日本人の本質 〜日本人とは何か・その行動原理〜

 

日本人の本質とは何か。

 

それは、皇族に代表されるような徹底的な「血統主義」と、国体の維持、そして庶民ベースで言えば「外国人の排斥」「同調性・同質性の維持」である。

この国の国民は、実は元々、血の気が荒い。戦国時代に、織田信長が統一を志してその流れを作るまで、争いに争っていた。元々は身内で争い合う性質である。この性質は定期的に露呈する。

 

しかし、外来の危機が訪れた時だけ、やたらと団結するのである。

ナショナリズムが煽られ、外来の危機が目前に迫り、大衆の実感としてある時、日本人は病的なムーブメントを起こす。

参政党ムーブメントもそれである。

 

思えば先の大戦も、

外国人がやってきて、国土、女、子供たちを蹂躙されてしまう!

ということが訴えられた。

そして、自国民の高潔性が訴えられた。素晴らしい民族であると。そして行き着くのは皇族であると。皇軍であると。

 

戦争とは、現状の政治体制を維持するための手段である。戦争で何を守りたいか。日本人は国体を守りたいのである。戦争が不可避と見るや、皇族軍人を退けて永野・杉山を軍のトップにするような流れも、結局は皇族保護であり、東條英機も内大臣・木戸幸一が天皇保護のためにアサインした。

さらに、日本人を日本人たらしめているのは、中国である。中国へのわかりやすいアレルギー、ヘイトは、日本人を日本人たらしめている。日本を国家として強調し、天皇を掲げたのは元々は大陸との差別化であった。大陸のお前らとは違う、ということを強調したいが故にはじまった。

律令制が進んだのも、白村江の戦いを得て、中国大陸に危機感を感じたからであった。太平洋戦争も大東亜戦争の流れであった。中国利権で英米らと対立したのであった。

 

日本とは、ガラパゴスである。

移民を入れて生き残るくらいなら自決する。そういう国である。

自分達の血統を守るためには、特効だってする。

これはアメリカを悩ませた。勝てないとわかっていて、死ぬとわかっていて、どうして無駄に死のうとするのか。

それはやはり、外国に負け、蹂躙されて終わるくらいなら、一億玉砕だ、というスタンスである。ちょうど今のスイスが、国土を守るための戦略として、最終的には自爆戦略を取ろうとしているのと似ている。

 

つまり、多民族国家であるアメリカのそれと、全く違う。まるで違う。

 

この「ガラパゴス的本質」はテクノロジーや文化にも現れる。世界標準とは異なる独自路線を歩むことで、独自の進化を遂げるが、同時に孤立や国際的摩擦を生む。スマホ決済や鉄道技術、アニメやゲーム産業など、日本の強みの多くは、まさにこの「内向きかつ徹底した独自進化」の産物である。

だからこそ、日本人は外圧に敏感で、同時に内部では徹底的に自己防衛的である。集団の秩序と血統を守ることこそが、個々人の存在意義にも直結していると無意識に理解している。外来の影響に脆弱に見える一方で、内部の結束力は驚異的に強い。それが、歴史的にも現代社会においても、日本人という民族の本質なのである。

 

普段から、内輪揉めしている。戦っている。そこには八百万の国の原型がある。それは戦国時代まで続いた。

日本は大きいのだ。メルカトル図法のせいで小さく見えるだけだ。地方それぞれの特色がある。だから内輪揉めする。しかしそんな日本人が、外圧がかかったときにやたらと結束する。

だが、この結束は必ずしも合理的な結束ではない。むしろ、感情的・本能的な結束である。外来の脅威や危機に対して、理性ではなく「民族としての生存本能」に従って動く。その典型例が、戦前・戦中の国民総動員体制であり、現代で言えばナショナリズム的ムーブメントや国防議論での過剰反応である。

 

面白いのは、この内向きの摩擦が、外部からの圧力に対して驚異的な団結力を生む温床にもなることだ。内部で培われた微細な序列調整能力、暗黙のルールの遵守、摩擦を回避しつつ主張を通す技術――これらが、外圧がかかったときの瞬間的な結束力に転化するのである。つまり、普段は小さな争いを繰り返すことで、逆に外敵に対する統合力を準備しているような構造になっている。

 

意外と、日本人には二面性がある。

何がしたいか、何を考えているかわからないと思われる。

論理的でない、合理的でないと思われがちだ。

 

外から見ると矛盾しているように見えるが、内部論理としては一貫している。「血統・秩序・国体」を守るためなら、理性や効率よりも感情と本能が優先されるのだ。

 

