J-POPは、どのような「私」を歌ってきたのか。J-POPから見る現代文化史  西園寺帝大文学部による、音楽史・音楽トレンド

J-POPは、どのような「私」を歌ってきたのか。globe、浜崎あゆみ、嵐、そして「かわいい」の時代

この変遷を音楽そのものから読むなら、中心にあるのは、感情との距離の取り方が変わったことだと思う。自分の悲しみを限界まで張り上げる。誰かと声を重ねて安心する。感情の割り切れなさを細かく描く。あるいは、かわいいキャラクターや大げさな冗談を演じながら、自分を肯定する。同じ恋愛や孤独を扱っていても、歌が聴き手に経験させることは違う。

ここで区別したいのは、歌詞を書いた人、歌っている人、歌の中で話している人物の三者だ。浜崎あゆみの歌の「私」を、すべて本人の告白と決めることはできない。アイドルが歌う架空の「私」にも、聴き手にとっての切実さはある。文学で小説家と語り手を区別するのと同じで、この区別をすると、「昔は本物の感情があって、今は作り物になった」という説明を超えられる。

以下は、代表的な作品の声、旋律、リズム、語り方を比較した感性史の仮説である。日本人全体の心理がこの順番に変わったと実証するものではないが、が感じている時代の切れ目は、かなり具体的に説明できる。

まず、globe以前にも、歌の「私」には複数のあり方があった。 1970〜80年代まで遡ると、それがよく分かる。

荒井由実の「海を見ていた午後」では、場所や眺めや飲み物が、過去の関係を保存している。悲しいという感情を直接大きくするより、風景を見せることで、聴き手の中に悲しみを生じさせる。感情が、私の胸の内だけでなく、外界の具体物に宿っている。

中島みゆきの「悪女」では、表面の振る舞いと本心の関係が問題になる。語り手が何をしているかと、なぜそうしているかが一致しない。聴き手は、行動の背後にある感情を読むことになる。ここでは、歌を聴くことに、短編小説の人物を理解するような働きがある。

一方、アイドル歌謡では、声の甘さ、語尾、息の混ぜ方、少しためらうような間などによって、歌の中の人物が作られる。歌詞だけを読んでも分からない性格が、歌唱によって立ち上がる。かわいらしさも、単なる外見の属性ではなく、声と振る舞いで成立する表現だった。

つまり、昔から、告白する歌、風景に感情を託す歌、人物を演じる歌は並存していた。そのなかで1990年代半ば以降、非常に大きな存在感を持ったのが、個人の感情を、巨大な音響の中で鳴らす形式だった。

globeの音楽は、祝祭と孤独が同時に成立している。 ここが、単に「景気のよい時代の派手な音楽」として片づけられないところだ。

「DEPARTURES」を考えると、伴奏には反復する電子的な運動がある。一方で、KEIKOの声は張り詰め、高いところへ伸びていく。伴奏は一定の時間を刻み続けるのに、声はその時間の中で、別れや距離に耐えようとする。globe「DEPARTURES」公式音源

身体を動かす音と、心を引き止める感情が同居している。だから、踊れる音楽なのに寂しい。大勢がいる場所でも、一人でいる感じがする。機械的に進む世界と、その中でどうにか感情を保とうとする身体が、同時に聞こえるとも読める。

「FACES PLACES」まで含めると、KEIKOのハイトーンは、うまさの証明だけでは説明しにくい。普通に話す声では収まらない感情が、高い音域を必要としているように聞こえる。高音が、感情の非常事態を作る。

ここで大切なのは、曲の内容を要約するだけでは、この効果を捉えられないことだ。同じ別れの歌詞を、静かなギターと低い声で歌えば、別の作品になる。globeでは、巨大な空間を満たすほどの音と、それでも埋まらない孤独の落差が、感情の大きさを生んでいる。

奇しくも、時代としてはオウム真理教、幸福の科学など新興宗教台頭の時期と被っている。

当時のglobe(そして小室哲哉氏の楽曲)は、バブルが崩壊したにもかかわらず「経済大国」としてのシステムや過剰な消費文化だけが回り続けていた日本社会と、そこに取り残された個人の孤独や寂しさをリアルタイムに表現していた。

1990年代半ばの日本は、バブルが弾けたとはいえ、世界的な経済大国としての余韻のなかにあり、街には高層ビルが立ち並び、携帯電話(ポケベル)が普及し始め、夜もネオンが輝いていた。しかし、globeのデビュー曲『Feel Like dance』や、ミリオンセラーとなった『DEPARTURES』『Can’t Stop Fallin’ in Love』などの歌詞を振り返ると、描かれているのはきらびやかな世界ではなく、「都会の雑踏の中の圧倒的な孤独」。

  • 「お金やモノ、情報はあるのに、心がつながれない」
  • 「冷たい街のなかで、誰かに見つけてほしい、置いていかれたくない」
こうした「システムについていけない人たちの寂しさ」が、多くの若者の共感を呼んだ。
当時、オウム真理教にのめり込んだ信者の中には、名門大学を卒業したエリートや、物質的な豊かさに疑問を持った若者たちが多く含まれていた。彼らもまた、「経済大国・日本」のシステムや価値観に馴染めず、強烈な精神的寂しさを抱えていた人たち。
彼らが「カルト(宗教)」に救いを求めたのと同時期に、多くの若者は小室哲哉の音楽という「シェルター(避難所)」に駆け込み、その寂しさを癒やしていたとも言える。globeの音楽は、崩壊していく社会のなかで、傷ついた個人がなんとか自我を保つための精神的安定剤のような役割を果たしていた。
globeのサウンドは、当時の最先端のデジタルビート(トランスやテクノ、ジャングルなど)で作られていた。それはまさに「高度に発達したテクノロジー社会・経済大国」の象徴のような音。しかし、その無機質なデジタルサウンドに乗せられたKEIKOのボーカルとメロディは、驚くほど哀愁を帯びていて、どこか泣いているように聞こえた。この「冷たいデジタル(社会)」と「エモーショナルな孤独(個人)」のギャップこそが、当時の日本の空気感そのものだった。

