昭和・平成・令和の社会学 「時代が違う」とは具体的に何か。ジェネレーションギャップの言語化。

 

あなたは普段から、こんなことを思っていないだろうか。

 

  • 若いZ世代とのコミュニケーションが取れない
  • ゆとり世代、氷河期世代のオジサン・オバサンの感覚がよくわからない
  • ジェネレーションギャップの根幹に何があるかがうまく掴めない
  • 時代を捉え損ねて転落する愚を犯したくない

 

帝国とされたジャニーズが、ガーシーのyoutubeチャンネルリークをきっかけに、BBC、SNSと飛び火し、

残る王国である吉本のトップである松本人志が性加害疑惑の文春砲で揺れている。

 

もう、芸人といえども、昭和のやり方は通用しなくなった

 

と言われる昨今、具体的に「時代が違う」とは一体どういうことかを捉えてみたい。

 

 

時代が違うとは一体何か。

ジェネレーションギャップとは一体何か。

 

 

テクノロジーイノベーションが人々の生活にどう浸透して、結果として文化・ライフスタイルをどう変えて、そして人々の社会行動と意識がどう変わったのか。

これが鍵である。

大まかにいうと、まだ社会経験・人生経験が浅い10代の頃は何かに染まりやすく、20代、30代・・・となると、時代の変化に追従はするもののベースが若い頃の経験に依るために変化しづらい。

一方で、若い世代ほど、「変わった世の中」をベースにして、物差しを作り生きていく。よって若い世代が社会の中心になるほど、加速度的に世の中は変わる。

 

 

新しいものが、ティーンエイジャーにほぼ100%で浸透すると、10年後それは常識となる。

なぜなら彼らが20代となるからだ。

 

 

では、新しいものとは何か。

昭和・平成・令和の社会は何が変えたか。

 

 

そのキーワードは、

「匿名性」

「コミュニティ近接性・限定性」

にあると言えよう。

 

結論から言うと、こういうことになる。

 

昭和 平成 令和
匿名性 ×
コミュニティ近接性・限定性 × ×

 

 

令和には、匿名性とコミュニティ近接・限定性が無いのである。

 

 

 

極端な話、昭和の時代は、レイプをしても監視カメラなどの証拠が残っていなければ逃げ切ることが可能だった。

レイプとまではいかなくても、ぎりぎりその手前まで攻めることができた。

 

女性を妊娠させて、逃げて、音信不通になる

 

といった事案は氷河期世代、ぎりぎりゆとり世代までは割とあった話なのである。

 

 

ほぼレイプまがいで妊娠させられた女性が、1人で子供を育てるという事案も少なからずあった。

あるいは同意ではあったものの、男の側が音信不通になることがあった。

今の若い世代には考えられないが、氷河期世代は学生時代にケータイ電話が無かったのである。ポータブルに持ち運べる連絡デバイスを持たない10代を送っている。これが今の大学生世代の親世代である。

 

 

しかし、今はどうだろう。

誰もがスマートフォンという手のひら高性能コンピュータがある。

ということは、場面場面において、簡単に盗撮・録音をして証拠を残すことが可能であり、それ以前のメッセンジャーのやりとりも残る。場合によっては位置情報も探ることが可能だ。あらゆる間接証拠と物的証拠をかき集めて、そういった事件を刑事化しやすくなった。

 

 

 

令和を生きる世代と、

昭和世代の決定的な違いは何か。

それは、令和世代は全てがオープンである、ということだ。

 

学生の頃から、遊び感覚で、制服姿で自分の顔と肢体を晒す。これには個人的な特定性がある。でもそれが容易にできる。

一方で、昭和世代からするとその感覚は「恐ろしいもの」に感じる。芸能人などの一部セレブリティを除けば「あり得ない行為」なのだ。

 