歴史を振り返ると、日本人同士の内輪揉めは常に社会構造の基本要素として存在してきた。戦国時代の大名同士の抗争を見れば明らかだ。戦国大名は、外敵の脅威に対抗するために同盟を結ぶ一方で、家臣団の内部では権力争いが絶えず起こった。重臣の昇進や領地の割り振り、家族間の嫡子争い――外部から見ると些細な内紛も、内部では生死や生存戦略に直結する重大な問題であった。このような内輪揉めは、家臣団全体の統率や戦力維持の訓練になり、外敵に直面した際の迅速な意思統一の能力を高める効果もあった。

江戸時代になると、戦争の機会は減少したものの、地方藩や町人社会の内部での争いはむしろ増えた。年貢の配分や町内の役割分担、寺社の祭礼運営、職人の徒弟制度など、あらゆる階層で権利と序列を巡る微細な争いが生じた。これらは表面的には「小さな揉め事」に見えるが、根底には「血統・家・地域・秩序の維持」という動機があった。そして、この微細な力関係のやり取りこそが、日本人社会の調整能力を磨き、外圧に対して極めて柔軟かつ統制の取れた反応を可能にしたのである。
現代社会においても、このパターンは変わらない。会社組織の派閥抗争、学会や業界団体内の権力闘争、地域自治会の細かい利害調整――一見無意味に見える争いの裏には、同質性の維持と秩序の確保という本質的動機が潜む。日本人は、内部で細かく戦い、摩擦を生じさせることで、全体としての統合力を温存しているのだ。

興味深いのは、この内輪揉めの頻度や激しさと、外圧に対する団結力の強さが正比例している点である。内部での摩擦や細かい権力闘争が多ければ多いほど、外部からの脅威に直面したとき、個々の立場や序列を一時的に脇に置き、国家や集団のために協調することが可能になる。つまり、普段の内輪揉めは、外圧に対する結束力の「訓練場」として機能しているのである。

この構造は、海外から日本を理解しようとする際に誤解を生む。日本人は表面的には争い続けるが、危機が迫れば驚異的な統合力を見せる――そのギャップは、外部からは矛盾に見える。しかし、日本人社会の内部論理に沿えば、それは極めて合理的な適応であり、血統・秩序・同質性を守るための不可欠な社会戦略なのだ。

 

 

わかりやすいのは、自民党である。

日本は自民党だ。

 

自民というのは一つの党でありながら、連合でもある。

内輪で揉めたり、団結したりする。

 

自民党みたいなのが、日本である。

 

政治の世界では、党内の派閥争いが典型的な例だ。表向きは政策や理念の違いとして説明されるが、実際には権力序列やポストの配分、後援者との利害調整が軸となっている。党内の細かい権力闘争は外部からは醜く見えるが、国際危機や自然災害の際には、派閥を超えて政府全体としての統一行動が可能になる。この柔軟さは、内部での摩擦が日常的に訓練されているからこそだ。

 

経済や企業文化でも同様だ。日本企業の階層的組織、プロジェクト内の派閥、部門間の縄張り争い――一見非効率に見える微細な対立が、危機時には迅速な意思統一の原動力となる。内部で揉めることで、暗黙のルールや力関係が精緻に調整され、外部からの競争や市場変動に対応する準備が整うのだ。また、この内部摩擦は、リスクの分散にも寄与する。誰か一人が失敗しても、全体としての制度や人脈のバランスが機能し続ける仕組みとなっている。

教育の現場も同じ構造が見える。クラス内の序列争いや部活動の上下関係、地域の習い事の派閥など、日常的に小さな衝突や調整が起こる。生徒や子供たちは、その中で「協調しながら自己主張する技術」を学ぶ。これが社会に出たとき、外圧や集団的課題に対して瞬時に連帯行動をとる基礎となる。

このように、日本人は日常的な内輪揉めを通じて、集団の柔軟性と結束力を養っている。内輪揉めがあるからこそ、外圧がかかったときに驚異的な統合力を発揮できるのである。この二重構造――日常的摩擦と危機時統合――こそ、日本社会の特徴であり、日本人の本質を理解する上で避けて通れない要素である。

さらに深く掘り下げると、この構造は現代のグローバル化においても影響を与えている。国際競争や外国人との共存において、日本人は内向きの摩擦を通じて培った「調整能力」を活かすことができる一方、過剰な同質性志向が障壁となることもある。つまり、内輪揉めの文化が外向きの柔軟性と衝突する場面が増えてきているのだ。

 

根回しという言葉がある。

 

また、日本は、

「誰が最終責任者かわからない」

と言われてきた。

 

