読書の正しい効用について教えよう。
仕事ができない人間が、仕事ができるようになる、平均以下のポンコツが平均になる、そういった意味では読書には価値がある。
具体的にはこういった本には意味がある。
要は具体的な仕事の実用書である。
一方で、成功本・自己啓発本は、はっきり言ってほとんど意味がない。もう少し正確に言うと、「成功を目指そうとする動機で手に取る本」には意味がない。
本に経済的・社会的成功を求めてはいけない。そもそも本は本来、そういう用途で使うものじゃない。向いてない。
なぜか?
ここに年収8000万円の経営者がいるとする。彼の仕事は仕組みで回っており時間的な余暇は十分ある。彼は35歳だとする。彼はこのキャリアを12歳から志向していて、あらゆる成功本・ビジネス本を乱読していた。一般書店流通に流れるものはほとんど押さえている。話題になるような著者も全員既知である。機会があれば足繁く話題の著者のセミナーにも出ている。
こういう人間に対して、年収350万円の20歳・18歳が後ろから追いかけて追い越そうとする構図を考えてみてほしい。彼には学業・仕事があって、時間的拘束があるとする。ほぼ無理である。物理的に無理である。財布的にも時間的にも無理である。
実際、このような構図はあちこちに散見される。各分野でそうである。
だから若くして成功した人間は、
- 先人に師事する、先人から学ぶ・伝承する
- 新しい分野に行く
- 人が行きたがらない世界に行く
以外で成功することが難しい。
先人に対して、「伝承させてもらう」というスタイルではなく、真っ向から競合としてぶつかったらほとんどのケースで木っ端微塵になってしまう。競合するにしても段階が必要である。
芸能の世界でも、今は大手とされている事務所、例えばジャニーズなんかは勃興期はその時代の大手芸能事務所の一部を借り暮らしするようなスタイルだったのは意外と知られていない。
わかりやすく例えると、数学の教育を一通り終えないまま、勝手に研究させると、もう15世紀ぐらいにわかっているようなことを人生のうちの30年50年かけて「発見した!」と誤認するようなことをやってしまう。
受験勉強も同じことで、受かる人はさっさと解法を見る。受からない人ほど自分で考える。
世の中には圧倒的な知の歴史・知の体系があり、そのストックに触れる前に自己流でなんとかしようと考える場合、その圧倒的な非対称性を覆せないことが多い。独創性を発揮するにしても「守・破・離」であるべきである。
教育とは格差増幅装置である。
なぜ格差を増幅してしまうのか。
結局、教育を受けないと、「どこで頑張るべきか」という戦略を間違えてしまう。ポイントずれしてしまう。
先立つものは金だよ
ゲーテはそう言った。古今東西、若者や新参者は、自力・独学の罠に必ずハマる。何かをしようとして自己流で失敗する。なぜならば、自分の先にはもう腐るほどの先人たちがいて、その足跡があり、膨大な成果がある。それをしっかりと踏襲しないと時間の無駄であり、自分がどこで何をすべきかどうかもわからなくなってしまう。
実際、活躍している「型破り」な人間なんて、大抵、みんな死ぬほど「型」に詳しい。
そもそも、成功本の問題は、それが一般流通に晒されていて全くアドバンテージがないということ。つまりそれはもはや「スタンダード」でしかなく、それを読んで何かわかった気になるなら、それは「平均以下」が「平均」になっているだけだ。
先人の集積やアドバンテージを追い越すのも大変なのに、成功を志して読むような本で悦に浸っているようでは同年代の似たような連中との間での競争に勝てているかどうかすらわからない。
読書 しないほうがいい
読書 意味ない なんj
本 時間の無駄
小説 時間の無駄
本 意味ない
読書 小説ばかり
読書し てこ なかった
本無意味
たくさん 本 無駄
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。