1.研究テーマ
マンコシェアリングと空間論
2.研究目的
マンコの占有性に係る空間的構造を明らかにする
3.研究の背景
一般的に、彼女のいる男性は『俺のじゃがりこ食う?』や『俺のバイク借りる?』という感覚で『あっ、俺の彼女のマンコ使う?借りる?』とは言わない。
筆者の近しい友人は、『俺の彼女とキスする?唇柔らかいよ』と、普段筆者にお菓子を勧めるかのごとく勧奨してきたことがあったがこれは例外的事例であろう。
一般に、ピュアな男性諸君は性風俗嬢やAV女優と交際、結婚したがらない。ここにあるのはマンコシェアリングへの抵抗と、マンコの占有への希求である。
世間の女子はこの辺りを敏感に感じ取って、性経験の過少申告や、オナニーの有無について虚偽の報告をし、あたかも清廉潔白のように装う。
ここで浮かび上がってくる疑問は、もし、男女カップル5組が山奥で共同生活をした場合にどうなるか、だ。この共同生活において、乱交やマンコシェアリングは発生するだろうか。否、であろう。発生したとしても、クローズドに行われるはずである。
しかし、これを100組、1000組、10000組と拡張してみて欲しい。もはや、そこにあるのは『村』『街』『国家』であり、今日の私たちの生活空間と大差が無い。
つまり、事実上、社会は壮大な穴兄弟ネットワークであって、『彼氏の元カノの元彼の元カノの元彼の元カノ……..』この間接的な壮大さを突いたHIVのコマーシャルは話題になった。
20代ともなると一般女性の性経験は豊富になり、インターネットやスマートフォンアプリケーションの発展は、男女をあらゆる形で結びつけてセックスの契機となっている。つまり、現代の貞操観念は軽薄で、これを助長する技術的環境支援は蔓延している。すなわち、ビッチが増えている。
これを鑑みると、彼女を男性友人5人と密室でかわるがわるマンコを使い回していく破廉恥行為と、男性5人との経験を持つ女性と性行為をすることの間にある差異はどこにあるのか。時間的なズレと俗に言う穴兄弟間(間接的膣ネットワーク)に面識があるかどうかでしかない。
ここに、空間論を見るのである。
4.研究にあたっての基礎事実
日本人は突き詰めれば先祖は同じ、という言を見た。これこそまさに、マンコシェアリングに係る空間論である。
人口の少ない島で、人々はどのように生活するだろうか。男女の肉体関係模様はどうなるか。実際に国内に存在するケースでは、
- キャバクラが存在しない
- 風俗が存在しない
という状態になり、恋愛関係については噂がすぐに広がるため不自由な状態となるという。またそのような狭いコミュニティではみんなが家族のような感覚になるとの証言を離島出身者から得た。通常の一定規模不特定多数社会で成立するものが成立しなくなる。
ここで家族というワードが出てきたが、もしかすると家族とは、未遂や擬制的行為、類似行為や関係する内心の活動も含め、マンコシェアリングが発生しない・しえないコミュニティがその本質なのかもしれない。家族とは性行為によって増殖しながらも性行為から遠ざかるコミュニティであると言える。
とある書籍に、『結婚に最も向いていないのは性的に奔放な人間である』とあったが鋭い洞察である。
最小の単位がそれで、その拡大されたバージョンが構成員の少ない狭いコミュニティである。物理的に不可能ではあるが、とある夫婦が10万人の子供を生んだ場合、そこには家族というより都市が生まれるため、この都市内ではもしかするとマンコシェアリングが発生するかもしれない。
すなわち、狭い空間ではマンコシェアリングはおろか、マンコシェアリング状態を予期し恋愛及び肉体関係に発展する事に自制がかかる、ということである。ここに恋愛及び肉体関係に秘匿性がつきまとうことが洞察できる。秘匿とは関係性の認知に排他的ということである。