その中間にある平成世代は、

ひろゆきがリードした2ch文化

等によって、「匿名性」は守られながらも、人々がインターネットを通して広く繋がるようになった。

しかしながらそれでも、「出会い系アプリ」などは殺人事件・犯罪の温床というイメージであった。運営会社も怪しいものばかりだった。サクラのバイトも多かった。完全にグレーだった。

 

令和において、出会い系アプリは、経歴が綺麗なエリートが立ち上げたビジネスとなっており、サイバーエージェントなどのメガベンチャーも手がけている。例えばタップルなんかはサイバーのビジネスだ。

そして現在、結婚したカップルの出会った経路1位はなんと、マッチングアプリになっている。実に隔世の感がある。

 

 

 

令和は、オープンである。隠せない。そして、相互監視性がある。しかも、今住んでいるところに限定されず、ネット空間を通じて、ポータブルに全てが繋がる。晒される。

昭和は、ローカルで閉鎖的なのである。

 

昭和 ← → 令和

 

昭和の芸人が女遊びをしようと思えば、

高級ホテルの広い部屋を借りて、そこに女を連れ込み、

携帯・スマホを取り上げて、証拠が残らないようにして、

酒任せに襲う。

 

しかし、令和の遊び方は違う。

セックスをしていることを、撮影して、オープンにする。

こうして、うってインフルエンサーとして人気を集める。

容姿を見て、人気を見て、信頼し、DMでコンタクトを撮って、性行為に及ぶ。

乱交だってそうだ。

 

こうして、何もかもをオープンにして、同好の士を集めるのである。

 

また、場合によってはカップルですらも、カップルで性行為を撮影し、これをpornhubに投稿して集客し、onlyfunなどで有料課金したりして金を稼いでいたりする。

 

セックスは隠すものではない。

クローズドに行うものではない。

 

ナンパ行為なども、顔を晒して、オープンにやっている人間が多いのが令和の特徴である。

 

 

昭和世代、

平成世代までは、

「隠された」

「クローズドな」

「限定の」

「特別な」

というものが好きである。

 

一方で、明らかに令和の世を育ってきた人種は、

「オープンな」

ものが好きである。

だから、プライベートなカップルのやり取りも、全部オープンにしたいのである。

 

「全てをオープンにする者たちが、全てを手に入れていく」というのを小さい頃から見せつけられているからである。

金も、名誉も、時間も、賞賛も、愛も、何もかもをオープンにしている人たちが手に入れていく。

自分達がやろうとすればお金がかかる美容治療も、インフルエンサーなら案件として、あるいはインフルエンサー割引で手に入る。

そして、TGCに呼ばれたり、テレビに呼ばれたりしてスターダムを駆け上がる。

 

 

 

若い世代に、

  • 百貨店
  • 高級ホテルのクローズド空間
  • ラグジュアリーカー

などがあまりウケないのには理由がある。

これらも実は、断続された時空間に関係する価値、プレミアムだからである。

 

 

 

インターネットに対する、各世代の認識は大まかに分けるとこうなる。

 

昭和:ネットはネット、ネットで稼ぐとかネットで出会うとかよくわからない

平成:パラレルワールド、匿名空間

令和:オフラインとの境目が無い、オープンな世界(現実の延長)

 

 

  • 表と裏の顔を使い分ける
  • オフィシャルとノンオフィシャルがある
  • スイッチのオンオフがある
  • 電話

がZ世代が苦手なのは理由がある。

昭和・平成までは、

「全てがつながりオンオフがない世界」

という感覚がなかった。

 

あちこちが断絶され、クローズドな空間が点在していた。

 

令和は違うのである。

インスタ、tiktok、LINE、配信、YouTube、チャットアプリ、あらゆるものが溢れる中で、全てが繋がる。

何か裏で悪いことをしようとしても、すぐに拡散される。

 

だから、

圧倒的にZ世代は上の世代と比べると品行方正

である。

「隠れて悪いことができる」「裏で変な遊びができる」とは思ってない。

彼らは、相互監視の息苦しさを当たり前として生きてきた。

 

 