あの戦争が終わった後、責任を追求する過程で、アメリカ側は困った。

日本にはわかりやすいトップとしての天皇がいるが、一方で天皇が独断で動かしているようにも思えない。

東條が述べたように、「日本国民が陛下の意思に反して・・・ましてや日本の高官言わんをや」と証言した通り、そして戦後、天皇の玉音放送によって武装解除が進んだように、明らかに天皇は特別の扱いを受けている。ところが、意思決定は天皇の前で行う行事的なものであり、実際の実務的な決定は幹部連中が行っている。さらにその連中も、誰が最終責任者なのかわからない・・・。

これが日本的構造である。

日本には昔から、「挨拶しないといけない人が多い」とされる。

 

「挨拶しないといけない人が多い」——この一言は、日本の内輪揉め構造を象徴している。挨拶は単なる礼儀ではない。挨拶の往復は「承認」と「承認の確認」の連鎖であり、人間関係のステータスを逐一再確認する儀式である。誰に挨拶をするか、どの順番で頭を下げるか、会話の冒頭でどの程度へりくだるか──そうした微細な行為を通じて、見えない序列が繰り返し刻み込まれていく。これが「根回し」や「空気を読む」とセットになって、決定の前段階での無数の交渉と調整を生む。
根回しとは要するに「正式な場に出る前の事前承認プロセス」だ。会議での結論は既に出来上がっていて、形式的に合意を確認するだけにすぎない――そんなシーンを日本社会はよく示す。表面的には合意でも、そこに至るまでの裏側では利害や面子、過去の怨嗟が複雑に折り合わされている。だからこそ、表の場では「誰が最終責任者かわからない」という状況になりやすい。形式的な意思決定は「稟議」のような書類や議事録で進められるが、実際に影響力を持つのは形式外で働く人的ネットワークである。

この構造には二つの顔がある。ひとつは「複雑さを吸収する柔軟性」。多様な利害を事前に調整することで、決定後の反発を最小化し、長期的な運営を円滑にする力になる。家族経営から大企業、自治会、政党まで、それぞれが持続的に機能する土台をここで得ている。だがもうひとつは「責任の拡散」と「変化の抵抗」である。責任が誰のものか曖昧なため、失敗を認めにくく、痛みを伴う改革が回避される。責任追及の困難さは、歴史的にも制度的にも何度もアメリカ側の当惑を呼んだ。結果、構造的問題は先延ばしされ、累積していく。

内輪揉めが細密になればなるほど、合意形成のコストは上がる。だが人々はそのコストを支払うことで「面子」と「秩序」を守る。面子(メンツ)の維持は、外圧に対して瞬間的に団結するための燃料にもなる。面子が傷つけば、集団としての誇りが損なわれる。その損失を避けるために、小さな争いは内側で燃やし尽くされる。つまり内輪揉めは、尊厳と連帯感を再確認するための低温火傷のような役割を果たすのだ。

だが現代はその古典的メカニズムに試練を与えている。グローバルな競争とスピードが要求される局面では、遅い合意形成や多層的な根回しは足かせになる。若い世代は「効率」や「個人の裁量」を重視し、古いやり方に反発する。だが同時に、彼ら自身が育ってきた環境の中で無意識に「挨拶」「序列」「空気読む」的な手続きに従ってきたため、変化は容易ではない。結果として、社内での世代間摩擦や、新旧価値観の衝突が新たな「内輪揉め」を生む。

さらに注意すべきは、内輪揉めがしばしば「制度的な抜け穴」を作る点だ。形式上は合意が取れているが、実行力が伴わない「ペーパー上の合意」や、責任を先送りするための回りくどい手続きが温存される。危機対応やイノベーションの現場では、こうしたペーパーワークが致命的な遅延を招く。別の言い方をすれば、日本の内輪揉め文化は「持続性のタネ」を育てつつも、「変革の芽」を刈り取るという相反する作用を同時に持っている。

最後に、内輪揉めの心理面をひとつ付け加えると、それは人間が「属すること」を強く求める社会的本能の発露でもある。誰でも自分の属するグループで優位に立ちたいし、同時に拒否されたくない。内輪揉めはその二律背反を解消するための競技場だ。自分の順位を確認し、仲間の承認を得るための繰り返しが、結果として集団全体の結束を高めることもある。だがこの遊びがエスカレートすると、外部との協働性が損なわれる。
この「挨拶しないといけない人が多い」文化も、内輪揉めと深く関係している。形式的に相手を立てることで、摩擦を先送りし、表面上の秩序を維持する。これは単なる礼儀ではなく、力関係や序列を微細に調整する社会的仕組みなのだ。誰もが自分の立場や顔を守るため、直接衝突を避けながら、自分の影響力を最大化する。この微妙なバランス感覚が、日本人の日常的な内輪揉めの背景にある。