これは言わば、『ペア』という閉鎖的な空間が発生したことを、そのほかのコミュニティ構成員たちに認識されて破局後の次なるペア構成の際に支障が発生することを防ぐ目的である。支障とは『過去のペア発生履歴』をペアの当事者を特定できる形でこのうちの片割れの次なるペア候補にターゲティングされた者が、相手方の過去情報を得ることである。相手方の過去の関係当事者間に発生していた出来事およびその当事者がどうであったか、を知られたくないというのは、どうも、犯罪者の心境と類似するものがあるかもしれない。
犯罪の本質は社会秩序の破壊であって、恋愛や肉体関係にはその生殖生産能力ゆえに破壊性も内包していると言える。殺人の対局は出産である。
5.空間的余白仮説
すなわち、カップル・ペアという閉じた空間の周囲にどれだけの空間的な余白があるのかが、暫定的な論点となる。カップルの外の状況が、閉じた空間である恋愛・パートナーシップ状態の発生に影響を及ぼす可能性がある。すなわち、10人しかいない社会においてこの中の男女二人が結びついた場合、人的空間だけを見るならば余白は8しかなく、ほとんど何をしても全ての情報がシェアされてしまう。そして、その情報伝播が不都合なのは犯罪と類似していて、情報が知れ渡ることが当事者にとって不利かつ客体からの警戒を招く。
ここに、ある40名程度の学級を想定しよう。男女比が1:1のこの学級で、3年間共に過ごすという場合に、この空間の中でカップルや肉体的関係は発生するか。恋愛関係の場合、発生してしまえば周知され、もし破局した場合にこの二人がこのコミュニティ内で次なるカップルを成立させることはやりにくいであろう。しかしながら、遊びの性行為で3Pやマンコシェアリングは発生するかもしれないがこの女性には女性社会の中でビッチの汚名を着せられる。
6.ビッチ迫害の歴史
ビッチ迫害の歴史を追いかけると、結局のところ家督や財産の相続に不都合であったからである。もし女性サイドが性的奔放である場合、特定の家系における財産や家督の継承、子育てのエネルギーが他所に流れてしまうことになる。
- 家族
- ビッチ
- マンコシェアリング
といったトピックの根底に緩やかな繋がりを見出すことができる。
女性の視点から見て、ビッチの存在は自らの家庭秩序を破壊しうる外来の危機となる。すなわち、パートナー男性やその資力を外来のビッチに奪われる可能性がある。加えて、ビッチは後述するようにマンコシェアリングによって複数の男性の上に自らの実存を成立させ、豊かさを独占できるケースがある。
以上が女社会におけるビッチ迫害の理由であり、これを本能的に嗅ぎ取って女性は女性の前で性的奔放さを隠す。ナンパを得意とする男性諸氏は、『なるべく女性は女性の目につかないところで口説くのが良い』と感覚的に理解していることだろうし、小学校、中学校の世界でも、男子に対して八方美人的な女子やモテる女子は攻撃されることもある。
7.側室、妾、一夫多妻制
昔の武将がたくさんの嫁を抱え、子供を大量に抱えていたことは有名である。この状態はチンコシェアリングであると言える。
逆のマンコシェアリングはどうか。男たちでマンコをシェアし、子供を産ませ、穴兄弟同士でコミュニティを形成し共同社会を営む。このようなコミュニティは成立するだろうか。
海外では一妻多夫性は存在する。
成立の条件としては女性の数に比して男性数が少ない、あるいは経済的に弱く男性一人で子供を育てられない社会で成立するという。すなわち1人の女性とその子供を1人の男性の経済力によって養うことが難しく、複数の男性で支えることにより女性の生活と子供の成長を保証できる。
この前提には、資力があればマンコ独占が望ましいという男性側の希望がある。しかしそれはなぜだろうか。そして、そもそもマンコ独占は可能だろうか。処女でなければ、たとえ独占しているように見えてもそれは時間軸がズレているだけであって長い時間軸ではマンコシェアリングをしている。同時並行的マンコシェアリングとの差異があるとすれば、マンコリレーションシップ中に他者の種を身籠る可能性が低いことぐらいである。