浜崎あゆみは、この巨大さを、傷ついた「私」の物語へ引き寄せた。

デビュー当時の浜崎あゆみは、メディアのバラエティ番組などでは明るく振る舞う「普通の可愛い女の子(あるいは少しおバカなギャル風)」として映ることも。

しかし、1998年12月に放送された特番『浜崎あゆみのオールナイトニッポン』は、事前の宣伝でも「浜崎あゆみはバカじゃない」というキャッチコピーが打たれるほど、彼女の内面に焦点を当てたもの。

この番組や1stアルバム『A Song for ××』の歌詞を通じて、リスナーは衝撃を受ける。
  • 幼少期に父親が失踪し、母子家庭で育った孤独
  • 若くして単身で上京し、芸能界の底辺で味わった挫折
  • 「居場所がない」というリアルな痛みの吐露
これを機に、単なる「作られたアイドル」ではなく、「自分たちと同じ痛みを抱え、それを言葉にできる表現者」として認知が一変した。

 

「A Song for ××」の居場所のなさ、「SEASONS」の時間が過ぎていく感覚、「M」の他者を求める切実さ。そこでは、非常に個人的に感じられる言葉が、同時に、多くの聴き手が自分の経験を重ねられる抽象度を持っている。具体的な一人の人生を説明しすぎないから、聴き手の人生が入り込める。

そして、その言葉を壮大な伴奏が支える。小さく、私的で、ともすれば人に話すのをためらう苦しみが、サビで大きく響く。聴き手は、自分の悩みもこれほど大きく歌われてよいのだ、という経験をする。

少しハスキーがかった声も、この関係で考えると重要だ。時期による違いはあるが、浜崎の声に聞こえるざらつきや切迫は、きらびやかな音や姿に完全には回収されない。外側が華やかであるほど、声に残る脆さが際立つ。誰より華やかな人が、自分と同じように居場所を求めているという落差が、作品世界の吸引力になる。浜崎あゆみ「SEASONS」公式MV

この意味では、浜崎はすでに自己肯定の歌手だった。ただし、その肯定には、傷ついた経緯や孤独を共有する道筋があった。苦しみを語り、それでも存在してよいというところへ向かう。いまの「かわいい」をめぐる歌と比べると、肯定に至る手続きが違うのである。

では、その感性は、いつ飽きられたのか。切れ目は一度ではない。

浜崎が当時の「ギャルたち」になぜそこまで刺さったのか。ここには1990年代末〜2000年代初頭の強烈な時代性が関係している。

① 「絶望」が当たり前になった社会

1995年のオウム真理教事件や阪神・淡路大震災、そして1997年の大型金融機関の相次ぐ破綻を経て、日本社会は「もうこの国は右肩上がりには戻らない」という冷めた諦念(あきらめ)に包まれていた。大人たちの社会(学校や会社、家族というシステム)を信じても救われないことが決定的になった時代。

② ギャルにとっての「渋谷」=唯一の避難所

大人たちのシステムに背を向けた少女たちは、ミニスカートに厚底ブーツ、茶髪という武装をして「渋谷(センター街や109)」に集まった。世間からは「おバカ」「非行」と冷ややかな目で見られていた彼女たち、その実態は「家にも学校にも居場所がないから、渋谷で仲間とつながることでなんとか孤独を埋めている」という、きわめて繊細で寂しさを抱えた存在。

③ 「教祖」ではなく「代弁者」としての浜崎あゆみ

それまでの小室ファミリー(安室奈美恵など)は、「あんな風になりたい」という憧れの対象(=神、カリスマ)。対して浜崎あゆみは、「あゆは私の心を歌っている」という共感の対象。彼女が書く歌詞は、「居場所がなかった」「誰も信じられなかった」という、当時のギャルたちが親や教師に言えなかった本音そのもの。彼女たちの心の叫びを、最先端のきらびやかなビートに乗せて全国に届けてくれたのが「あゆ」だった。

 

globeの時代(1995年頃)は、まだ「システム(経済大国)についていけない寂しさ」という、どこか社会に対する未練や戸惑いがあった。オウム真理教に属する人たちも新しいシステムや組織を求めていた。
しかし、浜崎あゆみの時代(1999年以降)になると、若者たちは「システムは最初から壊れている。だから、壊れた世界の中で自分はどうやって生きていくか」という、より個人的で切実な生存戦略へとシフトしていた。「あゆ」のファッションを完璧に真似して(白肌ギャル、盛り髪、ネイルなど)自己主張することは、システムに埋没せず、「私はここにいる」と証明するための必死の抵抗でもあった。

また1998年前後、小室的な音楽の存在感が相対化される。宇多田ヒカル、MISIA、椎名林檎、aikoらによって、感情を音にする別の方法が強く現れた。ただし、その後に浜崎の最盛期が来ている。宇多田の台頭と浜崎の全盛は重なるので、「宇多田が現れた瞬間にavexの時代が終わった」という年表にはならない。日本ゴールドディスク大賞でも、第14回の宇多田、第15回の浜崎という並びが確認できる。第14回第15回

 

一方で、同時期に彗星のように現れた宇多田ヒカルは浜崎あゆみの完全に逆をいくものであった。

宇多田ヒカルのバックグラウンドは、当時の日本の若者から見れば異次元のもの。母親は伝説の演歌歌手・藤圭子、父親は音楽プロデューサーの宇多田照實。幼少期からニューヨークと東京を行き来し、アメリカの最先端のスタジオで大人たちに囲まれて育った、文字通りの音楽的サラブレッド
弱冠15歳でデビュー。当時としては異例の「作詞・作曲をすべて自分で手がけるティーンエイジャー」であり、その英語と日本語を自由に行き来するライミング(韻の踏み方)や、J-POPの常識を覆すR&Bのリズム感は、日本の音楽界の大人たちを絶句させた。
いつまでも「女を捨てない」放任主義の福岡のギャル家庭で育ち、10代の頃から六本木のクラブに出入りしていたようなある種非行じみた浜崎あゆみとはまるで違う。

