火葬中にも、売上は立つ。

午後2時17分、火葬炉の赤いランプが点灯した。

その3分後、死んだ男に2,980円の売上が立った。

生前に作ったExcelのテンプレートが、検索から売れたのである。決済システムはカードから代金を引き、サーバーは購入者へファイルを送り、登録済みの文章が「ご購入ありがとうございます」と礼を言った。

本人はいま骨になっている。

しかし販売ページは、そのことを知らない。

死亡届は役所には届くが、Stripeには届かない。

同じころ、火葬場の休憩室では、一人の職員が紙コップのコーヒーを飲んでいた。彼は遺族を案内し、棺を運び、炉の温度を確認し、骨を箸で拾う準備をしている。

生きている彼には、時給が発生している。

死んでいる男には、売上が発生している。

今日、この建物の中では、生きている人間が経費で、死んでいる人間が売上だった。

妙な話だ。

人間は、金は努力に対して支払われると思っている。

汗をかいたから。長時間働いたから。難しい資格を取ったから。誰かの役に立ったから。

だが、骨になった男は一滴も汗をかいていない。

その瞬間、彼は誰の役にも立とうとしていない。そもそも立てない。それでも2,980円は動いた。

ここで一度、映画の撮影現場へ行こう。

売れない若手俳優が、低予算のホラー映画に出演する。

朝から血糊を塗られ、森の中を走らされ、チェーンソーを持った殺人鬼に追いかけられる。監督が納得しないので、同じ場所で十七回殺される。

俳優は一日分の出演料を受け取る。

八千円かもしれない。二万円かもしれない。

撮影が終われば、彼の仕事も終わる。

しかし映画は終わらない。

映画館で上映される。配信サイトに並ぶ。海外へ売られる。続編の宣伝に使われる。十年後、「知る人ぞ知るカルト作品」として再発見される。

画面の中で俳優は、何度でも殺される。

だが、何度殺されても出演料は増えない。

彼は演技を売ったのではない。

自分の演技が将来コピーされるたびに発生する金を、一日分の金額で手放したのである。

一方、映画を所有している側は、撮影が終わってから稼ぎ始める。

ここが、労働と所有の境目だ。

労働者は、一度働いて、一度払われる。

所有者は、誰かが一度働いたものを、何度も請求書に変える。

会社員も同じである。

あなたが作った営業資料から一億円の契約が生まれても、何も生まれなくても、翌月の給料はほとんど変わらない。

これは会社があなたを不当に扱っているからではない。

給料日に、すでに取引が完了しているからだ。

会社はあなたから八時間を買っているのではない。

その八時間から将来発生するかもしれない結果について、あなたが請求する権利を買い取っている。

給料とは、労働の対価ではない。

成果の所有権を放棄するための買い取り価格である。

社員は、失敗したプロジェクトの損失を自腹で補填しなくていい。その代わり、成功したプロジェクトの利益も自分のものにはならない。

会社が損失を引き受けている。

だから会社が利益も引き受ける。

安定とは、下振れしないことだけではない。

上振れもしないことだ。

毎月一定額の給料をもらうとは、まだ抽選されていない宝くじを、結果を見る前に会社へ固定価格で売ることである。

労働者は賭けを避けているのではない。

自分が持っている賭けの権利を、毎月売っている。

それでも人は言う。

「正当に評価されたい」

おそらく半分は本当だ。

しかし、もう半分では、正確に評価されることを恐れている。

自分が作った商品を自分で売れば、売れなかったという事実が、そのまま自分へ戻ってくる。企画が悪かった。文章が弱かった。顧客を理解していなかった。自分が思っていたほど価値を作れなかった。

会社員なら、上司のせいにできる。

会社のブランドが弱い。部署が悪い。景気が悪い。経営陣に見る目がない。

給料は生活を安定させるだけではない。

自己評価も安定させる。

市場から毎日、「お前の仕事は今日は0円だった」と直接言われずに済む。

つまり、人が所有を避ける本当の理由は、金を失うのが怖いからだけではない。

自分の可能性が、現実の数字によって確定してしまうのが怖いのである。

未確定の自分は、いつまでも有能でいられる。

本気を出していない自分には、まだ可能性が残っている。

だから、時間を売る。

結果ではなく時間を売れば、自分の本当の値段を見なくて済むからだ。

ここで「課金」の意味も変わる。

英語を学ぶ。資格を取る。高性能なパソコンを買う。MBAへ行く。人脈を作る。コンサルタントを雇う。

もちろん必要だ。

ハイレイヤーの労働者ですら、自分へ課金している。

しかし、課金には二種類ある。

一つは、自分の身体の販売価格を上げる課金。

もう一つは、自分の身体から収入を切り離す課金だ。

年収一千万円の能力を身につけても、その能力が自分の頭と手足の中にしか存在しないなら、止まった瞬間に収入も止まる。

高価な労働者にはなった。

だが、まだ労働者である。

英語力も、営業力も、プログラミング能力も、それだけでは身体に貼り付いている。病気になれば止まる。眠れば止まる。死ねば消える。

能力を高めるだけでは、脱出できない。

能力を、商品、コード、著作権、顧客リスト、販売導線、ブランド、持分、組織、反復可能な仕組みに変換しなければならない。

一度働いたものが、自分の不在中にも複製される形に変わったとき、労働は初めて身体から剥がれる。

だから、金持ちが資本家になるのではない。資本家になった人間が、あとから金持ちになる。

資本とは札束ではない。

過去に行った仕事が、未来にも請求書を発行し続ける構造だ。

金を持っているだけなら、まだ何も起きていない。

その金を知識へ変え、能力へ変え、人脈へ変え、商品へ変え、集客経路へ変え、自分が席を立ったあとにも残るものへ変える。

お金持ちになれない人は、その順番を飛ばして、結果だけを買おうとする。

時計、車、ホテル、服。

それらは金を使った証拠にはなるが、金が身体から離れた証拠にはならない。

資本主義における階級は、年収で決まらない。

自分が消えたあと、何が残るかで決まる。

出勤しなければ消える年収三千万円と、眠っている間にも複製される月三万円。

現在の金額だけを見れば、前者のほうが圧倒的に大きい。

しかし、ゲーム上の位置が違う。

前者は身体を高値で貸している。

後者は、身体の外に小さな分身を作り始めている。

資本主義から降りることはできない。

できるのは、どちら側に立つかを変えることだけだ。

毎月、未来の権利を固定価格で売る側か。

現在の金と時間を燃やして、未来から請求できる権利を買う側か。

後者へ移るには、当然リスクがある。

金を使っても、何も残らないかもしれない。時間を注いでも、商品は売れないかもしれない。自分には才能があると思っていたのに、数字が残酷な答えを出すかもしれない。

だが、その危険を避けるということは、安全な場所にいるという意味ではない。

自分の未来を、毎月少しずつ他人へ売却しているという意味だ。

火葬炉の前で働いていた職員は、退勤ボタンを押せば、その日の収入が止まる。

骨になった男の販売ページは、まだ動いている。

不気味なのは、死人に売上が立つことではない。

自分が手を止めた瞬間、すべての売上が止まることである。

労働者が売っているのは、今日の八時間ではない。

その八時間に続いていたはずの、明日以降を売っている。

資本主義のゲームルールは、ひどく単純だ。

一度働いたあとを、手元に残せ。


===

西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

新たなるハイクラスエリート層はここから生まれる
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。