子の養育コストに関して、マンコシェアリングの観点から、
- 他のオスの子の養育コストという視点 (すなわち他人の購入の不本意な負担)
- 正味の避けられない子の養育コスト
- 子の養育に係る母親のコスト
の3つで捉えた時。
問題は、この養育にかかるコストである。子の養育にかかる正味の純粋コストに対して、母体や主たる養育者である母親のコストが上乗せされ、さらに社会経済状況に合わせて必要なコストが加算されることを考えてみよう。
仮に、女性の欲望が肥大したとして、この欲望充足の源泉資力をすべて男性にアウトソーシングした場合、当然のことながら男性一人で支えることが困難になる。当然のことながらマンコシェアリングを要する。これの擬制が性風俗やキャバクラなどで働く女性と言える。不思議と、出産適齢時期と現役期間がリンクしている。俗世間で一般的に言われるように『水商売をやると普通の家庭は手に入らない』と言われる理由もここにありそうである。
旦那単体に依存するモデルが俗に言う専業主婦モデルであり、不特定多数のマンコシェアリングか、特定独占のマンコシェアリングかという違いはあれど膣株式会社である。不特定多数のマンコシェアリングの場合、場合によっては意図しないコストがかかる、あるいはその危惧がある。
独占的膣株式会社、つまり専業主婦モデル場合、皆が等しくパートナーを得るとマンコが行き渡り何ら問題が無いように思えるが、これは子の養育にあたって母親側のコストが最小限に抑えられる場合である。母体かつ主たる養育者である女性サイドの欲望が増大し、このコスト負担がパートナー男性にとってオーバー気味になると、マンコシェアリングの方が望ましい結果になる。そして、母体となり得る特権を活かし、独占的膣株式会社、すなわち専業主婦モデルによって自らの生存コストをパートナー男性にアウトソースする行為は、本質的に『子に依存する母親』もしくは、『子に依存する母親が社会的に確立した家族運営の一般的体系に寄生する女性』という状態になる。
このモデルに基づくと、女性サイドの欲望が増大するにつれて、男性サイドのマンコシェアリングに対する寛容度は向上していくことになる。
これはまさに今日の男性の結婚観、恋愛観とも言える。
8.今日の主たる夫婦喧嘩の考察
以上の論考に基づくと、母体かつ主たる養育者である女性サイドがローコストで過剰な労働を行うことで疑似独占的マンコシェアリングは成立する。つまり家庭とは女性の多大なる犠牲で成立する。
そして、今日の夫婦間にある対立は、男性サイドの『子供と家庭のことを考えるならば女が我慢しろ』という考えに対する女性サイドの反発と欲望の拡大である。
女性の立場に立った時、『なぜ二人で作った子供についてあらゆる物事が分担されないのか』『なぜ女だけなのか』というのが今日の旦那サイドに対する不満の要約と言えよう。彼女たちはそもそも結婚に対して、子供と自分の両方が幸せに満たされた上で家族が仲良く豊かに暮らす生活を夢想して結婚生活にエントリーするがこれは幻想である。本来結婚とは女性が我慢に我慢を重ねる世界である。そこに喜びややりがいを感じるタイプの人間が犠牲と奉仕の精神を持って家庭に殉じるものである。俗に『成功者』と呼ばれるレベルの社会経済的に余裕のある人間が多少なり快適かつ利便性の高い形で家庭形成を進めることができるのであって、たとえそうだとしても一定の犠牲は要する。これはいわば、スーパーエリートがコンビニバイトをしたとしても一定の苦労や努力を要するのと同じことである。
それがなぜなのかについては、男女の身体的構造の差異に着目する必要がある。
そもそも、経済合理性に照らせば男女共に子息の養育はデメリットが多い。これを行うというのは男女共に本能的な養成であって、機能的観点から見ても『中出ししたい』と『子供産みたい』は同列の願望である。そもそも男女共に本能的な要請で家庭に対するベクトルを持っている点で互いに動物的であることに変わりはない。男女共に同列の本能的行為について、結果論として逃げられない立場になった女性サイドが『社会的責任論』に論点のすり替え・昇華をさせているに過ぎない。