まさに、コントラスト。

未来から来た宇宙人のよう。

 

浜崎あゆみは「居場所がない」「どうしてあきらめるの」と、痛みをファンと分かち合い、手を繋ぎ合って生き残ろうとする、ウェットで共感型の孤独を歌う。

宇多田ヒカルはデビュー曲『Automatic』や『Movin’ on without you』を聴けば分かる通り、15歳とは思えないほど「自立した大人のクールさ」。寂しさや恋愛の揺らぎすらも、どこか客観的にコントロールしているような、ドライで洗練された佇まいがあった。

 

1999年当時の日本は、バブル崩壊の暗い影を引きずり、西暦2000年を前に「世紀末の閉塞感」に満ちていた。そこに登場した宇多田ヒカルの存在は、日本という狭いシステムに閉じこもっていた若者たちに、「世界水準の音楽」という圧倒的な風穴を開けた。彼女の登場によって、日本のポップミュージックは一気にアップデートされる。「暗い日本社会に絶望している場合じゃない、世界には、未来にはこんなにかっこいい音楽と可能性があるんだ」という、ポジティブな意味でのグローバル化への希望を抱かせたのが、宇多田ヒカルという光。

 

そしてこの頃から、「外資系企業」の台頭も目立つようになり、戦後にあったアメリカに対する憧れとはまた別種の憧れが生まれる。

1980年代まで、日本のサラリーマンや学生にとって、日本の大企業(銀行、自動車、家電メーカーなど)こそが世界最強であり、「終身雇用」というシステムに守られていることが最大のステータスだった。実際、日本は世界最強の地位にあった。

しかし、1997年の山一證券の破綻などを機に、「日本型システムはもう絶対ではない」ことが証明されてしまう。そこに登場したのが、金融・コンサル・ITを中心とした「外資系企業」ゴールドマン・サックス、マッキンゼー、そしてマイクロソフトやYahoo!、Amazonといった新興のIT企業(ドットコム企業)が、日本市場で圧倒的な存在感を放ち始める。

 

戦後のアメリカへの憧れは、ジーンズやロック、車といった「豊かで自由なライフスタイル(文化)」への憧れ、しかし、この時期に生まれた外資系への憧れは、もっと「ドライで、合理的で、圧倒的に強い生存システム」への憧れ。
  • 実力主義・成果主義:年齢に関係なく、能力があれば20代で数千万円を稼げるという、日本型シニアリティ(年功序列)を破壊するスピード感。
  • 「個」としてのキャリア:会社に依存せず、自分のスキルで生き抜くプロフェッショナルな姿勢。
  • グローバル・スタンダード:英語を使いこなし、世界水準のロジックで仕事をするスマートさ。
これは、まさに当時の若者が、日本の古い大人たちのシステム(終身雇用や年功序列)に辟拝していたからこそ、強烈に魅力的に映った。

勝間和代の「カツマー本」ブームもその流れの先にある。2000年代は、「会計・英語・IT」が三種の神器と言われるようになるし、何よりホリエモンが大暴れするようになった時代。

 

音楽的に見ると、宇多田の「Automatic」が開いたのは、サビの頂点へ到達することに加え、言葉が拍の上を動いていくこと自体を楽しむ聴き方だった。言葉を少し先取りする、ためる、息を残す、アクセントをずらす。日本語の意味と、発音が作るリズムが、互いに刺激し合う。声は大きな感情を運ぶだけでなく、その細かな動きによって感情を作る。宇多田ヒカル「Automatic」公式MV

MISIAも高音を使う。したがって、高い声そのものが飽きられたとは言えない。音を伸ばし、揺らし、一つの音節に複数の音を乗せる歌い方によって、感情が身体の伸縮として聞こえる。高音の役割が、まっすぐ切迫を示すことから、声のしなやかな運動を聴かせることへも広がった。

椎名林檎では、声の歪み、芝居がかった発声、日常会話からは浮き上がる語彙が、「私」を作る。「丸ノ内サディスティック」のような曲では、語り手を素直な告白者として受け取るだけでは足りない。気取っていること、演じていること、危うさまで含めて、人物の魅力になる。

aikoでは、身近な言葉や身体感覚から始まりながら、旋律が簡単には落ち着かない。親しみやすさの中に、恋愛の落ち着かなさが入っている。

こうして、感情を表すための出口が増えた。巨大なサビ、声の細かな揺れ、芝居、日常の身体感覚。それぞれが違う「私」を可能にした。

「飽きる」という現象も、作品の質が落ちることだけでは説明できない。 ある表現が繰り返されると、最初は発見だったものが、様式として聞こえ始める。

張り詰めた声が出てくる。孤独が語られる。伴奏が膨らむ。サビで感情が大きく開かれる。この流れを聴き手が予測できるようになると、ある人には安心になり、別の人には定型になる。同じ音が、親しみと退屈の両方を生む。

だから、全員が一斉に飽きる日があるわけではない。既存の聴き手にとっての大切な様式が、次の世代には、すでに完成していて自分の入る余地が少ない世界として聞こえることがある。新しい歌手は、より大きく叫ぶことでなく、これまで歌になっていなかった細部を見つけることで、新鮮さを獲得できる。

 

2000年代半ばには、ORANGE RANGE、ケツメイシ、コブクロ、レミオロメンなど、異なる男性の声や、日常・季節・関係の場面を共有する歌が存在感を増す。一方で、安室奈美恵はリズムやダンスの洗練へ、倖田來未はより前面に出た身体性へ進む。avex的と一括されていた美学も、内部で分かれていた。

これは一言で言えば、「張り詰めた孤独の時代」が終わり、傷ついた若者たちが「身近な半径5メートルの日常と絆(つながり)」に救いと安らぎを求めた時代へのシフト。

オレンジレンジは沖縄の地元のツレ。ケツメイシも八王子のツレ。

彼らの「等身大の佇まい」というのがウケた
  • ORANGE RANGE:沖縄の地元の同級生ノリ。
  • ケツメイシ:R30の、ちょっと情けなくて優しいお兄さんたち。
  • コブクロ:ストリート(街角)から出てきた、飾らない凸凹コンビ。
  • レミオロメン:山梨の幼馴染3人組。

