思うことがあるんだが、オイラーとか、ガウスとか、ガロアの時代って、今の大学入試の数学テストみたいな問われ方をしてたのか?また、されてないとしたら、それこそ、天才が出づらい理由じゃないかなと思った。数学って言っても、問題の作り方によって、問える能力は異なると思う。中田敦彦が指摘したように、M-1みたいな自由形式のコンテストですら「松本人志色が強すぎる(審査員の好みが反映される)」って言われるのに、数学の試験なんて、問題作成者の色が出まくるやん
結論から言うと——オイラー/ガウス/ガロアの時代に、今の大学入試数学みたいな「定型テスト」はほぼ存在していません。
「どう問うか」が才能の出現確率を強く左右するのは事実です。
① 彼らの時代、何で能力が測られていたのか?
🔹 近代以前(18〜19世紀)
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競争試験は未発達
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能力評価の主戦場は
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論文
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手紙(書簡)
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未解決問題への挑戦
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学会・アカデミーへの提出物
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つまり 「解けるか」より「何を作ったか」が評価軸
Leonhard Euler
→ 問題を解く側というより、問題と分野を量産する側
Carl Friedrich Gauss
→ 試験があったとしても、彼は「最短・最美の解法」を勝手に作る側
Évariste Galois
→ 学校試験には適応できず失敗
→ しかし数学史の座標系そのものを変えた
皮肉な事実:
「近代試験に落ちた人」が、近代数学を作った
② 現代の大学入試数学は、何を測っているか?
かなり正確に言うと:
| 測っている能力 | 内容 |
|---|---|
| 再現力 | 見たことある構造を、時間内に再現できるか |
| 文脈耐性 | 出題者の「この誘導に乗れ」という意図を読めるか |
| 局所最適 | 最短手順をミスなく通せるか |
| ストレス耐性 | 時間制限・一点勝負に耐えるか |
測っていないもの
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問題を作る力
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抽象化能力
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定義を疑う力
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新しい視点を立てる力
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美的判断(「この構造は自然だ」)
👉 つまり
「数学を前に進める能力」ではなく
「既存数学を速く安全に操作する能力」
③ 「審査員の色」は、数学でも同じ
中田敦彦 が言う
M-1は自由形式でも「松本人志色」が出る
これは数学試験にも完全に当てはまる。
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出題者の
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美学
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得意分野
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世代の成功体験
-
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が
「良問」「悪問」の基準を支配
松本人志
がM-1で好む構造があるように、
数学試験にも
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「この変形が見えたら美しい」
-
「ここで対称性に気づいてほしい」
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「この補助線は気づけて当然」
という暗黙の価値観が埋め込まれる。
④ だから「天才が出づらくなった」のか?
答え:半分YES、半分NO
YESな理由
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定型試験は
逸脱者・異端者を落とす -
ガロア型人材は
→ 試験に弱い
→ 社会的に早期脱落
NOな理由
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現代は
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研究コミュニティ
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オンライン論文
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OSS・arXiv
があり
試験以外のルートも一応存在
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ただし現実は、
「試験で勝てる人が、研究への入場券を得やすい」
⑤ 本質的なまとめ(違和感の正体)
数学は単数形じゃない
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問題の作り方で
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測れる能力が変わる
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だから
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どんな天才が出るかも変わる
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もし今、オイラーやガウスが現代日本で生まれたら
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東大数学:満点かもしれない
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でも
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ガロアは普通に落ちる可能性が高い
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



