命する。
司法、立法、行政は、お互いに牽制し合うことで、権力の肥大化と暴走を防ぐ。
特に、司法というのは「憲法の番人」である。
憲法と法律の違いというのは、法律は権力者である議員や行政の連中が作るものである(そして我々一般ピーポーを縛る)のに対して、憲法はそれら権力者に手枷・足枷をハメて国民を守るものである。よって、最高裁は、行政や立法の権力者たちに対して、憲法を守っているかどうかを厳しくチェックすることができる。
法律は国会議員たち、官僚たちが好き勝手いじれるけれど、憲法は「国民投票」を介さない限り変えられない。
法律は国会議員たちが(あるいは背後にいる官僚が)国会であれこれやって通すが、憲法改正にあたっては、衆参両院で2/3以上の賛成によって「発議」し、これを国民投票にかけて「投票総数」のうちの「過半数の賛成」によって改正されるという「二段階プロセス」である。簡単に言えば、憲法改正の発議がなされて、国民投票に移行し、国民の30%しか投票に行かない場合においては、全国民のうちの16%の意志によって憲法が変わることがありうる。
そして、憲法は権力者たちを締め付ける性質を持つ。
簡単に言うと、
- 法律 (権力者) → (国民)
- 憲法 (国民) → (権力者)
ざっと、こんな感じ。うろ覚えだけど。
つまり、憲法は庶民の味方だ。
戦争はしない、意に反しない苦役には服せられない、個人の尊厳が尊重される、健康で文化的で最高限度の生活を営む権利がある・・・・・ほにゃららら。
聞いたことがあると思う。
私が学生時代に、違和感を覚えたのは、憲法9条である。
憲法9条は、どのように解釈しても、戦力の不保持を明記しており、自衛隊の存在は、素直に文面を読めば容認されない。しかし、現実問題、自衛隊は存在する。なぜ自衛隊が存在するのか、それは日本の歴史を遡っていくと、結局、アメリカになんやかんや言われて、「ちょ、ごめんお前ら、戦争でボコボコにしてやったけど、俺らに2度と刃向かわないように軍隊持たせないつもりだったけれど、朝鮮のあたりで今俺ら忙しいから、とりま警察予備隊ってやつ作っといてー」みたいなところから始まっているわけだ。
そこからニョキニョキと発展して、現在の自衛隊に至る。
そして、最近の話であるが、いつのまにか「集団的自衛権」までオーケーされている。これもアメリカの要請。
お友達であるアメリカと一緒に行動している時、アメリカが攻撃を食らって、なおかつ日本国家の存亡について危機がなんちゃら・・・・という厳密な要件を満たしている場合には日本も攻撃するみたいなお話である。
ジャイアンことアメリカが攻撃されたら、スネ夫の日本も反撃するよ!って話だ。
もちろん、現実問題として、アメリカに守ってもらっている以上、そのパートナーシップは重要であるというのは大多数の意見だと思う。しかし、第二次世界大戦が、「同盟」の連鎖によって世界的に戦火が飛び火したことであったり、日本とアメリカの力関係を考えると、危機意識を持っている人もいる。
「法学の机上の論理上」は、自衛隊は違憲(憲法違反)と取るのが妥当である。
(だからあべっちは憲法9条を変えたがっている)
自衛隊は憲法違反(違憲)かどうか、というのは当然、過去に争われたらしく、結局のところ、自衛隊を用意したのは行政のトップ、要するに時の政権であるから、国民は最高裁判所に掛け合って、
ちょっと、実質的な軍隊作ってるじゃん!俺たち、また戦争に放り込まれるんじゃないの?自衛隊って違憲じゃないの?