彼らは誰も「教祖」や「天才」として君臨しようとはせず、「俺たちも君らと同じ普通の一人だよ」というスタンスで現れた。これが、張り詰めていた若者たちの心を一気に緩めた。

ソロシンガーの歌が「1対1の対話」だとすれば、複数の男声が織りなす音楽は、聴き手にとって「男友達のあたたかいコミュニティに、自分も混ぜてもらっている」ような疑似的な安心感をもたらした。外資系の台頭などで「個の実力」が叫ばれる殺伐とした社会の中で、彼らの音楽は「仲間っていいよね」という安心できるシェルターになった。

いわば、ゲゼルシャフトからゲマインシャフトへの逃避。

したがって時期としては、1998年前後に単独の標準でなくなり、2000年代を通じて中心が複数へ移ったと捉えるのがよい。浜崎が飽きられた特定の一年を探すより、浜崎的な「私」が若者全体を代表する度合いを失っていく過程として見る方が、音楽の変化を説明しやすい。

彼らが歌ったのは、世界やシステムといった大きな話ではなく、「日本の四季」や「何気ない日常の1コマ」。ケツメイシ『さくら』、レミオロメン『粉雪』『3月9日』:誰もが経験する日本の美しい季節の移り変わりと、そこにある別れや出会い。ORANGE RANGE『花』、コブクロ『ここにしか咲かない花』:目の前にいる大切な人との関係性や、今いる場所の尊さ。

バブル崩壊後の暗い平成を生き抜き、劇的な社会の変化(IT化や外資の台頭)を経験した日本の若者たちは、「大層な未来なんてなくても、毎年変わらずにやってくる桜や雪、そして隣にいる友達や恋人を大切にできれば、それだけで人生は十分に幸せじゃないか」という境地に達した。

90年代半ば(globe)の「社会への戸惑い」、90年代末(あゆ・宇多田)の「個の自立と戦い」を経て、2000年代半ばのJ-POPは「日常の愛おしさの再発見」へと着地。

これは、日本が「経済大国」としての過剰なプライドや幻想を完全に手放し、「成熟した(あるいは少し縮小した)社会のなかで、地に足をつけて優しく生きる」という新しい幸福論を、若者たちが自ら見出した瞬間だった。この2000年代半ばの「日常・絆・季節」のブームは、当時テレビドラマ(『1リットルの涙』など)や映画(『いま、会いにゆきます』など)のヒットとも強く連動。

リーマンショック、アキバ、通り魔、年越し派遣村

2000年代半ばまでは、まだ「日常のささやかな幸せ」を信じる余裕があった。しかしリーマン・ショックは、「派遣切り」や「年越し派遣村」に象徴されるように、若者たちから「普通の日常を維持する基盤」さえも容赦なく奪い去った。

「ただ待っていても、桜や雪をのんびり愛でるような平穏な日常はやってこない」という過酷な現実が突きつけられた。

この時期、非正規雇用を苦にした社会的な事件も起こる。

こうした閉塞感の底にいた2009年、AKB48は『言い訳Maybe』や『RIVER』で大ブレイクを果たし、同年に初の「選抜総選挙」を開催。彼女たちのシステムは、当時の社会心理と完璧にシンクロしていた。

結婚できない・子供もいない。でも秋葉原に行けば、追いかけられるアイドルがいる。

就職難や将来への不安で傷ついた人々にとって、秋葉原の劇場や握手会は、確実に出迎えてくれる「絶対に裏切らない居場所」。リーマン後の社会は、実力主義や格差がよりシビアになった時代。AKB48は、少女たちが順位を競い合って生存をかける「サバイバル」をあえて可視化し、それをファンが「CD(投票券)を買う」という経済行為で直接救い出す構造。

俺たち以上に可哀想だ、必死だ、応援しなきゃ、俺も元気もらえる

という構図が生まれた。

ファン同士が社会の肩書を捨てて「〇〇推し」として団結する姿は、かつてのギャルが渋谷に集まったのと同じ、あるいはそれ以上に強固な「過酷な社会を生き抜くための新しい村(共同体)」。

2010年代の嵐・AKB・LDHは、感性のうえでは三つの違う世界だった。

さらに2011年、東日本大震災が発生。リーマン後の経済不安に加えて「物理的な日常の崩壊」を経験した日本社会は、さらなる精神的パニックに。

まさにその通りです。東日本大震災の直後、日本社会がかつてないほどの暗闇と不安に包まれるなかで、人々が切実に求めたのは「分断や孤立」ではなく「圧倒的な一体感と、誰も傷つけない絶対的な明るさ」。

この時期、AKB48、嵐、そしてEXILEをはじめとするLDHという3大勢力がエンタメ界の頂点を極めたのは、彼らがそれぞれ異なるアプローチで「国民的セーフティネット(心の安全基地)」の役割を果たしたから。

震災後の日本は、テレビからACジャパンのCMが流れ続け、自粛ムードと緊張感に満ちていました。そんな中、の存在は日本中の「癒やし」そのもの。

  • メンバー同士がとにかく仲が良く、誰も誰も否定しない「幸福な関係性」。
  • Love so sweet』や『Happiness』、そして震災後に改めて象徴的な意味を持った『ふるさと』。
  • トゲがなく、子どもからおじいちゃんおばあちゃんまで、日本中が安心して同じ笑顔になれる「実家のようなあたたかさ」を日本社会に提供し、国民的アイドルとしての地位を不動のものに。
リーマンショック後に作られたAKB48の強固な共同体システムは、震災後に「日本を元気づける最大のインフラ」へと昇華。
  • 震災直後の2011年5月にリリースされた『Everyday、カチューシャ』や、その後の『フライングゲット』は、理屈抜きに血が沸き立つような明るさとエネルギーに満ちていた。
  • 彼女たちは「誰かのために」プロジェクトを立ち上げ、毎月のように被災地を訪問。ミニステージで歌い踊る彼女たちの姿は、「がんばろう日本」というスローガンを最も泥臭く、しかし最も健気に体現
嵐が「寄り添う優しさ」だとすれば、EXILEを中心とするLDHは、力強く日本を引っ張る「体育会系の熱い絆」
  • 2011年9月に発表された東日本大震災復興支援チャリティソング『Rising Sun』は、まさに「日はまた昇る」というメッセージをダイレクトに届ける、力強いダンスアンセム。
  • 大人数で一糸乱れぬパフォーマンスを見せる彼らの姿は、「バラバラにならず、みんなで力を合わせて困難を乗り越えよう」という、当時の日本が最も必要としていた集団の結束力そのものを視覚的に表現。

