20歳という年齢を再考する 「20歳の自分にするアドバイス」は貴方は何?

冷静に考えてみた。

20歳というのは、20年生きた証だと思う。つまり、20年という時間を使ってしまっている。20歳、ではなくて20年、で考える必要がある。20年という時間を生きたのだ。

企業社会が18、20そこらでの学業成績で人をふるいわけるのはなぜだろう?

これはきっと、

20年生きてきた貴方がそれだから、この先20年もそれで判断できますよね

ということが含意されている。

当然、希望や野心に溢れた20歳の私には、そんな判断軸なんて頭の中には一切無かった。

そして、そんな話は知らない方が良い。そうやって判断する人間がいるということが、モチベーションを下げてしまう。

20歳ぐらいは、猪突猛進で何かに狂信的であってほしい。「自分の人生はここからめちゃくちゃ化ける!!」なんて信じまくっていてほしい。それがバイタリティに転換される限りにおいてはプラスでしか無いと思うからだ。

・・・・・ま、そうやって息巻いていた、たいていの野心家は燃えカスになってるけど。

 

 

20年は時間としては随分長い。会社で1つのプロジェクトのタイムスケールが20年とかであれば相当大掛かりであることがわかる。本来はもっと短い時間スパンであくせく活動することになる。少なくとも個人に単位で降ってくるタスクとしては。

だから、20歳というのはそういう歳だ。

そういう年齢だ。

「20年生きてきて、人生運びをしてきた今の貴方と今の貴方に至るまで」を見せてください、ということ。自己分析しろとか、自分の生い立ちを遡れとか、そういうこと。そして、少なくともその題材としての自分で、他と比べられてしまう。いくらでも人がいるこの世界で、比較検討されてしまう。埋没してしまう。アイデンティティクライシスと、将来に対する理想の高さ&希望と、他より突出したいという気持ちの歪んだ発露によって、気持ち悪くなることもある。それが一周回って、自分に不利に働くこともある。

「これまでの20年間を踏まえて、そこから考えられないほど将来化ける可能性」

「これまでの20年間で他を凌駕する何かがあった人が、今後も将来的に輝く可能性」

のどちらに賭けるのが割が良い賭けなのだろうか・・・という視点。もちろん、他人なんかに自分が評価されなくても、自分で自分という人間を計る上で一つの指標にはなる。

 

 

これまでの20年に悔いは無く、うまくいっているという自負があって、その先もその延長を期待したい・・・・というのであれば、そのまま頑張れば良い。そして、こういう人たちは往々にして、それほど人生に悩まない。進路にも悩まない。内定っていう言葉があるけれど、この世界にはいろんな内定がある。例えば、レアル・マドリードに渡った久保くんなんかは6歳とか8歳ぐらいからいろんな人に「君、人生内定だね!」って思われ続けてきていたに違いない。

問題は、確信が無い人たちだ。

そういう内定が無い人たち。

・・・・・いや、むしろブラックコースへの内定が決まってしまっているという人たち。なんとなくレールが見えてしまっていて、その先行きも見えてしまうという人たち。

 

 

過去の自分は、未来の自分からのアドバイスを死ぬほど欲した。未来の自分は、今の自分にどんなことを言ってくれるのだろう?と凄く知りたかった。

ただ、残念なことに、時を進めた先に人間が思う心情というのは意外なほどに情けない。「若い頃は良かった」である。歳を重ねた分賢くなるけれど、その代償に失ったものも出てくる。

未来の自分のアドバイスなんて、

若さを活かして頭から突っ込んで、もがけ!!

なーんて、拍子抜けするような内容かもしれないね。

でも、それを「拍子抜け」だと思ってしまうのは、その時々の視点でしか物事を捉えられていないからだ。こうして、アドバイスの類というのは、発した側が相手のためを思って発したのにも関わらず、受け手側には物足りなく映り、霧消して消えていく。このやりとりに生産性が無かったかのように終わる。

島田紳助がNSCのセミナーで、若さが買えるのなら全財産出すという話をしていたけれど、それほどにまで若さとは尊い。どう尊いのだろう。エネルギーとか、体力とか、野心とか、とにかくそういうパワーじみたものだ。

 

 

・・・・・・・でも、1つ、思うことがある。

例えば、現状の鬱積した状況の打破を求めて、新しい環境に移ったとする。もしそれで、いきなり好転するようであれば、逆にそれは危険じゃないのかと思う。

結局、それはサーフィンのようなもので、新しい波を求めて次から次へと移動する人生になる。それでいいよ、って人は良いのかもしれない。でも、サーフィンもしんどいし、サーフィンのセンスが無いと、必ず上がり下がりあるんだ。

大人になって頭角を現すやつ。そういう人たちは、何か1つのことを粘り抜いた人間が多い。もちろん、それで高く跳べるだなんて甘いことは言わない。ただ、何かしらの積み重ねがある。

卑近な範囲で、突き抜けていく奴らを見てるとそうなんだ。

大好きなマルセルプルーストの言葉がある。

The real voyage of discovery consists not in seeking new landscapes, but in having new eyes.

人が環境を変えたいと思うのは、結局、環境を変えることを契機として自分の中にあるものを変えたいのだと思う。外的なものはきっかけに過ぎない。

 

 

ハッキリ言って、全ては自己変革の議論に行き着くと思う。不思議な話だけれど、だからこそ未成熟な知識や考えでも不屈のモチベーションが起こるのならそれは絶対的に善だし、生産的なモチベーションが起こらないのであれば正しい知識であったとしてもそれは要らないのかもしれない。そして、内面の改革が果たせるのなら自分の外部を取り巻くものをガラッと変えるのも価値ありだ。

大好きなコーヒー屋のおじさんの話がある。

そのおじさんは、どこにもない至極の1杯を提供していた。

そして、現状に行き詰まった若者に対して、「未知」という言葉を授けたんだ。

言葉のプレゼントだ。

なんと配慮のあるプレゼントだろうか。無知だと傷つけてしまうし、意味が歪んで受け止められてしまう。だから「未知」だね。つまり、君はまだやり尽くしていないだろう、と。まだ知らないだろうと。まだ探求できるだろう、と。

 

 

旅や服や化粧品が若者の心を捉えて離さないのは、訳がある。でも、いずれ気付いていく。

なんかそういうことじゃない気がする

ってね。

 

だから逆に言えば、そういうもので高揚感が得られるうちは、たっぷりやっておいた方が良い。

それで感動できるなら。

それで喜べるなら。

そういうことをたっぷりやっておけば良い。

 

若いうちに。

 

飽きてくるからね。

 

物理的・外的な旅から、「心の旅」へと物語がシフトしていくことになる。

新しい世界の探求が、生産性や社会性を伴うものであれば、お金もついてくる。もしそれが、自らのリスクテイクのもとに展開されたものであれば、いずれ時間の余裕だってついてくる。すると、本当に自分の生きる世界は拡大していく。

そろそろ、まとめよう。

 

 

死ぬ気でやれ。

Work like hell.

 

死ぬ気でやるがいい。というか、むしろ、死ね。死んでしまえ。そのぐらいでやれ。そして、気付くだろう。「人間案外、そんな簡単に死なない」って。そして、その死ぬ気で突き抜けた自分に巡ってくる数々のチャンスによって、後からどんどん楽になる。プラスのスパイラル・サイクルによって押し上げられていく。人生がトルネード上昇していく。

3回ぐらい、倒れてしまえば良いんだ。

 

そしてきっと、この言葉を聞いた20歳の私は、安堵して「やっぱりね」って思うだろう。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男


47都道府県・天下統一達成




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お仕事は、無職ですが人より課税されています。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。