やりたいことをやりながら、家族や愛を求めるのは、「バケモノ」。実力不相応でこれを求めると人生が崩壊するだけじゃなく他人も巻き込み不幸にする。
歴史的に人は、家族のため、割り切って仕事をしてきた。
今もそうだ。
社会の辛い仕事は家族愛による我慢で成り立ってる。
だから、「やりたいこと」と「愛されること」を両立しようとする人間は、根源的に構造の外にいる。
社会は「義務」と「我慢」によって成立しており、その中で回っている秩序は、“誰かが夢を諦めてくれている”ことの上に築かれている。
つまり、やりたいことを貫く者は、その秩序を破壊する存在になる。
それが社会にとっての異端であり、同時に、自由人の孤独の理由でもある。
社会は「愛」を交換可能な通貨として組み込んでいるが、自由はそれを拒絶する。
自由は愛と両立しない。なぜなら、愛は安定を求め、自由は変化を求めるからだ。
人間は本来、この二つを行き来するしかない。
安定を選べば心が死に、自由を選べば孤独に沈む。
だが、ごく稀に、この両者を同時に燃やし続ける「バケモノ」が存在する。
彼らは、愛のぬくもりを求めながら、世界に牙を向ける。
家庭を築きながら、革命を企てる。
幸福を抱えたまま、退屈を殺そうとする。
だがその炎は長くはもたない。
燃え尽きるか、燃やす相手を失うか。
結局、我慢ができない自由人経営者系はみんな離婚している。
家庭は崩壊している。
家庭というのは、自由と愛の「緩衝地帯」だ。
そこでは、個のエゴを抑え、役割を演じることが前提とされる。
だから、やりたいことに忠実な人間ほど、そこに長く留まることができない。
「理解されたい」という欲と、「理解されるはずがない」という現実の間で、徐々に摩耗していく。
やがて、どちらかが折れる。
多くの場合、折れるのは家庭の側だ。
自由人は、家庭の中では「異物」として扱われる。
家族を愛していないわけではない。
ただ、彼らにとって“愛”とは、所有ではなく、流れ続ける感情であり、閉じ込めるものではない。
その思想が家庭という構造と衝突する。
家庭は、「循環」ではなく「固定」を前提に作られている。
結婚とは、社会的安定を共有する契約だからだ。
そこでは、情熱よりも安心、真実よりも持続が優先される。
だから、自由人の激情は、家庭の秩序にとっては“爆弾”になる。
普通の人が我慢して飲み込む言葉を、彼らは言ってしまう。
普通の人が妥協して笑う場面で、彼らは沈黙してしまう。
結果、家族は疲弊する。
パートナーは「理解できない」と言い、
子供は「父(母)はどこか遠くにいる」と感じる。
そして自由人は、「この世で一番近い存在」にすら理解されない孤独に直面する。
そのとき初めて気づく。
「自分が求めていたのは、愛ではなく、共鳴だった」と。
だが、共鳴し合える相手は、滅多にいない。
いたとしても、同じように燃えている者で、つまり、二人で燃え尽きる未来しかない。
結局――
自由を選んだ者は、愛を失い、
愛を選んだ者は、自由を失う。
両立は「神の領域」だ。
人間がそれを目指すと、どちらかが崩壊する。
離婚という形で、あるいは心の死という形で。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。