 

東日本大震災で暗い気持ちになった世の中で、ある意味、AKB、嵐、LDHという、シンプルで明るく万人ウケが流行り、国民的一体感を求めた。

90年代の宇多田ヒカルや椎名林檎のような「洗練された個の世界観」や、J-POPが持っていた「ひねりや複雑な文学性」は、この時期のJ-POPの「ド真ん中」からは一時的に一歩引くことに。
なぜなら、「明日どうなるか分からない」という本物の危機のなかでは、複雑なメッセージは脳が拒絶してしまうから。人々が求めたのは、
  • イントロを聴いただけで一瞬で明るくなれるメロディ
  • 誰もが一緒に踊れるダンス(AKBの振付、LDHのChoo Choo TRAINなど)
  • 「みんなで一つになろう」というストレートな言葉
この3大勢力は、音楽性こそ違えど、どれも「大人数で、チームワークが良く、ポジティブ」という共通点を持っていた。この2011年前後、音楽はアートや個人の趣味嗜好を超えて、日本という国全体の「精神的なインフラ(復興のためのエネルギー)」として機能していたと言える。

 

嵐の強さを、「明るく爽やかな歌が強かった」と説明するだけでは足りない。「Love so sweet」「Happiness」「One Love」の親密さがあり、「truth」「Monster」の暗さや劇性があり、「復活LOVE」の大人びた恋愛もある。一つのグループが、かなり広い感情の領域を引き受けていた。

そのうえで、ソロの歌い継ぎや複数の声の重なりが、異なる曲を「嵐の歌」としてまとめる。歌詞に一人称があっても、それを複数の歌い手が受け持つため、特定個人の告白を聞く場合とは違う親密さが生じる。聴き手は、ある一人の傷の内部へ入るだけでなく、この人たちがこちらに向けて歌ってくれるという関係を受け取れる。

浜崎的な作品で前面に出やすい、孤独な個人同士の共感に対して、嵐では、複数の声が作る安定した関係に包まれる経験が可能になる。もちろん全曲がそうではないが、この違いは、前向きな歌詞かどうかという分類より深い。

音楽がすべて同じだったというより、多様な音楽が同じグループの人格へ帰属したため、時代の顔が変わらないように感じられた。 これは音楽的な多様性と、表現者の多様性が一致しないという問題だ。ただし、嵐の強さが他の音楽の衰退を引き起こしたという因果関係まで、作品比較からは言えない。

AKBの「恋するフォーチュンクッキー」は、また違う。自信のなさや恋愛の不確かさが、共同で踊れる軽さに置かれる。悩みを解決してから踊るのでなく、踊ることによって悩みとの距離が変わる。公式にも80年代ディスコ調の作品として説明されている。AKB48公式MV

LDH側でも、「Ti Amo」の成人の親密さと、「R.Y.U.S.E.I.」の身体的な高揚は違う。前者では声の近さや抑制が関係の濃さを作り、後者では反復するビートと身体の同期が、興奮を実際に起こす。歌が感情を説明する度合いと、身体に感情を発生させる度合いが違うのである。

さらに、欅坂46の「サイレントマジョリティー」のように、一斉に歌い踊る形式で、同調への抵抗を歌う作品もある。集団の中で個人を主張するという矛盾そのものが、作品の緊張を生んでいる。

こうした違いを「アイドル・ダンスグループの時代」でまとめると、音楽史として重要な部分が消えてしまう。

「暗黒期」という感覚は、何を音楽の価値とするかを映している。

もし求めているのが、固有の声を持った人物が、簡単には共有しきれない内面を差し出してくる経験なら、親密さや共同の高揚を中心にした時期は、物足りなく感じられる。その意味で、暗黒期という感覚には、美的な理由がある。

一方、その時期にも、西野カナ、サカナクション、back number、星野源、RADWIMPSなどが、それぞれ異なる感情の形式を作っていた。音楽そのものが停止していたという評価にはできない。

 

ここには、ヨーロッパ史にたとえたくなる理由もある。後の時代が自分たちの美学を「復興」と呼ぶとき、その前の時代は、停滞や暗黒として描かれやすい。しかし、何が復興したのかを問うと、音楽一般ではなく、自分が価値を置く種類の音楽が、再び目立つ場所へ来たということがある。

 

米津・あいみょん・髭男・King Gnuの登場は、確かに一つの節目になっている。ただし、四組は同じ復興運動ではない。

そしてルネサンスがやってくる。

 

歴史上で中世が「暗黒時代(蒙昧の時代)」と呼ばれるのは、個人の自由な思考や複雑な科学・哲学が抑圧され、すべてが宗教的なドグマ(教義)に回収されたから。
2010年代初頭のJ-POPも、ある種の「蒙昧」に自ら飛び込んでいったと言える。音楽の芸術性や複雑な文学性は「わかりやすさ」「みんなで踊れること」「ストレートな元気」という大きな教義の前に、一時的に封じ込められた。しかしそれは、決して悪いことではなかった。なぜなら、社会全体が本当に暗闇に突き落とされたとき、人間が生き延びるために必要だったのは、高度な哲学ではなく、「私たちは一つである」という盲目的でシンプルな救済(信仰)だった

この「大きな物語(共同体)に包まれることで救われた中世」を経て、社会が少しずつ平穏を取り戻すと、人間は再び「個」に目覚め、ルネサンス(文芸復興)を迎える。日本のポップカルチャーにおける「ルネサンス」、つまり2010年代後半からの米津玄師、星野源、藤井風、King Gnuなどの登場(再び個の知性と複雑な音楽性が主役に躍り出る時代)への流れ。

