エビデンス経済学で、男女の賃金差は、
「大半が女のやる気のなさ」
で説明できることがわかっている。
フェミニストがワーキャー言うようなもっともらしい社会構造のハンディで説明できる点はわずかしかない。
実際、EBPMでも女性の社会参加を促すような施策の多くが無駄打ち、空振りに終わっている。
稼ぐ気がない、インセンティブが弱いのだ。
対して、男は違う。
男にとって、金を稼げないことは全人格が崩壊する。
そう、今の君のように、
金が全てだ、金で全てが解決する
と、「まるで受験期の学生がwakatteTVを毎日見て、学歴厨=学歴主義者になることで、受験勉強を乗り越えられるようになる」のと同じだ。
こういう気合いの入ったやる気が、女性にはない。
女性は、金がなくても責められない。
恋愛もセックスもできる。
奢りもしない。奢られるだけである。せいぜい割り勘。
学歴厨は、自分を追い込むために頑張ったのだ。学歴が低い人間はクズだ、と言う思想を心の底から持つことで、自分を脅して牽引したのである。
これは頑張った人間特有の歪みである。
- 頑張る
- 努力する
にはレベルの違いがあって、いきすぎると、オーバーヒートする。あらゆる家電製品や機電が、稼働しすぎて熱を持って壊れる、歪むかのように。
私は同世代が学歴至上主義に傾倒する頃、就職先偏差値に傾倒する頃、
金銭主義
に傾倒していて、23歳の頃は、「年収が平均に満たない人間は道路の中央を歩くな!」と本気で思っていたし、「30歳にもなって平均年収に満たない人は自殺した方が良い」と心の底から思っていた。
生まれながらにして勝っている人間は別として、「持たざる者」ではなかった人間が、立身出世していく・自立していく過程では、正直、「成層圏に突入して燃えるような過程」が必要。
当時はわからなかったけど、20代でヘラヘラして幸せそうな人はキャリアを間違えている。20代は一人で夜泣きしているぐらいが正しい。だっておかしいと思わないか?駆け出しの頃にヘラヘラして、あらゆることに余裕を持てる状態って危険じゃないか?それは東大、京大、一橋、科学大を出て一流企業に入った人間だけが享受できる特権であり、そいつらはそいつらで10代頑張ったのだ。
さて。
ここでは、貨幣について考えたい。
綺麗事を抜きで話をすると、「鋼の錬金術師」に出てくるような、真理の扉と向き合わないといけない場面というのが、マジの勝負の場面では出てくる。
そのとき、「交換」が意識される。
そして、貨幣というのは、交換の媒介である。
お金を使う、時間を使う、何かを諦める、何かを犠牲にする、それらは交換の一種である。
これらを通して、人は、自分の価値観を確認する。
人生を選びとる。
この選別によって、人は「なるようになる」。然るべき人間が、然るべきポジションに立つようになっていく。
原始的な動物の世界でも、「交換」は意識される。
しかも無意識レベルで。本能で。脳内で。
たとえば、今、手元で餌にくらいついているとする。すると、目の前でガサガサと餌の動く音がした。その餌はでかそうだ。ここで、選択を迫られる。
今の餌に食らいついておくべきか、目の前の更なる餌を手に入れるために動くべきか
自然界では、まさにこの交換意識の連続。
そしてどうやら、人間を含めた生物の脳内では、この「交換」をめぐる調整のための作用として、脳内物質が「通貨」の役割を果たしているのだという。
通貨とは何か。
往々にして、成果・成功を目指す人たちは、「出世近視眼」になってしまい、通貨の持つ本質的な意味を見失ってしまう。
ゴールを取るためのドリブル、パス回しであることを忘れて、ボールウォッチャーになってしまう。
サイドに流れた足の速いドリブラーに引っ張られて、戻りのディフェンスで追いつかずに焦る人がいるが、大事なのは「ゴールを守ること」であるため、ゴール方向へのドリブルやパスをカットするランニングをすればドリブラーより走行距離を縮めることができ、有効なディフェンスができる。しかし、現象反応的な人間はボールウォッチャー、ドリブラーシーカーになってしまう。
お金は、愚直に見れば、交換権(券)。
多くの人の認識によせれば、生活の全てを制約するもの。何をするにしても必要なもの。あればあるほど、やりたいことができるもの。
