どうもこんにちは。
いわゆる成功者です。
本日は、「20代で人生決まる説」は本当かどうか、について考えてみたいと思います。
- 20代で人生は決まるぞ!
- 20代で年収の9割は決まる
- 20代で将来が固まる
みたいなことはよく言われると思います。
この定説は、多くの人たちに様々な思いを抱かせていると思います。
ここについて、
真実に切り込んでみましょう。
「20代で人生決まる説」は20代前半を発奮させ、20代後半を落胆させ、30代を諦めさせる
20代で人生決まる説は、往々にして、
20代前半を発奮させます。
ほとんどの20代前半は、自分の人生・将来は輝かしいと考えています。
自分は平均以上だと考えています。
だからこそ、20代で人生が決まるぞ!という話は、良い意味でのプレッシャーになるのですね。
発奮するわけです。
特に意識高い系はそうです。
ここから先の数年で人生が決まる。
そういう話は、20代の入り口に入った人たちのやる気を駆り立てます。
しかし、20代後半〜30代以降となると話が違うようです。
意識が高く無い人たちは、
人生は20代で決まる説
をどう捉えるでしょうか。
「まぁそんなものか〜そうだよな〜」とテキトーに受け止め、25・26を過ぎたあたりから自分の人生を悲観し始めます。可能性が狭まってきたと感じる。
そして、
- そろそろ落ち着かなきゃ
- そろそろ腰を下ろさなきゃ
- そろそろ固めなきゃ
とか色々と考えるわけです。
20代後半〜30代前半が結婚ラッシュなのは、「結婚できる最下限ゾーン」をクリアしている人たちが、自分の人生の大枠を悟り、ある種の後ろ向きな発想でbetterを選択していくように駆り立てられるからです。
将来の不安もあるでしょうね。
この意味で、結婚なども絡んでくる。
さらに、企業社会では、30前後ではさすがに出世コースかどうかが見えてきます。30代になると、大きな差というのが明確化します。20代の頃に表面化しなかった差だって露骨に現れてきます。
20代後半〜30代の絶望
20代後半〜30代の人たちからすると、
「人生は20代で決まる!」
というのは絶望にしか感じられないでしょう。
人生は80年だの、100年だの言われるわけですが、その大枠が20代で決まるとされているわけです。
そしてその20代が終わろうとしている。
あるいは終わってしまった。
40代となると、もはや完全に消沈している感じでしょうか。
西園寺の結論 → 人生は生まれた時から決まっています
私の結論としては、「人生は生まれた時から決まってる」ということです。
あら。もっとひどいことを言っていますね。笑
人生20代で決まる説よりヒドイ。笑
人間というのは、だいたい、生育環境の中で発想します。
同級生とか、学友とか、元職場の人たちとか、その人たちと同じ感覚で発想します。
だから意外と、外の世界が見えません。
本当に人生が成功する人というのは、交流の範囲が変わっていきます。
人生が大きく動いていきますからね。
本当に人生を変えた人というのは、交流する人たちの人種がどんどん変わっていくのを経験しています。多種多様な人生が存在すること、そして意外と社会がタコツボであることに気づくのです。
どんどん上に上がっていく人生を経験するとわかります。
世の中には生まれから「根本に違う人種」というのがいるのです。
こういうのを知ると、人生は生まれた時から決まっている、と感じられます。
冷静に考えてみれば、10代でも同じことを言われている
冷静に考えてみれば、実は10代でも同じことを言われています。
「高校受験で人生が決まるよ」
「大学受験で人生が決まるよ」
この類のことは、みんな言われてきているでしょう?