と訴える権利は国民にはある。
最後の番人である最高裁に問いかけることができるはず・・・・というのが、三権分立の趣旨だ。
では、最高裁はどうやってこの問題を処理するのかというと、普通は判断して然るべきだが、実は、「判断を投げる」のである。
つまり、匙を投げる。
軍隊というのは、国家の維持のために欠かせないものであって、このように高度な政治的な問題は、司法のメンバーが決めるべきではなくて、国民の意思を反映させるべき、すなわち政治に任せる・・・・・という理屈になっているらしい。
・・・・・・というのを学生時代に学んだ。
私は、これはオカシイと思った。
軍隊の現実的な必要性はバッチリ認める。
しかし、本来、「民衆が選挙で選んだ国会議員」の中から生まれてくる「時の政権」であったり、あるいは国会議員や行政の人間たちを縛るために憲法は存在している。
簡単にいうと、選挙で選んだはずの奴らが、暴走する際の駆け込み寺が憲法であり、最高裁なわけである。
民主主義が機能しない場合にこそ、立憲民主主義は意味があるという考えだ。
言ってみれば、日本国憲法は、日本人にとっての最高の価値を(約70年〜80年前に)明記したものであると考えられる。そして、それ以前には大きな戦争があって、そしてそのさらに前には、いろんな政治の蠢きがあって、国際情勢の動きがあって、大戦に突入し、多くの人間が死んだのである。
その最高裁が、「高度な政治的な問題は判断できかねる・・・うんぬんカンヌン・・・」ゆーて、問題を投げてしまう。
簡単にいうと、駆け込み寺は、最後は「ちょっと私共にはわかりかねます」と言って、ポイしちゃうわけだ。
民意が反映されない民主主義は、民主主義ではない。
私は、これを学んで、あぁ、最終的には政治の権力者がゴリ押ししたら大抵の物事は進んじゃうのねということを学んだ。
自衛隊はいらない、と思ったわけでは一切ない。
個人的にどう思うとか、感情的に嫌だ、むかつくとか思ったわけではない。
ただ、冷静な理解として、「所詮、世の中そういうものか」と素直に悟った。
いかに制度的に、システム的に担保されているように見えても、結局人間が統治している以上は、一部の力ある人間によって物事は動きうるということだ。私がその時に習得した世界観というのは、世の中を見る上でかなり役立っている。というのは、実際、世の中では国策逮捕的な動き、大きな力の動き、権力側の人間の裁量によって生じる動きなどがあちこちにある。それを投影したかのようなニュースもあちこちにある。
法学に張り巡らされているのは完全な詭弁のように感じた。
後に、経済学に対しても同じような疑問を持つようになる。
法学、政治学はかなり「胡散臭い」世界といえばそうなのである。
サラリーマンなら、労働基準法なんてあちこちで無視されているのを知っているだろう。
だいたい、歴史的に、「超法規的措置」だとか、「国家緊急権」だとか、そういうものが発動されると大抵の物事は例外的措置で進んでしまう。そもそも、恩赦みたいな制度がある時点で、「法治国家」だとか「民主主義」みたいなのはフィクションみたいなものである。
私は、その時、ゾッとしたことを覚えている。
つまり、何かがあれば、結構、世の中はゴリ押しで進むのだ。
芸能人などを見ていても、
こいつブスだなー、どの層に支持あるのかなー、本気で人気あるのかなー?
と不思議になることは無いだろうか?実際、その後ろには大きな力の蠢きがあってもおかしくは無いのである。
政治の場合の問題は、無理矢理をやるとき、その時にどうやって民意からの支持を得るのか、である。
簡単に言うと、どうやって国民を洗脳し、騙して、大衆からの支持を受けるのか、である。
国民を騙す方法は大きく分けて4つある。
- 学校教育と大学教育(学問) → (そもそも全て文科省管轄、アメリカでは学者が産業界や政治にだいぶ買収されている)
- 買収した権威に喋らせる、認定させる (御用学者、モンドセレ●ション金賞、日本レコード●賞みたいな出来レース)
- 国を一部の権力者や権力層の私有地であることを隠しつつ、公共のもの、パブリックなもの、みんなのものと誤認させる
- 国家の危機を国民の危機に繋げて、混乱に乗じる
アメリカなんかは非常にわかりやすい。
民意を味方につけるための研究はかなりされているし、正直あの国はなんでもやるだろう。そもそも、日本もアメリカも、現状認識をするための情報が公開されておらず、情報は中央政府やその周辺に集まる。だから、末端の人間には判断のしようが無いのである。