だが、このお金というものが社会的に果たす役割は何だろう。
通貨とは、調整弁なのだ。
本質的に、この世界において、通過とは調整役割を果たしている。
いわば、「交換レート」である。
実家に暮らし、親に生活費を払ってもらう。あるいは、社会人になったが、実家にいる。このような状態では、経済的に完全に独立していない。そのため、交換レートについて、思いを張り巡らす機会が少ない。あるいは、おかしな計算式になってしまう。
23歳のオレは、貨幣という交換レートと直面しながら、こんなことに気づく。
表面的には、
- 起業したい
- 経済的に成功したい
と思いながら、一方で現実と格闘する中で、
とにかく実家に戻りたくない、自分の最低幸福ラインは一人暮らしをすることだ
みたいなことに気付く。
また、お金を稼ぐために、自己投資をするために、何かを我慢したり、辞めたりする過程で、「案外、食に執着がない」「もともと働き始めたきっかけである服にすら、もう固執していない」みたいなことにも気づいていく。
元はと言えば、不自由だった15歳以下の頃と比べて、「働く・稼ぐ」ということが、人生に主体性をもたらしてくれること自体が、私にとって、価値があることだったのだ。そして、組織労働に嫌気や限界が差したのも、「囚われの身」「やめてしまえばお金が一切お金が入らない、15歳以下の頃に元通り」みたいなものを怖く感じたからであった。
こういう内向きの価値観と向き合う。
沸々と煮沸する。
昇華させる。
眼窩前頭皮質などでは、ジュースなのか食べ物なのか、量が多いのか少ないのか、といった異なる選択肢が、かなり抽象化された「主観的価値」として表現されることがわかっている。つまり、「リンゴ3個」と「ブドウ5個」をそのまま比較するのではなく、最終的に「自分にとってどちらの方が価値が高いか」という共通尺度へ換算している。
ここで、ドーパミンのような物質が働いている。まさに脳内で調整弁のような働きをしている。currencyなのだ。
このレートを決めるのはドーパミンだけでもない。将来の報酬をどこまで待てるかという時間の評価には、セロトニン系との関連が報告されている。動物実験では、セロトニン神経活動を操作することで、遅れて得られる報酬を待つ行動が変化する。
「向こうに何があるかわからない」という不確実性の処理には、ノルアドレナリン系を含む別の仕組みも関係する。既知の餌場にとどまるのか。怪しい物音のする森へ探索に出るのか。利用(exploitation)と探索(exploration)の交換レートである。
そしてこれらは、人によってウェイトが違う。人間によって、意思決定で採用される判定基準が違う。リスクテイカーもいるし、安パイを取る人間もいるし、期待値で考える人間もいるし、ノリや気分で動く人間もいる。
脳内は、巨大な交換所である。
時間をいくらで売るのか。
危険をいくらなら引き受けるのか。
今の快楽をいくらなら諦めるのか。
将来の報酬をどの程度割り引くのか。
労力を払ってまで取りに行く価値があるのか。
今持っているものを捨ててまで、別のものを取りに行くのか。
それらに絶えず値段をつける。
ある意味、社会経済はそれのメタファーというか、同型モデルであって、まさに経済社会は脳の写し鏡ともいえる。人それぞれの脳が投影されている。貨幣はそれらを可視化している。
「東京で一人暮らしを続けたい」という願望と、
「働きたくない」という願望は、そのままでは比較できない。
しかし家賃10万円という数字が置かれた瞬間に、交換が発生する。
働きたくない。
でも10万円払わなければ、この部屋から出なければならない。
では、何時間働くのか。
どんな仕事なら耐えるのか。
どこまで自由を差し出すのか。
逆に、自由を守るためなら、食事、服、娯楽をどこまで捨てられるのか。
ここで初めて、「自由が大切です」という綺麗な自己申告ではなく、その人が自由に実際いくらの値段をつけているのかがわかる。
本音の価値観が露出される。
風俗嬢は誰だって、元々は普通の女の子だったのであって、臭いおじさんのちんぽをしゃぶりたいとは思っていない。
幼稚園の頃は、それがしたいと思ってなかったはずだ。小学生の頃の夢ではなかったはずだ。
だが、社会経済によって極限状態まで追い込まれたときに、
お前はどうする?