それを忘れちゃっているのです。
なぜ20代で人生が決まると言われるのでしょうか。
1つの理由としては、知力・気力・体力的な問題があると思います。
10代から20代前半がどう考えてもピークであるからです。
人生の根っこにあるのは健康や活力です。
これがピークの時が一番大事というのはその通りです。
それと、20代というのは「一般サラリーマン」という枠の中で、未経験でも仕事を選びやすいです。
プロゴルファー、プロサッカー選手、水着モデル、グラビアアイドル、こういう特殊な職業というのは、10代の早い段階から勝負が決まっていたりします。
20代で人生が決まるというのは、多くの人間の食い扶持を支えているサラリーマン世界において、20代であれば可能性があるからだと言えるでしょう。
人並みの年収、人並みの家庭、人並みの幸せ・・・・
人並みの年収。
人並みの家庭。
人並みの幸せ。
・・・・これらを手にしたいのであれば、20代のうちに努力した方が良い、ガムシャラに頑張った方が良いというのは、一定の合理性があるでしょう。
この時期の選択が大きな枠を決める、というのもある程度事実です。
人並みの年収が欲しい。
人並みの家庭が欲しい。
人並みの幸せが欲しい。
ここに対して、絶対的な保証を求める人。
高確率の保証が欲しい人。
それがファーストプライオリティな人。
そういう人は、20代を大切にする、というのは理にかなった考えですし、概ね異論はありません。
・・・・なぜなら、26歳、28歳、30歳、32歳、35歳となってくると、一緒に働く人たちが5年、10年、15年のアドバンテージを持っていたりします。そのアドバンテージをひっくり返すのは難しいわけです。
職人技のような世界はなおさらです。
プロサッカー選手などは、ボールを手で扱っているかのような自由さで、足で上手にプレイします。そこに素人が乗り込んだとしても、埋められない差を前にして沈没することが多いでしょう。
世の中の職業には、そういった、「長年の暦がなせる蓄積」によって仕事を回している人たちがたくさんいます。そこに素人がポッと横から入っていっても、その差を埋めることが難しい。
ましてや、知力・気力・体力の差もある。
こういった理由から、30歳を過ぎたら人生をやり直すことは不可能、だと考えるのでしょう。
また、例えば企業世界の採用であれば、30歳を過ぎた人たちに見られる大きな傾向・統計確率論的な特徴をわかっています。
30を超えた人たちにチャンスを与えても、すぐ諦めていくのであればどうでしょう?
・・・・実際、30、35、40を超えた人たちにチャンスを与える立場になってみればわかりますが、やっぱり、びっくりするほどワガママで、若手と比較すると弱く、能力が低く、続かない・・・みたいな人が多いのも事実です。
しかも、社会経験があるので、裁定しちゃうのです。自分の視点で裁定しちゃう。文句をつけちゃう。
そうであるならば、フレッシュな若手の方が良い、と考えられてしまうことが多いのも仕方がありません。
10代・20代で頑張らない奴が、30代以降も頑張るのか?という意味で言われてる節もある
10代・20代で頑張らない人が、
30代以降で頑張るのか?
・・・・・そういう意味で、「人生は20代で決まる」と言われているフシもあると思います。
世の中の20代を発奮させる意図もあるでしょう。
「20代で人生は決まる説」というのは、人並み以上に頑張っている20代後半以降の人たちのやる気を削いでしまう危険性もあります。
30代から頑張ろうとしている人たちの気持ちを折ってしまう。
かといって、「人生何歳からでもやり直せるよ!」という甘い風潮が漂っているとどうでしょう?