クリエイティブを楽しむ余裕が帰ってきた。

2012年末から始まった「アベノミクス」による緩やかな経済の回復と株高は、震災後の張り詰めた日本社会に大きな「心理的ゆとり(=軍資金と心の余裕)」をもたらした。

アベノミクスによる景気回復と、2015年頃からの「サブスクリプション(Apple MusicやSpotifyなど)の解禁」が重なったことで、若者たちの音楽との付き合い方がガラリと変わる。

  • 安価で無限の音楽にアクセスできるようになり、人々は「みんなと同じもの」を義務的に追う必要がなくなった。
  • 浮いたお金や心の余裕は、フェスへの参加、こだわりのグッズ購入、あるいは「ちょっと尖った格好いいカルチャー」を能動的にディグる(深掘りする)楽しさへと投資されるように。
盲目的な一体感(キリスト教)の時代が終わり、再び「自分の頭で考え、洗練されたものを愛でる(ギリシャ哲学)」の時代が戻ってきた。ここで登場したのが、圧倒的なクリエイティビティを持つソロアーティストやバンドたち。
  • 星野源(『恋』など)
    イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)直系の細部まで計算され尽くしたブラックミュージックの構造を、お茶の間のポップスに昇華。
  • 米津玄師(『Lemon』など)
    インターネット(ボカロ文化)という孤独な実験室から現れ、人間の「死」や「傷」を極めて文学的かつ美しいメロディで描き、国民的ヒットを記録。
  • King Gnu / Official髭男dism
    東京藝術大学出身の確かな技術や、ブラックミュージックの複雑なコード進行を武器に、J-POPの「音楽的知性」を一気に底上げ。
彼らは大人数で同じダンスを踊る協調性を求めない。聴き手は、それぞれのイヤホンの中で、彼らの「複雑で、一筋縄ではいかないクリエイティビティ」と1対1で対峙し、それを知的に楽しむ余裕を取り戻した。

 

実際、2019年のBillboard JAPAN年間総合チャートは、1位「Lemon」、2位「マリーゴールド」、3位「Pretender」、4位「白日」だった。

「Lemon」は、失った相手を、きれいに過去へ片づけられない歌として読める。旋律は広く届く形を持ちながら、歌の感情は、教訓や前向きな決意にすべて回収されない。歌い終わった後も、喪失が残る。

「マリーゴールド」は違う。風景や身体感覚を伴う親密さを、親しみやすい歌の輪郭へ戻す。古くからある歌の手触りが、当時の音楽の中で新鮮に響いた。ここでは、新しさが必ずしも音響の複雑化を意味しない。失われかけていた距離の近さを、もう一度発見することも新しさになる。

「Pretender」は、理解と感情の不一致が核にある。関係が成立しないことを理解していても、感情はその理解に従わない。整理された説明と、それを超えて伸びる歌声のあいだに、未練が生まれる。聴き手は、言葉の結論だけでなく、結論に収まらない声を聴く。

「白日」では、悔恨ややり直しへの欲望が、声の質感と密度の変化に乗る。冒頭の繊細さと、曲が進むにつれて迫ってくる声や演奏の厚みの違いが、平静ではいられない人物を作る。ここでも高音は重要で、KEIKOから続く、高い声でしか届かない切迫の系譜が残っている。

四組の共通点を無理に「暗い」「歌がうまい」「本音を歌う」に揃える必要はない。むしろ、喪失を抱える、風景へ戻る、理解と未練のずれを歌う、悔恨を声の運動にするという、異なる美学が同時に中心へ来たことが重要だ。ひとつの王朝が復活したというより、中心が複数に開かれたのである。

 

アベノミクス期は、訪日外国人(インバウンド)の急増や、2020年(当時)の東京オリンピック開催決定など、日本が再び「世界(グローバル)」をポジティブに意識し始めた時期でもある。

2020年代の「かわいい」は、この歴史の中で読むと、かなり複雑な表現になる。

2020年代は、コロナの到来で幕をあける。

ベノミクスと「音楽のルネサンス(米津玄師・星野源・King Gnuら)」の幸福な余韻の先に待っていたのは、2020年からの「コロナ禍」、そして現在(2020年代半ば)へと続く「SNS・タイパ(タイムパフォーマンス)・個人主義」が極限まで進んだ時代。

歴史のサイクルで例えるなら、せっかく始まったルネサンス(文芸復興)が、突然のパンデミックとデジタル技術の暴走によって、「個々人がスマホの画面という個室に引きこもり、独自の神(推し)を祀る、超・分散型の市民社会」へと変貌を遂げた。

アベノミクス期に盛り上がっていた音楽フェスやライブ、インバウンドといった「リアルな場での文化の共有」が一瞬で禁止。人々は物理的に孤立し、再び「スマホの画面」だけが世界との唯一の窓口に。ここで爆発したのが、YOASOBI(『夜に駆ける』)、Ado(『うっせぇわ』)、藤井風、Vaundyといった、「ネット発・宅録(ベッドルーム)発の天才たち」彼らは大きなレーベルやテレビの力に頼らず、TikTokやYouTubeのアルゴリズムに乗って、孤立した人々のスマホのイヤホンへダイレクトに届き、ルネサンス期の「個のクリエイティビティ」をさらに極限まで進化させた。
スマホとSNS(特にTikTokやYouTubeショートなどの縦型短尺動画)が生活のすべてになったことで、若者たちのマインドは「1秒も退屈したくない(タイパの追求)」という強迫観念に支配されるように。音楽は「じっくり鑑賞する芸術」から、「SNSで自分を表現するためのBGM(素材)」へと変化。そのための材料が流行るようになる。SNS発の流行がミュージックシーンを占拠。

 

謎に「香水」が流行る。

ドルチェ&ガッバーナのその香水のせいだよ〜

 