これについては素晴らしい事例があって、すでにアメリカ合衆国が先例を見せてくれている。つまり、どこかから襲われたように自作自演をして(現在アメリカ人の過半数が9.11を自作自演だと信じているらしい)、民意を味方につけて、非常事態だと言うことで愛国者法のような法案を通したりして、あとは好き勝手物事を動かす。
情報の保護だったり、隠蔽だったり、国家の動かし方だったりを混乱に乗じて、好き勝手作り変える。
世界的な大戦から時間が経っている、国内で内戦や戦争の悲劇が起こった時から時間が経っている、無知な若い世代が増えてきた、という場合には、好き勝手作り変えるチャンスである。
アメリカの歴史というのは面白いもので、戦争が起こる前にはだいたい、都合が良いように攻撃をされているのである。日本から真珠湾攻撃を受けた際にも、現在の歴史認識では、わざとそうなるように仕向けた可能性が高いとされている。
庶民ができることといえば、過去の歴史、過去の英知を学ぶほかない。
私は小さい頃、幼いながらに、戦争なんてさっさと負けちゃってアメリカにでも統合されちゃえばいいじゃん、ハワイみたいになってしまえばいいじゃん、ということを不思議に思っていた。こういうことを一定の年齢を過ぎて言えば非国民、売国奴という扱いだが、子供の時、純粋にそう思ったのである。
「国のために戦う」みたいなものは、一見するとカッコいい。
その前提には、暗黙の国家観がある。
しかし、冷静に考えてみるとオカシイのである。
そもそも、なんでそんなことしないといけないのか?という話である。
ハワイにしろ、オーストラリアにしろ、香港にせよ、英米に取られていたような領域の世界は、なんやかんや輝いているように見えたし、どのみち、日本はヨーロッパからパクリを続けてきて、戦後もアメリカ文化にズブズブになってるのだから、日本的なものを守る必要なんてあるのか、と幼き私は思った。日本人手足短いし、ブスだし、と。
こういう場合に、「日本の伝統」とか「日本の誇り」とか「長い歴史、美しい日本」とか色々話が出てくるが、幼い頃からだいぶアメリカナイズされていた私、ipodに入れたエミネムの曲を聴いてサッカーしたりしていた昔の私、日本的文化が好きじゃなかった私は、
知らんがな
と思っていた。
日本という国の中で、苦しい思いをしている人やいじめられている人は、結局、他国の支配下にあろうが、日本の支配下にあろうが、同じことである。大企業の末端で働いている人は、会社の筆頭株主がA社からB社に変わろうが知らんがな、という感じだろう。結局、それが自分のメリットにどう結びついてくるかということにしか興味関心が無いはずである。
つまり、結局のところ、知らず知らずのうちに、私たちは「日本」というものに同一化されている。
そして、現体制下でそこそこ上手くやってきた、上流だった、権力者の血筋である、中央政府にコネがある家系、政治家の家系、大手企業・財閥の血筋、現在の日本でお偉いさんになっている人たちとの付き合いで恩恵を受けてきた人たち、・・・・のような、
今の日本、最高
と思っているような人たちを中心に、ナショナリズムは広がっていく。
問題は、この日本というものが純粋に、この島国の住人のためというだけではなくて、歴史的にこの島国を牛耳ってきた勢力や力を持ってきた勢力、その周辺で恩恵を受けてきた勢力、そういうものが家系を持って繁殖を続けてきた歴史があるということ。その歴史の中で、巧妙に、大衆からの現体制に対する支持を取り付けているというわけである。
民主主義、憲法、オープンな受験競争などは、そこに納得感を持たせるための巧妙なシステムであるが、実際のところはあちこちで世襲や、権力層の繋がり、古くからの強い勢力・・・・などが存在しているということ。
階級が固定化したり、かなり傾斜しているのであれば、末端の人間は国家に強くコミットするメリットはあまり感じにくくなるだろう。そして問題は、その末端に限って辛い役割を真っ先に担わされやすいということだ。
しかし、びっくりするほど、末端の末端に至るまで、「日本大好き」の精神は行き渡っていると言える。
日本的に体制でなんらメリットを得ていない末端の末端の人が、盲目的に、「日本大好き」みたいな姿勢を貫いていたりするということ。
誤解しないでほしいが、私は反日では無い。
そもそも日本で好きな場所が京都ぐらいの感覚であるから、日本的な美の感覚というか、造形や芸術・美術は好きである。
葛飾北斎の絵を眺めてうっとりしているような人間だし、エロい意味も含めて大阪の飛田新地の風情がたまらなく好きである。現存する唯一の遊郭である。