実は、世の中には「勘違い君」というのがいて、そういう人たちがどうしてもつけあがってしまう。そういう問題もあります。ですから、社会には「ここで人生決まっちゃうよ」というメッセージが意図的に広められる部分もあるでしょう。
いろんなことの可能性が狭まる、という意味では実はいろんな場面で日々、可能性は消失している
いろんなことの可能性が狭まる、という意味では、実はいろんな場面で日々、可能性は消失しているのです。
そして、若ければ若いほど、「選択肢・可能性」は十分にあります。
だから、若い時代であればあるほど、自分には無限の可能性がある・明るい将来があると信じます。そして、時間(人生)を無駄にしないように最適な選択をしようと考えることでしょう。逆に、これが悪い方向に出て、すぐ何もかも諦めてしまう若手が多いのも事実です。可能性が無限にあると感じられているからこそ、上手くいかないことに対してすぐに「場所が悪い」と判断し、すぐに引っ越してしまおうとする。
この引越しをやり過ぎた結果、最終的にどこにも居場所が無くなったという人は、婚活市場にも就活市場にも結構います。
若くて、可能性やチャンスがたくさんある、という認識が強いと、「時間を無駄にしたくない」という気持ちがあまりにも強くなってしまうのです。
意識高い系が変な方向を向いてしまう。
意識の高さが、環境決定論に向いてしまう。
こうやってジョブホッピングをし過ぎて、大変なことになってしまう人たちもいます。
「若いうちは可能性が無限大だから」の苦しみ
私は、よく、10代の頃に、
「若いうちは可能性があるから」
「10代は選択肢が広げられるから」
「若いうちは見聞を広げよう」
といった類の話をよく聞いていました。その時にいつも思っていたのが、
可能性じゃあかんのや、現実が欲しいのや、ワテは
ということでした。
可能性がある、選択肢がある、チャンスがあるという話は、歳を老いた人たちからすると羨ましく感じられるでしょう。
しかし、若者でもシリアスな層というのは、「年配と比べて、現実力が弱い」ことを嘆いているものです。つまり、選択肢や可能性はあったとしても、それは所詮未実現利益というか、将来のポテンシャルでしかない。これに対して、年配の層というのは皆、しっかりと足場を築いているものなのです。だからこそ、「何者でもない若手」というのは、シリアスな層ほどそこに悲観的です。
私はつくづく思うのですが、可能性論と、現実的な足場の築き具合はトレードオフです。
可能性がそこらかしこに開かれているというのは、何者でも無いからなのです。
例えばイチローとか本田圭佑を見てみましょう。
彼らは、「野球界」「サッカー界」という狭い世界で生きてきた人たちです。あれだけ有名になれば、確かに、引退してもいろんなオファーがあるでしょう。しかし、主にその役割というのは、話題性だとか、集客性、注目性なんかにあったりするのです。意外と、スポーツ選手なども「狭い」のです。スーパースターであった清原和博さんが、ドラッグなどに溺れて行きましたけれども、意外と彼を見ていると選択肢が無いのです。
捨て身・退路を断つ覚悟が今思えばターニングポイントだったと思う
- 「若い」
- 「可能性がある」
- 「チャンスがある」
- 「何者でもなれる」
- 「いろんな道に行ける」
と言われていた時代から、
「現実的な変化、成果、成功」
の獲得にシフトしていく流れというのは、実は、選択肢や可能性を狭めていくこともであります。
これがリアルです。
何かをものにしていくというのはそういうことでした。何かを捨てることなのです。犠牲を払うことです。
結局、若さという価値をモノにできてる人って少ないと思います。
私が過去に触れ合った人を見ていても思います。
「若い」と言われて調子乗っていた層はだいたい没落しています。
なぜか?
それは、リアルをモノにしていく過程にあるのは、Sweetなものではないからです。
黙っておいても、無条件にデフォルトで備わっているものを周りが賞賛して、ホイホイ持ち上げてくれる世界では「全くない」からです。
自分の決断、行動、アウトプットで人生が決まる世界です。
ボーッと突っ立っていて、誰かが周りからヨイショしてくれる世界とは無縁のものです。
このゲームに身を投げるということは、そのゲームの中で犠牲を払うということです。
一見するとそれは、多くの若者にとっては若さを犠牲にすることのように感じられます。
もっと夢見心地で、余裕があることや選択肢があることにかまけたり、チヤホヤされるが故の楽観思考に浸っていたり、将来を何も考えずに生きる楽しさや喜びに浸ることであったり・・・・・・・
というものを捨てる。
自らを一定期間、無自由に追い込む。
若さというのは、危ないです。
若さというのはボーナスチャンスであり、無限の価値があります。しかし、若さの価値に気づける(活用法を思いつける)のは、実は若さを失った立場だからこそなのです。若さが無い人たちは若さを「羨ましい」と言うのですが、
当の若い人間は若さを持て余している(取扱方法がわからない)
のです。
よくわかってないのです。
若さの取扱説明書が無いのです。
若い人たちは5年、10年、15年、20年すると、いずれ若く無い人になり、また次世代に対して羨望の目を向けながら、自分の過去を懐かしく思うようになります。歴史は繰り返されています。
足元にあるモノに気づかない。それが凡人です。
