この記事に書いてある通りだった。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post_22.html
私もそうだが、数学が嫌いだった人はえてして学生時代に、
学ぶことの意味がわからない
と考えてしまう。
また、こういうタイプは、数学によくあるような
- 点A,点B,点C
- 辺x、辺z
などの記述を嫌う。
ですから数学的論証では「点Aから点Bへ・・・」と言うだけのところを、物語的数学記述では「太郎君が家から学校へ・・・」などと言います。思考が得意な人からすれば「太郎君」や「家」や「学校」などといった情報は無駄でしかありません。しかし、抽象的に考えることが不得意な人にすれば、そういった記述がなければ共感的に事態を想像できません。かくして物語的な数学記述では「太郎君は最初、時速4キロで歩き始めます」などといった記述を加えます。もちろんこれも思考-直観機能を得意とする人にとっては無駄、というよりかえって邪魔でしょう。「歩くことにおいては、加速や減速もあるし、曲がり角や信号もあるだろうから、そもそも『時速4キロで歩く』というのはどのような事態として考えればいいのだろうか」などと考え込んでしまうかもしれないからです。
やっぱりこういうことを踏めると、私は数学が苦手・嫌いな人であったのだと思う。
しかしながら、私の”微妙”なところは、数学ガールのような物語が嫌いなところにある。
数学ガールはむしろ、冗長だと感じてしまう。
では、私が数学に求めるものは何かというと、一般性の高い理論、抽象性の高い理論である。一方で、微に入り細に入りの細かい数学パズルのようなものは好きではない。なんらかのパズル性が高いものに取り組むことに興味はない。
だから、「数学オリンピック」的なものにも興味がない。
数学が不得意な人は、最初は物語記述から数学の世界に入り、やがては物語記述を必要としない思考的で直観的な数学的記述に慣れれば、その人は最後まで数学が得意にならなかったとしても、自分の潜在的可能性を少しは開花させたと言えるでしょう。
この記述はまさに通りで、私が数学を克服した過程は、まさにこういったものであった。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。