実際に、インターネットに登録フォームなどを設けると、

昭和世代ほど「ふざけた名前」「偽名」で登録しようとするのに対して

(ただし、エリートは違う。エリートや優秀な家系で育ってきた人、お金持ちの家系は違う。千代田区の家の表札を見たらフルネームであることが多いように、上流やエリートはそういうことがない)

若い世代ほどきちんと登録しようとする。

 

これはインターネットに対する意識の違いである。

 

令和世代は、「隠れる場所などない」ということがわかっている。だから、インターネットで過剰に誹謗中傷されると自殺してしまう。

一方で、平成世代、昭和世代は、「ネットは所詮ネット」という意識があるので、ネットで叩かれてもある程度平気だと思っている。

 

 

 

  • 表と裏の顔を使い分ける
  • コミュニティや空間の断続性を意識する

というスタンスがないからこそ、若い世代はある意味で、

「表裏がない」

と言える。

 

だから、上司の飲み会に付き合わない。電話もしたくない。

上司に異様に媚を売ったりしない。

その代わり、スイッチを切り替えて表裏の顔を使い分けない。

要するに素直で品行方正、フラットなのである。

 

 

 

平成や昭和を生きた人間には、

 

  • ちょっと無理してスイッチを入れる
  • オンオフ切り替える
  • プライベートモード、プライベート空間を切り分ける

 

といったものがある程度、ナチュラルに装備されている。

 

 

 

「匿名性」

「コミュニティ近接性・限定性」

 

は、昭和・平成・令和の違いを、テクノロジーとそれがもたらした社会文化、ライフスタイルについて包括的に説明できる概念である。

 

みんなに知れ渡っているような大企業ならまだしも、

そうじゃない会社・社長となると、

綺麗な(業者感漂う)コーポレートサイトを作って綺麗事並べた代表挨拶をしてる会社・社長より、

人間味全開で、

こんなん大丈夫か?

と昭和世代・平成世代が心配するような会社・社長の方が、若い世代が惹かれてしまうという側面もなきにしもあらずである。

 

 

そしてその裏返しとして、

昭和、平成世代は、

なんとなく、パブリックでセレブリティな人たちには、

「裏の顔がある」と感じていた。

 

だから、著名人のスキャンダルネタの雑誌、コンテンツは割と人気があった。

それは、表に出る人たちが、「綺麗」「建前」を演じるからだ。

オンオフがあるからだ。

 

しかし、令和の時代は違う。

誰もがポータブルデバイスを持っている。

自分メディアを持っている。

 

自分のプライベートをさらせる。

お部屋を映したり、ナイトルーティンを見せることができる。

 

「隠されると見たくなる」のが人間の性、カリギュラ効果であるが、

オープンにされると追求する気が失せる。

 

令和の世の中で人気のインフルエンサーは、負の側面も含めて、いろいろ暴露されてしまっている人が多い。でもそれでいいのである。

一方で昭和・平成までのスターは、表と裏の顔が違っており、それが興味をそそり、暴露されると地に落ちることが多かった。ベッキーなんかは代表例である。

 

あまりにもオンオフがつけられないフワちゃんみたいなやばい人間もいるが、オンオフがない、というのが若い世代にいけばいくほど見られる特徴である。彼らはオンを入れる、仕事モードに入る、そういうものが希薄である。

 

 

覚えているだろうか?

YouTubeが生まれるまでは、

マスメディアに出ているレベルの著名人が、

ナイトルーティン的なもの、日々の暮らし的なものを

公にすることなどほとんどなかった。

テレビの企画以外、あり得なかった。

 

芸能人やパブリックタレントは、身近さを出す時代に変わっていった。

 

 

一方で、

昭和の価値観に浸ってきたタレントたちは、

いまだに芸能人とは

「雲の上の存在」

という感覚を持っていると思う。

だが、今、若い世代から支持されるタレントというのは違うのだ。ある意味で普通であること、親近感があることが求められる。

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。