私も、若さを持て余していたと言うか、活用しきれてなかったな、と反省することは多いです。しかも、若い人に限って、「背伸び」したり「おじさんに寄せ」たりしてるものです。あえて若さのアドバンテージを活用しないことをしてる人もいるぐらい。
若さを持て余して失敗するパターンはどういうものか。
それは、「選べる力」「選択肢が広がっていること」にかまけてしまうこと。
選べすぎるが故に、フリーズしてしまうこと。
あるいは、何かを選んでもすぐにつまみ食いでより良い場所を求めて転々コロコロしてしまうこと。
結局、何もモノにできないという事態は往々にしてある。
30代に戻りてぇ、20代に戻りてぇ、10代に戻りてぇ
と言う人が言いますが、はっきりいって、そういう人たちは戻ったところで意味ないです。きっと、同じ過ちを繰り返すことでしょう。なぜなら、もし仮に年齢別にできることややれることが変わってくるとすれば、それをベースにした頭の使い方こそが求められることだからです。
仮に40代、50代で追い詰められている状況にあるならば、その立場だからこそできることを考える。これも結局、10代のうちに「できる層」が求められてることです。10代のハイレイヤー層が考えていることです。実際、「10代でどれだけ勉強したかで人生決まるから勉強頑張りなさい」と言われてそれをちゃんと実行できている人がどれだけいるでしょうか、という話なのです。
20代でやっておかないと後悔すること?知るか、バーカ
自己啓発本コーナーで、
「20代のうちにやっておかないと後悔すること」
の類の本を懸命に読んでいる人たちがいます。
彼ら・彼女らは後悔する人生を送りたくないのでしょう。
ただ、この手の話、「10代を真剣に生きた人」ならわかると思いますが、
10代も10代で忙しいし大変
なのです。
人は、過去を美化する生き物です。喉元過ぎれば熱さ忘れる生き物です。過去に対する捉え方を間違えてしまいます。
10代も10代で忙しいでしょ。学生も学生で大変です。やることがいろいろある。20代だってそうでしょ。30代も、40代も、50代もそうですよ。
「やっておけばよかったこと」
「後悔すること」
その手の類のものを真剣に悩んでいる人たちは、余白があるのでしょう。
20代なら10代、30代なら20代、40代なら30代・・・という、1個前のジェネレーション時代の自分に対して向けられる後悔というのは、
- この余白をこうしておけば良かったのに!埋めておけば良かったのに!という後悔
- 別のことをやっておけば良かったのに!という後悔
があると思います。
一番ありがちな後悔は、余白に対する後悔です。
何をボーッとしていたのだろう?という後悔。
なぜダラダラしていたのだろう、というものです。
しかし、その「余白」をゼロにしてギチギチに生きていた結果、「これで良かったのだろうか?」と考えている人たちもいるのは事実です。もちろん、死ぬほど頑張って良かったなぁ、と思っている人もいますけれどもね。
「違うことやっておけば良かった!」というパターンはどうでしょう。
この後悔は痛いですね。
自分の過去の過ちというか、選択を憂うパターン。
もっと違うことをやっていたら・・・・
あの時これをやっていたら・・・・
あの人じゃなくてあの人だったら・・・・。
でも、この手の後悔も眉唾でしょう。それは後知恵バイアスかもしれない。後から手に入った知識・経験・記憶で判断しているのかもしれない。「昔のあなたはそんなに賢かったのですか?」ということですし、その手の後悔をする人は絶対、今の選択に対しても後から後悔をすることでしょう。
過去や未来について、テキトーな捉え方で、「ああすれば良かった」「こうすれば良かった」「もっとこうできた」と考えることは簡単なことです。でも、そういう思考のループに陥ってしまうのは、何かに真剣に取り組んだことが無いからこそ、でもあるのです。
「あれ以上やりようが無かった」
「あの状況の中ではあれが限界だった」
「あれ以上うまくやりようが無かった」
ということも、ある程度、過去の回想として出てこないと、その時々を懸命に生きてない人の可能性があるでしょうね。
自分という人間が見えているかどうか
後悔の類は、「自分という人間」に対して、
what if
で「仮にああしていたら〜良かった」ということを考えてあーだこーだすることでしょう。それはいわば、自分という人間を「よりより状況・利益」に近づけたことを考えることです。それを想定してあれこれ考えることです。
ここに関して無茶苦茶なことを考えがちな人は、「自分」という人間をぶっこぬいて、ただ条件や環境について目を向けて「あーすれば」「こーすれば」と考えてしまいます。しかし、本当に自分がそこにリーチできたのか?とよく考えるべきでしょう。結局、自分を見失っているのかもしれません。過大評価しているかもしれないのです。後悔の類は、自分に対する過大評価がもたらしている可能性がある。
今、30歳、35歳だったとして、過去をボヤッと考え、夢見心地になるのであれば、仮に過去に戻るチャンスを神様にもらったとしても失敗するでしょう。今の状況や今からの状況だって変えられない。今から+10年した先のことのために動いていけるはずなのに、それもやらない。できない。
そういう可能性が高い。
何歳からでも可能性を切り拓ける人たちはいる。そしてそういう人たちは、その人の考え方を評価されているかもしれない。逆に、年齢でバサっと切られている人たちは、その今現在の動きであったり、将来に向けた打ち手の貧弱さをマイナス評価されているのかもしれないわけです。
あなたの過去はそんなに良かったのですか?本当に?