まず、「可愛くてごめん」と「かわいいだけじゃだめですか?」は、同じ自己肯定の歌として処理しない方がよい。題名の文法から、すでに他人との関係が違う。

HoneyWorksの「可愛くてごめん」は、もともと「ちゅーたん」という登場人物のキャラクターソングである。2022年の公式告知でも、その対応が明記されている。歌の一人称を、そのまま歌手の自己評価として読むと、出発点からずれる。HoneyWorks公式告知

この題名は謝罪の形をしているが、自分のかわいさを撤回していない。むしろ、非難されるかもしれないことを先に引き受け、その非難を無力化するように働く。謝りながら、相手の審判に従わない。

音楽的にも、かわいらしい声や弾む調子と、言葉が行っている強い自己主張とのあいだにずれがある。甘い音で、かなり強いことを言う。その二重性が面白いのであって、ただ「自信を持とう」というメッセージに還元すると、作品の鋭さが消える。

浜崎的な歌が、傷ついた経緯を差し出して共感を作るとすれば、この曲では、自分を裁こうとする他人に対して、先に立場を取ることができる。理解してもらうことを待たずに、自分の好きなものと、自分のあり方を守る人物を演じられる。

一方、CUTIE STREETの「かわいいだけじゃだめですか?」は疑問形だ。かわいいという評価を、自分の中だけで完結させず、観客に差し出す。問いかけは、返事を求める。かわいさは、描写される性質であると同時に、その場で一緒に成立させる行為になる。CUTIE STREET公式MV

ここで効くのは、旋律と台詞の往復、短い言葉の反復、甘さをはっきり示す発声だ。歌い手は感情を遠くから説明しているだけではなく、観客へ直接働きかける。聴き手も、その人物をかわいいと認める役に置かれる。

「可愛くてごめん」が想定上の批判者への反撃なら、「かわいいだけじゃだめですか?」は、観客を巻き込む承認の舞台だ。前者には対抗性があり、後者には共演性がある。

だから、これらを聴いて「現代人は自己肯定感が高くなった」と結論することもできない。肯定を歌うことは、肯定が十分にある証拠とは限らないし、逆に、すべてを自信のなさの裏返しにしても、歌の主体性を奪ってしまう。作品が可能にしているのは、肯定された人物の声を、自分でも使ってみることだ。

M!LKの「おちゃらけ」は、本気と冗談を同時に成立させる。

「イイじゃん」では、滑らかな旋律を歌う部分と、短い言葉を反復して押し出す部分の落差が大きい。前者は声の流れに乗って感情を運び、後者は掛け声を共有することで高揚を起こす。曲の中で、歌を聴く態度から、一緒に騒ぐ態度へと切り替えられる。M!LK「イイじゃん」公式MV

ここには、感情を一つの頂点へ積み上げる劇的な歌とは違う快楽がある。流れの途中に別のテンションが割り込み、その落差自体が楽しい。歌唱の上手さだけでなく、声色や態度を切り替える演技の上手さも重要になる。

「好きすぎて滅!」のような極端な誇張も同じだ。感情を大げさにすることで、愛を直球で言い切れる一方、それを文字どおりの告白として受け取る必要もなくなる。本気としても、芝居としても楽しめる。

この両義性は、感情を冷笑して消してしまうこととは違う。冗談の形式があるから強く言える場合もあるし、本気かどうかを確定せず遊ぶこと自体が楽しい場合もある。演技は、本心を隠すものにも、本心を表すものにもなれる。

また、M!LKは2015年のデビュー曲がすでに「コーヒーが飲めません」だった。コミカルな人物像は、最近突然付け加わったものではない。前から存在した表現の系譜が、いま強く響いている面がある。M!LK公式プロフィール

(下積みが長く、爆発に時間差があったのも注目すべき)

この歴史をさらに遡れば、コミックソング、アイドルの台詞入り楽曲、アニメのキャラクターソングなどにも接続できる。2020年代の新しさは、ふざけることを発明した点にあるわけではない。ふざけ方の中に、自己主張、愛情、かわいさ、仲間との高揚をどう同居させたかにある。

ここで見えてくるのは、「真剣な音楽から軽薄な音楽へ」という一直線の変化より、真剣さの表し方が増えた歴史だ。

KEIKOの声では、限界に迫る張り詰め方が、感情を切実にする。浜崎では、華やかさと傷の落差が切実さを作る。宇多田では、拍と声の細かな関係に、感情の手触りが宿る。嵐では、複数の声が作る親密さが、感情を安心して受け取れるものにする。いまのかわいい歌やM!LKでは、役を演じることや誇張することが、感情を外へ出す道になる。

文学や演劇との接続点もここにある。内面を告白する人物、行動の裏に本心を隠す人物、観客に語りかける人物、自分が演じていることを承知している人物。それぞれ、読者や観客との関係が違う。ポップスでは、その違いが文章に加えて、声、リズム、編曲によって作られる。

ただし、古い形式は消えない。2025年の年間総合チャートでも、「かわいいだけじゃだめですか?」と並んで、Mrs. GREEN APPLE、米津玄師、サカナクションなど、異なる美学の作品が上位にある。自己肯定や遊戯だけが時代を覆っているわけではない。2025年年間総合チャート

Mrs. GREEN APPLEの大きな歌唱や劇的な展開には、感情を壮大に引き受ける系譜が生きている。YOASOBIの「アイドル」では、かわいい声、攻撃性、外から見られる人物像、内側の言葉が一曲の中で切り替わる。後者は、かわいさが単純さを意味しないことの、分かりやすい例でもある。YOASOBI「アイドル」公式MV

ヨーロッパの文化史に似て見えるのは、新しい表現が現れるたびに、何を自然と感じ、何をわざとらしいと感じるかが変わるからだろう。ある時代に本音の響きだった絶叫が、別の時代には定型に聞こえる。かつて軽薄に見えた演技が、後の時代には、人間の複雑さを表せる方法として聞こえる。

ただし、これは古典主義、ロマン主義、近代主義などを日本の年代へ順番に貼り付ければ説明できる話ではない。J-POPの中では、告白、様式美、身体的な高揚、演技、皮肉が、常に重なっている。変わるのは、それらのどの組み合わせが、その時点で新鮮な「私」を作れるかである。