よく女性が男性を『猿』と罵っているがこれは女性も変わらない。なぜならば、出産行為がある種の罪であるからである。本来、DNAや家系、能力、資力等を考慮すれば7割のメスにとって出産・育児は負の遺産を後世に残すからである。両親から50%50%であらゆるものを受け継ぐとすれば、子息の社会的飛躍や養育環境の50%は女性サイドにも責任がある。
にも関わらず、一方に対しては本能的願望を公にしても高尚な願望と捉えられ、一方に対しては下品かつ自分勝手な願望と捉えられるのは女性集団の熱心な圧政・剥奪的な政治活動・権利運動の賜物である。同列であるはずの願望だが、万が一妊娠に至った場合、女性サイドには逃げられない負担が身体にかかるという、いわば事後処理の担当問題から、男性の性欲に対するDirtyなレッテル張りが行われている。これは男性側の逃亡を前提にするなら至極正しい。
ただし、男女共に事後処理を行う前提にあたり、身体的に平時の機能が不全に至る女性サイドを男性がサポートするという動物界でも見られるオスメスの営みが行われる場合、『機能できない者と、機能する者』のペアを考えると機能できる者の活動が制限されれば機能できない者共にこの家庭は全滅することになる。よって、機能する者にリーダーシップが信託され、これが結果的に俗に言う男性優位の基本的なモデルに繋がる。しかしここにある優位というのは身体的優位であって、立場の優位ではない。
つまり俗世間的に言われる『男優位論』というのは、正確には優位というよりも身体的に活動制限がかからない方に対して、利害共有当事者の共同的な利益に関するバトンを任せているだけであり、適材適所論の延長に過ぎない。いわずもがな、バトンを渡された側には平時より過剰な負担がかかる。
本能的要請から男女共に共同正犯的に行った行為に対して、身体的構造から事後処理について逃げられない傾向にある女性とそうではない男性の差異と、共同で事後処理を行う場合における身体的制限のかからない方への身体的活動の優位性に基づく信託という点は、そもそも『神の設計』すなわち生物学的宿命である。
この普遍的な営みについて、女性サイドが家庭に対する過度な幻想と自身の欲望を上乗せしたことによる境界線の引き方の誤りが、役割分担に対する不満を生み、あらゆる諸夫婦喧嘩の遠因となる。
動物と違い、未来に対する計画能力を持つ人間は、将来的な活動の制約を予見して事前に備えるなどの行為は男女共に可能であるから、男女共に計画準備レベルにおいて平等な分担がなされていれば、女性サイドの一時的活動制限時期に入っても、事前の男女の準備果実の合算に加え、男性サイドのいわば『シングルエンジン飛行』においても、まるでエンジンの片側が故障した飛行機と同様に、ある程度シングルエンジン飛行は可能であり、また事前準備による高度がある程度保たれていればすぐには墜落しない。事前準備には、たとえば実家との関係維持等も含まれる。
女性サイドの活動機能が回復し、ダブルエンジンが正常に回復すればまた安定飛行が可能であるから、以上の認識が男女共にあれば、大抵の男女ペアは最低限の家庭形成は可能であると言える。そして、これが
- 不能
- 不満
になるのは、往々にして女性サイドの問題である。
全国的に、男性には『社会経済的に一人前になっていない場合には親になる資格がない』という観念を持ち得ない人はほとんど無い。ところが地方であれば、そのような観念が皆無な女性は数多く存在する。
そもそも人生単体レベルでまだ離陸できていないと評することができる若年層や、ティーンエイジであるならばまだしも、一定年齢以上の成人が、たとえ仮に強姦被害の果てに妊娠したというレベルの突発的アクシデントで事後処理に追われたとしても、これを単体で乗り切る力がない場合そもそも単体の人生として飛行能力が怪しいケースがほとんどであろう。そもそも一般社会人の多数は生涯独身を通して働き通しても己一匹の生活すら安泰で終われるか怪しい。