戦国大名の家臣団や江戸の藩士がそうであったように、内部での争いは激しくても、外部からの圧力に対しては一枚岩になれる。この構造は現代企業や政治組織にも引き継がれている。派閥抗争や会議での小競り合いは、表面上の不協和音に見えるが、裏では組織全体の意思統一能力を鍛える「訓練場」として機能している。
つまり、日本人の内輪揉めとは、単なる対立や軋轢ではなく、「内部の調整と外部への統合」を両立させるための社会的メカニズムなのである。この微細な摩擦の繰り返しが、危機時の驚異的な結束力や柔軟性を生む。内部で揉めることで、潜在的な力を蓄え、必要な瞬間に集団としての統合力を発揮できる――それが日本人の独自性であり、本質の一端である。

戦後の日本も、民主化や経済成長の過程で、この文化は形を変えて存続した。企業の終身雇用制度や年功序列、地域の自治会活動、学校教育の集団行動――どれも内部摩擦を孕みつつも、全体の調整力を磨くための装置である。形式やルールが細かく定められるのは、内部摩擦を安全に管理するための仕組みであり、これによって外圧や変化に迅速に対応できる社会が形成される。

根回しや暗黙の了解、序列を重んじる文化も、同じ論理に基づく。表向きは曖昧で回りくどいが、内部論理としては極めて合理的であり、血統・秩序・国体を守るための「予防的摩擦」である。この構造を理解すれば、日本人の行動原理や社会構造の多くが、内輪揉めという日常的摩擦と危機時の統合力によって支えられていることが見えてくる。

要するに、日本人同士の内輪揉めは無意味な争いではない。それは、外圧に対する驚異的な結束力を支える基盤であり、日本社会の独自性を形成する根幹である。内輪揉めの文化があるからこそ、日本人はガラパゴス的独自性を維持しつつ、危機に際しては瞬時に団結できる。これこそが、日本人の本質を理解する上で最も重要な視点である。

 

挨拶とは、権力や序列が不明瞭な中で、相手との距離感を測るための装置である。誰が本当に偉く、誰が最終的な決定権を持つのか、表面からは見えない。だから、相手に敬意を示しつつ、自分の立場を明示するために、日常的に挨拶を繰り返す。
戦国大名の家臣団や江戸時代の藩、現代の企業や政治組織――日本社会のあらゆる場面で、この「誰が偉いのかわからない」構造は共通している。表面的には役職や肩書きがあるが、実際の影響力は日常の細かい調整や人間関係に左右される。だからこそ、日本人は常に微妙な力関係を読み取り、礼儀や挨拶という形で安全策を取る。

この不明瞭さは、内部摩擦を増やす原因でもある。誰が本当に決定権を持つのか分からないため、個々人は自分の意見を通すために駆け引きを行い、派閥や暗黙の序列が形成される。挨拶は、その序列を確認する最初のステップに過ぎない。
要するに、日本人の挨拶文化は、「血統・秩序・同質性」を守るための社会適応であり、内部摩擦と外圧への結束力を両立させる仕組みの一部である。日常の小さな挨拶や礼儀の積み重ねが、危機に際して驚異的な統合力を生む土台になっているのだ。

 

なぜ日本では、誰が偉いのかが不明瞭なのか。

それは、日本人の社会構造が 権力や序列を形式だけで固定せず、状況や人間関係によって流動的に変化させる 文化を持っているからである。戦国時代の大名や家臣団を思い出せば分かる。表面上の家格や役職はあったが、実際に力を持つ者は戦場や政治、家内の派閥によって変動した。勝者が交代すれば序列も変わる。江戸時代になっても藩や町人社会では、名目上の役職よりも、日々の利害関係や人間関係の駆け引きが重視された。

つまり、日本では 権威は固定的なものではなく、暗黙のルールや力関係の読み合いによって決まる のだ。誰が本当に意思決定権を持つかは外から見ても分かりにくい。だから、挨拶や礼儀、根回しといった形式的な行動が増える。これは、単なる礼儀ではなく、暗黙の序列を確認し、安全に行動するための社会的セーフティである。

さらに、この不明瞭さは 内部摩擦を促す仕組み でもある。権力が明確でないため、各自が微妙な駆け引きを行い、自分の意見や利害を通そうとする。結果として日常的に小さな争いや調整が発生する。これが内輪揉めの源泉であり、同時に外圧に直面したときの結束力の温床となる。

要するに、日本人社会の「誰が偉いのかわからない」状態は、文化的な流動性と人間関係の調整能力を両立させるための必然的な構造なのである。

 

結論として、日本は権力を形式上は象徴的に集中させつつ、実際には分散させる「二重構造」を長く維持した国と言える。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。