と真理の扉に投げかけられて、交換レートを意識して、比較的、「あり」と思うものを選択した結果としてそうなっている。
そして、そういう「本性・本音と向き合う」という機会は、社会経済の中でしか生まれないのだ。
裕福で、飯が食べられて、クーラーが効いていて、欲しいものは何でも手に入る、そんな空間の中で、「何がしたい・どうなりたい」はわからない。
価値観を露出させられない。
金がなくなってくると、人間は残酷なほど自分を知る。
「旅行が好きです」
と思っていた人間が、最後の10万円では旅行に行かない。
「服が好きです」
と思っていた人間が、収入が落ちると買わなくなる。
しかし、それでも家賃だけは払う。あるいは、本だけは買う。あるいは、仕事だけは辞める。あるいは、逆に自由時間を全部売ってでも収入を守る。
そこまで追い込まれたとき、言葉ではなく、行動としての価値順位が出る。
要するに、財布の中身が減っていくということは、単なる貧困ではない。
選択肢の全てに値札が貼られ、
「お前は、本当はどれが一番欲しいんだ」
と迫られることでもある。
真理の扉で差し出すものを選ばされるように。
何を得るかではなく、何なら失ってもいいのか。何だけは失えないのか。
その交換を何度も繰り返した結果、人間の輪郭ができあがっていく。
ふわふわした19歳、20歳の頃、人間はテキトーなことを抜かす。
結婚相手は年収1000万円が最低ラインかな〜?
将来は、こういう人と結婚して、こういう家庭を築きたい
TOEICと行政書士と宅建と簿記を全部やります!
それらは、世間的によかれとされるピースをかき集めたものだったり、遠巻きに眺めて憧れるものに言明したり、単なる理想だったり、意味のわからないまま言ってるだけだったりする。
しかし、これが25歳、30歳・・・となっていくと、誰しもがリアルになるのだ。リアルになっていく。
塩顔のイケメンが好き
から、
ギャンブルせず、暴力を振るわない人、機嫌が悪くてもお互い話し合える人
へ。
ちなみに、20歳でも、恋愛経験のない「ジャニオタ妄想理想インフレ女」は前者っぽいことを言い、恋愛経験が豊富なモテ女ほど後者っぽいことを言っていたりする。
多くの人は、19歳の頃には、
「顔がいい」
「年収が高い」
「優しい」
「面白い」
「仕事ができる」
「浮気しない」
「家事もする」
「自分のことを最優先してくれる」
と、全部に丸をつけることができる。まだ、何も差し出していないからである。
これは小学生の感想文と大差ないことに後々気付く。 ただただ望むものが、俗っぽくなっただけだ。
まだ「支払ってない」のである。
支払わないと、何もわからない。
もう一度言おう。
この経済社会に絡め取られながら、格闘しながら、支払わないと何もわからない。
支払わない、payしないなら、それは全部妄想。
そして、その妄想の中で踊ってることが、24歳、25歳にもなると、「気持ち悪くなる」のが普通なのだ。
理想だけ掲げて、現実が動いていないことに嫌気が差す。
それは恋愛にしても、仕事にしても。
普通は誰もがそうだから、25歳くらいで大体、変な半端な夢は捨てるし、恋愛のハードルも下げたり妥協するし、現実的な職場を得たりし始める。
経済学っぽく言えば、人間の本当の価値観は、「何が欲しいですか?」と聞いただけでは、ほとんどわからない。
欲しいものを聞かれれば、誰でも欲しいものを答える。
大きな家が欲しい。
自由が欲しい。
金が欲しい。
健康が欲しい。
家族との時間が欲しい。
仕事でも成功したい。
そんなものは全部欲しいに決まっている。
重要なのは、何と交換してまで欲しいのかである。
もっと言えば、何を捨ててまで取るのかである。
ここに、その人間の価格表が出る。
ここに真剣に向き合うことを忘れた人間は、就職、結婚、 すべてやらかす。
だからニートや、実家暮らしは頭がおかしい。
25歳までに最低50万円、通常は100万円で一括の買い物をしてない人間は狂っている。
何もしていない、できないくせに、27歳になって赤ちゃんのような願望だけ口から出てくるタイプになる。
経済学には、revealed preference――顕示選好という考え方がある。
人間が口で何を言ったかではなく、実際に何を選んだかを見る。いくら支払ったのかを見る。
私は健康を大切にしています。そう言いながら、毎晩3時間睡眠で働いている。ならば少なくとも、その局面では、
健康 < 仕事
という交換をしたことになる。
