1910年代のようなほとんどが大学に進学しなかった時代に東京帝国大学に進学するような人たちは実家が太かった人なのか?ルワンダ中央銀行総裁日記という本を読んでいて、著者の服部氏の経歴を見て思った。
1910年代の日本において、東京帝国大学(現・東京大学)に進学することは非常に稀で、エリート層に限られた特権的な機会でした。この時代、大学進学率は非常に低く、尋常小学校を卒業した者のうち高等教育に進む者はごくわずかで、大学に至ってはさらに限られていました(大学進学率は1%未満とも言われます)。そのため、東京帝国大学に進学できた人々の背景を考えると、経済的・社会的地位が高い家庭出身者が多かったのは事実です。ただし、服部正也氏のケースや当時の状況を踏まえ、以下に詳しく考察します。
1. 当時の教育制度と東京帝国大学の位置づけ
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教育の階梯: 1910年代の日本の教育制度は、尋常小学校(6年)、高等小学校(2年)、中学校(5年)、高等学校(3年)を経て大学に進む構造でした。しかし、中学校進学自体が経済的・学力的にハードルが高く、中学校進学者は全人口の数%程度でした。さらに、高等学校(旧制高校)から東京帝国大学への進学は、ごく少数の優秀な者だけが許される狭き門でした。
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東京帝国大学の役割: 東京帝国大学は、明治政府が国家の近代化を進めるために設立した最高学府であり、官僚や専門家の養成を目的としていました。卒業生は政府高官、法官、医師、技術者など国家の中枢を担う役割を期待され、社会的地位も高かったため、進学には学力だけでなく経済的・文化的資本が必要でした。
2. 実家が「太い」人が多かったのか?
当時、東京帝国大学に進学する学生の家庭背景は以下のように分類できます:
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富裕層・上流階級: 地主、商人、企業家、旧士族などの経済的に裕福な家庭出身者が一定数いました。これらの家庭は、学費や生活費を賄う余裕があり、子女を長期間教育に投資できました。たとえば、旧制高校や大学の学費は高額で、地方から上京して下宿生活を送るにも資金が必要でした。
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新興中産階級: 明治維新後の近代化で台頭した知識階級(教師、医師、地方官僚など)の子女も進学者の一部を占めました。これらの家庭は経済的には中程度でも、教育への強い意欲を持ち、子弟を高等教育に進ませることを重視しました。
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例外的な貧困層出身者: 極めて優秀で、奨学金や親族の支援を受けた貧困層出身者も少数ながら存在しました。たとえば、地方の秀才が地域の有力者の支援を受けて上京するケースや、学費免除制度を利用するケースもありました。Xのポストによると、1910年代の東京帝国大学では「学費は半期で3万か4万くらい、かつ、貧乏なら学費免除を割と簡単に取れた」との指摘があり、貧困層でも制度を利用して進学できた可能性はあります。ただし、これは例外的なケースで、進学に至るまでの準備(塾や予備教育など)には依然として経済的余裕が必要でした。
3. 服部正也氏のケース
『ルワンダ中央銀行総裁日記』の著者、服部正也氏(1918年生まれ)の経歴を参照すると、彼は東京帝国大学法学部を卒業していますが、1910年代の状況を考える上で彼の家庭背景を推察してみましょう。
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服部氏の経歴: 服部氏は三重県生まれで、幼少期にロンドンや上海で過ごした経験があり、旧制大村中学校、旧制第一高等学校を経て東京帝国大学に進学しました。海外生活の経験や旧制一高への進学は、経済的・文化的に恵まれた環境を伺わせます。ロンドンや上海での生活は、父親が貿易商や外交関係の仕事に従事していた可能性を示唆し、少なくとも中産階級以上の家庭であったと考えられます。
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実家が「太かった」か?: 服部氏の海外生活や一高進学の経歴から、経済的にある程度余裕のある家庭であった可能性が高いです。一高は全国から優秀な生徒が集まる名門校で、進学には学力だけでなく、受験準備のための塾や参考書、場合によっては上京費用などが必要でした。また、東京帝国大学法学部は官僚養成の中心であり、進学者は社会的エリート層が多かったため、服部氏の家庭もこの層に近い環境だったと推測されます。ただし、具体的に「大富豪」レベルの富裕層だったかどうかは情報がなく、むしろ新興中産階級や地方の名望家レベルの可能性も考えられます。
4. 当時の進学者の多様性と服部氏の位置づけ
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多様性: 東京帝国大学の学生は、富裕層や中産階級が中心でしたが、地方の秀才や奨学金利用者も少数ながら存在しました。たとえば、1910年代の著名な卒業生には、貧困層出身で努力と才能で這い上がった人物(例:後の政治家や学者)も見られます。服部氏のケースは、海外経験や一高進学から見て、経済的・文化的に恵まれた層に属していた可能性が高いですが、「実家が太い」=大富豪というよりは、教育投資に積極的な中上流階級の家庭だったと考えられます。
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時代背景とのリンク: 服部氏が生まれた1918年は1910年代末で、彼が大学に進学した1930年代後半には、日本の教育制度や経済状況が1910年代からやや変化していました。1930年代には中産階級の拡大や奨学金制度の整備が進み、1910年代ほど極端に富裕層に偏っていたわけではありません。それでも、東京帝国大学進学は依然としてエリート層の特権であり、服部氏の家庭が一定の経済的基盤を持っていたことはほぼ確実です。
5. 結論
1910年代の東京帝国大学に進学した人々は、富裕層や新興中産階級の出身者が大半を占め、貧困層出身者は奨学金や特例的な支援を受けたごく少数に限られました。服部正也氏の経歴(海外生活、一高進学、東京帝大法学部卒業)から推測すると、彼の家庭は経済的に余裕があり、教育に投資できる中上流階級(おそらく地方の名望家や新興中産階級)に属していた可能性が高いです。ただし、「実家が太い」といっても、大財閥レベルの超富裕層というよりは、教育熱心な中上流層の範疇と考えられます。当時の進学者の背景は多様でしたが、服部氏のケースはエリート層の典型的なパターンに近いと言えるでしょう。
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説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。