しかし、一口に日本と言っても、織田信長の時代も、江戸時代も、明治も、昭和も、平成も日本なのである。
ここすごい重要。
日本の歴史は長いことを忘れるな。
体制批判や政治批判をすぐに「反日」と取り替えるのは困る。
そもそもなんで、戦争などが起こるのかという論であるが、結局のところ、「現体制の維持」である。
今の日本で支配者階級の頂点にいる連中が、今の体制を維持したいからやるのである。
- 国内犯罪の取り締まり
- 戦争
の類というのは、現体制の維持のために行われるものである。例えば、日本で違法の薬物を合法にしている国家はあるし、「国を守る」「国体を維持する」と言って国民を一致団結させて突っ込んだ戦争をよくよく紐解いていくと、なんらかの勢力が現体制を維持したいからだったりする。
私は、このような気づきがあって、関心を海外に持つようになる。そういう過去を持っている。
結果的に、海外発の自己啓発書をたくさん読んで学びを得たり、英語メディアを読むようになったり、外国人と触れ合うことで世界は広がった。
日本がますます嫌いになった部分もあるし、日本がますます好きになった部分もある。
ただ、すごく重要な点は、日本に生まれて日本人として普通に生きている限りは、まず間違いなく、バイアスがかかった世界観を持っているということだ。これだけは注意しておくべきである。
私がここで伝えたいのは、体制批判というより、間違いなく、普通に生きて、日本の中で普通の日本人やってたら歪んでるよ、ってことである。
私たちは、テキトーで漠然としたイメージを自国に持っているものである。
まず、日本は移民大国である。
日本が移民大国と聞いたら「そんなバカなぁ」「日本は移民を受け入れてないじゃないかぁ」と思うだろうけれど、実質的には移民大国である。
それから、貧困について。年収の中央値の半分にしかリーチしていない人たちを「相対的貧困」と言うが、日本はこの率が15%ほどあって、弱肉強食のイメージがあるアメリカと実は同等の水準なのである。日本はワープアや貧乏人がたくさんいることは案外知られていない。それから、思った以上に階級の格差、固定化は進んでおり、年寄りもむちゃくちゃ長生きする。世代間格差は大きい。地理的な格差も大きい。
そもそも47都道府県あるが、人口は関東と関西に偏っている。そして、関東、特に東京への偏りが大きい。東京だけで1000万人を超える人口がいるのである。お気づきだと思うが、だいたいメディアに上がってくる話というのは東京にいる人間が東京を前提にして語っている話である。
東京と大阪がどのくらい違いのか、というのを具体的な事例を示せば、東京都心のど真ん中でタバコを吸って歩いているとアウトー!であるが、大阪の中心のど真ん中ではタバコ吸ってポイポイが普通・・・・ぐらいだいぶ違う。
教育行政なども全く違うことは、橋下徹氏が行政改革を行ってから周知されたと思う。大阪の中学校ではつい最近まで給食が無かった、高齢者にはバスのフリーパスがあったというから驚きである。
自殺者は公表されている数字と実際の数値が違うとされている。表に上がってこない数字が結構あるそうだ。
日本の実態というのは実はかなり歪だということである。
英語ができていると、日本で普通にのさばっている新興宗教が海外ではカルト認定されていたり、日本でお金持ち・大成功者として有名になっている人が海外では「これはアリなのか?」という感じで疑問視されていたりと、様々な発見があって面白い。
外国人と仲良くなれば、良くも悪くも、赤裸々な本音が聞けることだろう。
わかりやすく言うと、日本人として日本に生まれた時点で、みんな日本人として利益を共有しているよね、同じだよねという空気・風潮があるが、確かにそれは一理あるしても、「日本の現体制の中でメリットがあるかどうか」というのは、だいぶ人それぞれであるということである。これは、「お父さん・お母さんに感謝しましょう論」にも同じことが言えるが、世の中には虐待されて育っている人もいるし、親がめちゃめちゃ貧乏な人もいれば、親にめちゃめちゃ愛情とお金を注がれて様々な恩恵を受けている人もいるということだ。
これをひとえに画一化して、
「日本に対して反対意見を出す奴は非国民」
「親に感謝できない奴はクズ」
みたいな風潮を、学校教育の末端にまで浸透させて世の中が牛耳られているのが面白いところだと思う。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。