家族が一番大切です。そう言いながら、年収200万円上げるために毎日深夜まで働く。ならば、少なくともその200万円と家族との時間の一部を交換した。
自由が大切です。そう言いながら、住宅ローンを組み、会社を辞められなくなる。
それもまた交換である。
別に、それが悪いわけではない。重要なのは、人間は選択によってしか、本当のウェイトを示せないということである。
そしてガキの世界と違い、社会はその本音でしか回っていない。
なんなら大人の世界は全て、それっぽい綺麗事・建前でコーティングされている。
誰も本当のことなど言わない。
だが都心の帰宅ラッシュの時、電車飛び込み自殺の人間のせいで電車遅延するとイラついているサラリーマンを見ればわかるように、どこかの知らない人間1匹の命は自分が今日、1時間遅れて家に帰るか否かよりも価値が低い。圧倒的に低い。それが社会だ。それが社会にとって他人の命だ。機能しない他人の命、それそのものに無条件に存在なんか認めていない。そしてそんなイラついているサラリーマンは、他の場面では「お悔やみ申し上げます」と神妙な顔で残念ぶった演技をしたりする。
ガキにとって、大人が、妙に残酷に見えたり、夢がないように見えたり、冷めてるように感じられたり、しょぼく思えたりするのは、
「実際に支払いを続けてきた結果」
だからだ。
一方、ガキは何も払ってない。
本当に何も払ってない。
税金も何もかも。
ガキは、将来、綺麗な奥さんと結婚し、理想的な家庭を築きたい
と思う。そして、実際、多くが結婚する。
だが、どうして離婚するか?
それは、実際に結婚すると、甘くないからだ。ストレスが多い。疲れる。何も支払っていないからだ。
そんな中で現実を知る。
大抵の人間は、家族のためなんか頑張れない。家族が励みになるのは、ある程度のレベルまで。小学生の頃の男子を思い出して欲しい。ボッキするまで、精通するまで、女子に興味を持った人間などいたか?オカマだけだった。男子社会から省かれた人間だけだった。つまり、本質的に男は女に興味がない。赤ちゃんにも興味がない。
そんな人間が、大人になっていく家庭で、
価値観をアップデートし、
社会の責務に追われ、
逃げられない状況に染まり、
あるいは愛着が芽生え、変わっていくのだが、
それは「ある程度の負荷レベルまで」は頑張れても、
「さらに高いレベル」に到達する本音ではなかったりする。
実際、多くの子供が親に感じているように、
「子のためと言いながら自分のため」
「子供を自分が頑張るための理由として利用している」
というのが実態としてあったりするし、本当に心の底から子供のために、と自己破壊的に、子供のために全てを捧げて頑張れている親なんてわずかである。
変な話、子供ができてから、付け焼き刃に、子供のための努力をしているに過ぎない。
子供の人生を決める親ガチャ、その当たりハズレは、親が親になるだいぶ前から形成されていくものである。
これはちょうど、一夜漬けのテスト対策が役に立たないのと似ている。
そしてまた、
「未来を見据えて、今をどう交換するか」
というのも、常に人生で付きまとうテーマだ。
その帰結だ。
人生は難しい。
思ってた以上に、その価値に対して、この支払いをするのがきつい
という経験もあれば、
思っていた以上に、その価値に対して、この支払いをするのはきつくない
という経験もある。
そういう、
「本性・本音」
と向き合うことの連続だ。
これは人生を諦めろ、という話ではない。
諦めたり、捨てたりしたものは、後々、何倍にもなって返ってきたり、全てが手に入ることはよくある。
だがそれは結果論。
結局、成功しない段階で人は、テキトーにあれもこれもやりたい・欲しいと叫ぶ。
一方、成功した後で、人は、あれもこれもやれるし、あれもこれも手に入っているという状況になる。
そして、その途中である「成功の直前」の過程では、価値観を洗練させる、自分と向き合う過程が生まれる。
結局、成功前、成功直前、成功後の全てを体験した人間は、V字回復のようなプロセスを経験するのだ。
ある意味、企業再建なんかも同じことであろう。
本物の自分探しは、以上のような、なまなましい
「本音と現実の格闘と交換」
によって行われていく。
===
![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
![]() ![]() ![]() ![]() |
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。