あなたの過去はそんなに良かったのですか?
本当に?
この問いが大事です。
「美貌」「ルックス」の面では、そりゃあ、若い頃の方が良いでしょう。特に、若さの面で良い思いをした女性の場合は、若い頃の方が良かったと感じることは多いかもしれない。
でも結局、「今」を切り拓けるか。「未来」を切り拓けるか。そこをよりよくできるかは自分次第です。もちろん、時期によって動くこともたくさんあります。往々にして、歳をとるほどに落ちていくものもたくさんあるでしょう。それを予見できずにダラダラと生きていると、「ああ、それは想定の範囲外だった」と後悔することがあるのかもしれません。
私は16歳の時から、50代ぐらいになった時のことをよく考えています。
若さや気力、体力、勢いがゴッソリ落ちた状態で、どうやって人生を楽しめるかを若い頃から考えていたのです。
そして結論が、
- 負け組労働者にならないこと
- 金か権力で若い女を抱くこと
でした。
負け組労働者というのは、歳をとって気力・体力落ちているのに、辛い労働に駆り立てられ、若者には全然競争力を維持できず、心身が悲鳴をあげる生き方ですね。
そして、「金か権力で若い女を抱く」というのは、若い女が金か権力になびいていくのを見て、最初はショックを受けたものの、「・・・ということは?これは逆手に取れば・・・?」と考えて、助平な妄想が広がったのでした。おじさんライフに対して、「そういう生き方もありだな」と思ってしまったのです。
人生後悔しないようにするためには、10代のうちから、
- 20代はこれで楽しもう
- 30代はこれで楽しもう
- 40代はこれで楽しもう
- 50代はこれで楽しもう
というように、ある程度、楽しみの目安というか、将来的な展望を持っておくことだと思います。
今やっておくべきこと・今やりたいことは、そこにあること
今やっておくべきこと、今やりたいことは、「そこにあること」です。
逆に、将来後悔するかもしれないこと、「これやっておけば良かったぁ〜」とか「これやらなければ良かったぁ〜」と思うことは、将来振り返った時に思うことです。すなわち、今の視座では判断できません。
将来の視点を持たないといけません。つまり、未来予測が必要です。
「今を生きる、今しか考えない」
という生き方も、非常に合理的です。
これは、今を楽しむわけです。今、この瞬間を楽しむ。だから、過去とか未来を全く考えない。だから後悔も何もない。今だけを楽しむわけです。そして、今に関して凄まじく突き抜けていると、実際、将来になっても保険がある。今が突き抜けた人は将来の落下に対しても抵抗がある。立ち向かえる力がある。
こういう人たちは結局、どんな状況も楽しめるタイプです。
流れに身を任せているわけでもあります。
逆に、「明確に欲しいものがある(明確に避けたいものがある)」場合は、ある程度、時間軸を移して、将来を見据えることも大事です。
ここは大きな違いだと思います。
絶対妥協できないものがある。絶対欲しいものがある。そういう人は、やはり、ある程度、全体観を持っている必要があります。
===
"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。