「国民的一体感」ではなく「個としてエンパワー(力づけ)される」繋がり方

フジテレビがお台場で暴れて、音楽がかけあわさり、国民的一体感が生まれる。みんな月9を茶の間で待つ。同じ夢をみる。

そんなものはない時代。

お台場がもうオワコンな2020年代後半。

2011年のAKB48や嵐の時代は、「みんなで同じひとつの村(共同体)に入って安心する」というキリスト教的な一体感。しかし、HANAのファン(あるいは現代のリスナー)の繋がり方は違う。

彼女たちの音楽を聴く若者たちは、「みんなと同じだから安心する」のではなく、「自分らしく、自分のままで生きていていいんだ」と、個室のスマホの中で1人ひとりが強くエンパワーメントされている。その個として自立したファン同士が、SNSや現場で「緩やかに、しかし深くリスペクトし合って繋がる」という、きわめて現代的なハイブリッドな共同体の形を作っている。

そして、HANAのメンバーチョイスに「ルッキズムからの解放」の精神が現れている。これはコロナの閉塞感の反動を捉え、R&Bやブラックミュージックをベースにした複雑でグルーヴィーな音楽性は、タイパ重視のファストな音楽に少し飽き始めていたリスナーの耳に、「これだよ、これが聴きたかったんだ」という知的でエモーショナルな解放感をもたらす。

彼女たちはルッキズム(外見至上主義)や「作られたアイドルの型」にノーを突きつける。

彼女たちのブレイクは、日本社会が長い混迷を経て、単に景気の良し悪しや災厄に振り回されるのではなく、「個の多様性と本物のクリエイティビティを心から祝福する」という、真の意味での大人の成熟した文化(ルネサンスの深化)を迎えた証拠なのかもしれません。

Mrs. GREEN APPLE(ミセス)こそは、その「スマホの檻に引きこもる超・細分化社会(2020年代)」にあって、唯一、全世代を繋ぎ止めることに成功した、現在の日本の「真の国民的モンスター」

フロントマン・大森元貴氏が作り出す楽曲は、ハイスピードで転調を繰り返し、人間の限界に近い高音域を叩き出す、非常に緻密で高難度な構造。

これは「タイパ(タイムパフォーマンス)」を求める若者の脳を一瞬でバグらせ、満足させる「超高密度なクリエイティビティ」であり、今の時代のリスナーの知性を最も刺激する存在として機能。

転調・ドパガキ・ミセス。

ミセスの最大の特徴は、サウンドがとびきりキャッチーでカラフル(時に過剰なほどポップ)であるにもかかわらず、歌われている歌詞の核心が「現代特有の、生きづらさや孤独、 lag(置いていかれる感覚)」。

2025年〜2026年現在のミセス(『ライラック』や最新アルバムなど)は、「SNSで他人のキラキラした生活と比較され、自意識に潰されそうになりながら、スマホの画面を見つめて孤独を抱える若者」の胸の痛みをそのまま歌っている。「現実はこんなに泥臭くて苦しいけれど、それでも進んでいこう」という“大人の楽観主義(ポジティブ・シンキング)”を提示しているからこそ、現代の孤独な個人の心に深く突き刺さる。

ミセスは、ビジュアルやスタンスも含めて今の時代性とシンクロ。彼らは従来の「泥臭い硬派なロックバンド」の枠を軽々と飛び越え、メイクを施し、アンドロジナス(両性具有的)で華やかな世界観を構築しています。近年では音楽に留まらず、バラエティ番組のホストや俳優業などマルチな活躍を見せている。これは、「ひとつの枠組みに縛られず、自分の個性を自由に解放して生きる」という、現代の多様性(ダイバーシティ)のロールモデルそのもの。

 

最後に、音楽そのものに即してこの読みを確かめるなら、次の聴き比べが有効だ。

聴き比べる作品 耳を向けたい違い
globe「DEPARTURES」/King Gnu「白日」 高音がどう切迫を作るか。声を張ること、声質を切り替えること、伴奏の厚みの変化
浜崎あゆみ「SEASONS」/あいみょん「マリーゴールド」 過ぎる時間や親密さを、抽象的な言葉と具体的な風景でどう歌い分けるか
AKB48「恋するフォーチュンクッキー」/CUTIE STREET「かわいいだけじゃだめですか?」 一緒に踊ることと、歌い手へ応答することが、それぞれどんな関係を作るか
中島みゆき「悪女」/HoneyWorks「可愛くてごめん」 人物を演じることが、本心を隠す方向と、自分の立場を押し出す方向でどう違うか
Official髭男dism「Pretender」/M!LK「好きすぎて滅!」 感情を抑えても残ってしまう歌と、感情を誇張して言い切る歌の違い

この比較で問うべきなのは、悲しい曲か明るい曲かだけではない。その声は誰に向けられているか。感情を説明しているのか、音で経験させているのか。歌い手と聴き手は、告白者と理解者なのか、仲間なのか、共演者なのか。

  • 1995年(オウム・globe):システムから取り残された個人の寂しさ
  • 1999年(あゆ・宇多田):壊れた世界を「個」として生きる生存戦略
  • 2005年(ORANGE RANGE等):社会を忘れ、半径5メートルの日常を愛でる
  • 2011年(AKB・嵐・1D):未曾有の災厄から逃れるための「圧倒的一体感(救済)」
  • 2018年(米津・星野・King Gnu):経済の回復がもたらした「クリエイティブのルネサンス」
  • 2020年代(コロナ以降〜現在):スマホの檻に引きこもり、独自の刺激と推しを消費する「超・細分化社会」

globeや浜崎から現在までの大きな変化は、この関係の変化として読める。かつて強く響いたのは、自分では言えないほど大きな感情を、歌手が引き受けてくれる経験だった。いま存在感を増しているのは、歌の中のかわいさや強さや滑稽さを、自分も一時的に演じられる経験だ。どちらにも切実さはある。その切実さを、声のどこに置き、聴き手へどう渡すかが変わっている。


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。