また、社会は未成年と成人の性的接触を法で制限しているから、ここに抵触しない女性が意図しないシングルマザー人生を歩むとしても、そもそも、夫婦家庭形成はおろか、単体の人生も自助独立できていたか怪しいレベルが多い。仮に若さゆえに経済的蓄えが無かったとしても若年者は身体的優位性があり、逆に経済的蓄えがある30歳は経済的蓄えが無い18歳に身体的に極めて劣るものであるから、これを鑑みると『資格不十分な人間』は個人的問題を抱えたまま家庭形成に突入し、個人問題と家庭問題と混在させている可能性が高い。そして、そのような人間が一種の生存戦略としてキャリア問題の逃避先として結婚に逃げ込み、その先で不満を訴えているに過ぎない。論理的に考えれば至極当然の帰結である『結婚して幸せな人間は結婚する前から幸せな人間である』ということすらわからず、結婚という民法上の契約行為、行政上の事務手続きが自らの人生を変え、自らの幸福を呼び込む形で機能する魔法のパッケージと妄想する一種の錯誤が起こっている人間が溢れている。
事前準備及び予見の甘さと家庭形成に対する誤った思い込み幻想、そして自身の欲望を『子の母体となれる立場』に混在させてパートナーサイドに要求した人生設計の愚が夫婦問題になっているケースは多く、それ以前に大原則として、自身の人生にかかる幸福追求や欲望の充足は『自前で行う』という普遍的な人生原則から、そもそも逃げられるものではない。
もし仮に女性の立場的優先があるならば、それは母体可能性に基づく保護需要に関する社会的コンセンサスの結果であって、それは性別に基づく絶対的な優位性や無条件での保護需要を意味するものではなく、『性別で差別しない』『男女同権』を実行した結果はそうなる。また、これだとブーメランになる人が多いだろう。結果的に自己矛盾に陥る。もし、陳情するならば『男女同権ではなく、不平等を要求する、劣位特権を要求する』が正しい。
劣位、弱者であるが故の特権というのは、社会的弱者に対する慈悲で与えられるもので当然のことながら社会的地位は向上するどころか下がることになるため、地位向上運動とは逆行することになるだろう。社会的監視、圧力は高まる。
おそらく、大抵のフェミニストの要求は『我々は皇族になりたい』というレベルの内実、絶対特権的地位を求めているものと言えるが、仮にそのような特権的地位を考えるならば、我が国の歴史を見ても朝廷・公家は常に時の政権に政治利用されてきた存在であって、現在の天皇等を見てもわかるとおり、発言、行動、居住、家庭形成、交友関係は著しく制限されることになる。皇族らしさを求められ、ファッション、気品、笑顔、などある種のシンボル性を求められ、イメージの保持と『それらしさ』を強要されることは、我が国において女性が反発してきた強要そのものである。
9.チンコシェアリングに問題は無いのか
では、チンコシェアリングに問題は無いのだろうか。
チンコシェアリングの問題点は、女性が特定の男性に集中することである。こうなると、男性間での軋轢が生じるように思える。すなわち奪い合いが生じるように思える。
ただし、現代社会においては、仮に特定の男性が女性を独占したところで大量に子をこしらえれば過剰な負担がかかり、また、これに対する経済的義務を女性サイドを支援する形で法が強いる。また、そもそも独占と言っても監禁では無い以上、常に女性サイドに選択権があり、自由選択の結果である。仮に権力的拘束や監禁性のあるものであれば、その中心にあるシェアされるチンコを持つ人間が、取り巻きに流動性を持たせてキャッチアンドリリースを繰り返せば、供給は行き渡る。独占と言っても、流動性の有無で大きく異なる。権力や拘束性の無いものが『モテ格差』状態であり、今日の日本もこの状態にあると言えるが、セックスは身体的行為であり東京と大阪で同時並行的に行為に及んだり、同時に10人とできるものでは無い以上、手持ち無沙汰のマンコに対して獲得機会はあるし、『寂しさ』のニーズがあり、これは今日のセフレ関係を結ぶ女性の主たる動機の一つである。
