最新のポケモンを観て思った。
女子に媚びたのか?なんか、ポップな感じになってて、もはやこれはポケモンじゃない。
ポケモンは、ポケットモンスターだからね。
モンスターだから。モンスター感が無い。
ポケモンは本来、こうじゃなかった。
ポケモンはもともと、メッセージがあった。
独自の世界観の中に、訴えるものがあった。
刺さるものがあった。
初期のデザインも、絶妙なモンスター感と、絶妙なペット感のバランス感が良かったのである。
グロい順に並べると、
- マジックザギャザリング
- 遊戯王
- ポケモン
- サンリオ、ディズニー
みたいな。
現実を知らない子供たちに、ポップな世界観を通して、
- 嫉妬
- 憎悪
- 憎しみ
- 争い
- 競争
- 人間関係
- 悪の組織
- テロリズム
- 進化
- 成長
など、現実の世界の何かが投影されているであろう、深みがあった。
当時の子供達は、ポケモンの中に、社会の何かを見たのである。
昔は、音楽にしろ、ストーリーにしろ、もう少しホラーなところや、サスペンス地味たところがあった。
アニメ、ゲームで十分人気を得ていたポケモンが最初にはじめた劇場版の第1作目は、人間の都合による遺伝子操作、差別問題など、かなり社会派で子供達の頭を悩ませる、スタジオジブリの一枚、二枚上手を行くメッセージ性。全国の子供達が頭痛と眠気をおびて帰る作品。面白いのか面白くないのかよくわからないけれど、印象には残った。
子供達はパパママにお願いしてようやく足を運んだ劇場で意味がわからず、観終わった後にパパママに意味を訪ね、パパママも『これは子供には難しい』と説明に窮する、家族連れに謎とモヤモヤを残す謎作品であったが、歴代最高傑作と言われる。
主人公にやたらと執着してくるライバル。実の祖父が権威でありながら、赤の他人である、主人公の才能を見抜いてバックアップするおじいちゃん。その姿を陰ながら見て、嫉妬し、しつこく執着を挑んでくるライバル。
悪の軍団に制圧される街。人間の都合で利用されるポケモンたち。環境破壊。死んだポケモンの怨念。チャレンジャーを馬鹿にしてくる人たち。
『お前がうちのジムリーダーに挑もうだって?100年早いぜ!!』
どこにでもいる街のボス。長老。稼いで、使って、成長して、冒険する。若いのに、実家を捨ててマサラタウンにサヨナラバイバイする主人公。なんやかんやで、一番強いのは最初から手塩にかけて育て、旅を共にしてきたポケモンという設定。使える、使えないを判断するチームマネジメント。
最後の最後で待ってるラスボス。
複数の作品を通して繋がるストーリー。
楽しめる複数の要素。
神ゲーだった。
主人公が一切喋らないという点も神設定だったと思う。
もともとポケモンは、もっと、グロテスクなところがあったり、生々しい感じがあった。
かわいいゲームじゃなかった。
人間ドラマがあった。女の子は、男友達とか、お兄ちゃんがいないとやらないゲームだった。流行るまでは。
初期のクリエイターが現場離れてる感がハンパない。
マリオくさい。
子供を子供扱いしたり、若者を若者扱いしすぎたらヒットしないぜ。
宮崎駿も、田尻智も、社会に伝えたいことがあったから、情熱を持ってビジネスを起こしたはずだ。それがクリエイターという人種だ。社会に何かを問いたい奴が何かを創造する。
でも、それが、完全に版権ビジネスになってしまい、会社がでかくなってサラリーマンが埋め尽くすようになると、いよいよコアメッセージが陳腐化してくる。
このビジネスは何のビジネスなのか?
2代目からは、それが陳腐化していく。
事業は魂を継承しないと、続かない。ビジネスから、ビジネスくさいところだけが残っていき、クリエイターの魂が忘れ去られると、そのビジネスは陳腐化していく。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。