また、必ずと言っていいほどマンコシェアリングの上に実存を確保する不特定多数膣株式会社が発生するものである。
もし全ての男性が『一家に一台』よろしく、マンコ独占を望んだ場合、これはいわば旧来的なお見合い結婚社会でありすでに馴染みがあるものであるから解説は控える。
10.SNS社会と裏垢女子とマンコシェアリング
すでに言及したマンコシェアリングの空間論的な分析をもとにすれば、SNS社会の到来によって、SNS上にみだらな投稿を自主的に行う女子(いわゆる裏垢女子)の誕生についても理解できる。
保守的な価値観を持つ人間には、近年の裏垢女子には驚きを隠せないかもしれない。
だが、記述の通り、空間的余白と秘匿性によって肉体関係は発生し、この二つを助長するSNSは女子のエロ化に拍車をかける。なぜならば、インターネットは地理的制限を取っ払って全国的な空間の広がりを提供し、かつ、匿名性を確保することができる。言ってみれば、『3年間ずっと同じメンバーで過ごす顔なじみの閉鎖的学級』の反対に位置するのがSNS空間であるからである。
11.関西女子と東京女子のビッチ性の比較
関西女子は統計によると浮気率が低い。
一般的に、ある程度の都市性や人口規模のある街では、女性の浮気率が高そうな先入観があるのでは無いだろうか。関西という大都市の浮気率が低いのは意外に思う人間もいるだろう。
- 奈良
- 大阪
- 兵庫
- 滋賀
は、最も浮気率の低い都道府県TOP5にランクインしているのである。これに対して、東京女子などの浮気率は比較的高いのを感覚的に感じている人も多いのでは無いだろうか。
実はこれもマンコシェアリングと空間論から分析が可能である。
東京という街は全国から人がやってくる。これに対して、関西という街は、ある程度地元に根付いた人員構成になっており、『地元の顔馴染み』というのがそのまま同じ都道府県空間で育っている。関西三都は、高校はもちろん、専門学校、大学も充実しており、経済的に豊かなエリアのため職場も困らない。これに対して各地方の人間は仕事を求めて移住をする。
つまり、関西の場合、小中高大学とある程度同じ地域内進学するにつれて顔なじみの幅が広がり、加えて就職すると職場ネットワークが生まれてしまう。これにより、都市空間としては広大でありながらも顔馴染みの範囲が広がってしまうために、関西ではビッチ女性が育ちにくい。実際、関西女子と交流すると人目を気にしている印象を受ける。何より関西は見ず知らずの人間とも比較的フランクに話す文化のため、浅い顔見知りの範囲も含めれば人的ネットワークは拡大しやすい。
そして、『マンコシェアリングが発生しない空間≒家族的空間』という仮説も関西にはよく当てはまらことにお気づきだろうか。関西人は関西人としての共同体意識は強いのが特徴である。
そのため、関西女子は、関西の外に出て売春を行う。関西の外にあるソープ街には関西からの出張売春女子と数多く出会うことができる。彼女たちは口を揃えて『身バレしないから』と言う。つまり、関西女子の気質として清廉潔白なのではなく、環境的要因がビッチ化を食い止めているのである。そして、インターネット社会、スマホ社会が発展してきてからは、関西エリアでの援助交際は増加している。大阪、奈良、京都ではソープが制限されている全国的に希有なエリアであるため、飛田新地、雄琴、金津園などの代替施設はあれど、結果的に本番行為への需要が高まる。マンコシェアリングのための空間論的条件を満たした結果、水面下での関西女子のビッチ化が進んでいる。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。