本物の好き。損得勘定で動いたら失敗する上にそもそも動けない

損得勘定には問題点がある。

  1. 短期的な視野になりがち
  2. 腰が重くなる
  3. 大体大抵のことは損が先行する
  4. ほとんどのことは時間とお金が先に出ていくのでほとんどすべては何やっても損
  5. 目先の利益や即利益は雇われるパターン、仕事を振られるパターンでありそれは人生を消耗する

 

だから、長期的に見て、自分のプラスになるようなことをやるのが正しい。底上げすることが正しい。具体的には、自分の時間当たりの価値を上げるようにすることが正しい。資本主義ゲーム下では時給を上げなければ全て詰む。

よって、損得勘定よりも、「進化するかどうか」で考えるようにしてる、ワイはね。

 

そして、他者のレスポンスが気になる、レスポンスをプラスの方に持っていきたいと自然に思い、かつ、そこに受け手側との長期の関係性が期待できるような道筋は天職に近い。

誰かのために、がある程度意識された上で動き、そして自分はまた進化に励む道はほとんど高確率で社会経済的には成功する。

客の顔やレスポンスが気になるような働き方はほとんど正しい。逆に自分がやりたいことオンリーは間違ってる。それは趣味。唯一正当化されるのは、あまりにも好きこそものの上手なれのパターン。あまりにもうまいパターン。その意味で中田英寿みたいに「サッカーが好きでやってたらプロになった」みたいに言うのは理想形だけれど、多くの人はこれに憧れてしまう。

 

好きを突き詰めることで何かに熟達することがプラスになるという論理は確かに有り、好きなことをやればいいというのも一理ある。でもこれはある種の賭けでもある。恋愛も結婚もそう。好きを突き詰めるなら覚悟もセットで必要だと思う。いわば自分の好きに一切文句言わない覚悟。好きなことやったはず、好きな人と結婚したはず、でもいつも愚痴る人やフラフラする人の好きには覚悟が足りない。だからモノにならない。本当の好きは、好きと心中しないといけない。死なないといけない。

好きなことやります、は神風特攻レベルだと気づかないといけない。

好きになるとは身を焦がすこと。好きと一緒に死なないといけない。なぜなら好きの本質は自己の消失であるから。外に向けたものだから。相手が全てになることだから。没頭性が伴う。我を忘れて熱中する。身を捧げる。自分の犠牲は全く気にならない。これをフロー体験とも言う。

この好きを通す道で成功する人は正確には、好きなことしかできない(他の道ができない、嫌いなことができない)であり、結果論として成功者が、「好きを通せば叶うんです」と語るが、好きorDIEの世界であり、死んでる人もたくさんいる。ほとんど捨て身タックル。天国か地獄かである。どっちにせよ、好きの本質は自己の消失。

逆に自分のことが好きだから自分にとって都合の良いものが好きというのは正確には本物の好きじゃない。愛されるから好き、理解されるから好き、評価されるから好き、自分にリターンが返ってくるから好きというのは偽物の好き。これは自分のことが好きなだけ。

 

自分のことが好き=偽物の好きは、自分のことが好きなのだから、他所のことが好きという意味での本当の好きと覚悟は、その人には存在しない。だから、その好きな自分にとってより良い生き方をしなければならない。好きな自分が苦労しないように、傷つかないように、まるで愛する子供に愛情を注ぐかのように自分を大事にしないといけない。そして、自分を大事にしつつ、自分の価値を実感できるようになるためには、資本主義の中でうまくやらないといけない。自分を幸せに、大事にしないといけない。時給が低いような人間は社会経済の中で命を粗末にされる。下手すると命を落とす。その中で自己愛を保つのは難しい。精神的な健康を保つのは難しい。だから、結局社会経済的な成功を目指さないといけない。つまり金と時間のゲームに身を投げないといけない。社会的にならざるを得ない。

 

好き、で生きる人は外部に囚われた結果、自己を消失する。これが片思いで終わるか両思いに終わるかはわからない。

自分が好き、で生きる人は自己尊重を考えた結果、社会性を持って生きることになる。

 

本当に好きで歌をやってる人間に、「私、歌手になれないけどこのままでいいのか」なんて悩みはない。そういう金と時間の悩みは存在しない。キャリアなんて気にならない。貧乏してて人と劣ってても悲しくならない。睡眠不足だろうが、忙しかろうが、関係ない。好きなものがあればね。そもそも歌に、自身の損得は絡まない。そしてうまい人はもうスターになってて、そうじゃない人はそうじゃないというだけ。でもスターにならなくても気にならない。だって好きなのだもの。

つまり、好きだけど下手な人と偽物の好きを抱えた覚悟の無い人がシャバで沈殿するが前者は別に外からどう思われても関係がないと思っている。後者は苦しむ。

好きだけど下手な人は、いわば片思いの人。歌が好きだけど世間は評価しない。好きな相手がいるけど振り向いてもらえない。それでも、片思いできる幸せを噛み締めて貫き通すか、両思いを目指すか。でも、両思いできないのは覚悟がないからかもしれないということには気づかないといけない。そして偽物の好きを抱えた人は、気づかないといけない。

 

偽物の好きを抱えた人間は、結局のところ自分のことが好きなだけで、そして自分にとって都合の良いものを好いてきただけの現実に気づかないといけない。何かを誰かを、好きになる覚悟もないし、好きで熟達することもできない。自己中の意味での好きなことをやりたい、に気持ちが塗り固められた人間である。好かれたい、好かれることが好き、評価されることが好き、自分がいい思いや気持ちよくなることが好き、なのである。

そんな人間はむしろ、好きな自分が、より苦労せず、優雅に、楽に、幸せに生きられるように考えるべきであって、それはどう考えても資本主義社会経済の中で、時間あたりの価値を落とさないように動いていくことである。そして社会的な称賛を受けることである。なぜなら国家は貴方に税を求め、社会は生活費を支払えと言ってくる。友達は貴方を結婚式に呼んで金を出せと言う。ニートやフリーターになれば糾弾される。無職なら異性に捨てられる。

自分を自分の子供だと考えれば良い。自分で自分を大事にしなければならない。

親は大事な子供に教育を施す。

つまり、自己投資しなければならない。自分の価値を上げていかなければならない。

ここでありがちな過ちは、「自分のことが好きすぎる」がゆえに、ありのままの自分を評価してくれる世界じゃないと嫌だとなるひねくれパターン。うまくいかないとすねるパターン。やる気が出ないパターン。ガキンチョマインド。それは、子供が好き勝手遊び呆けて悪い方向に行くのを親としてそのままにするか、それとも叱りつけて矯正するかみたいな話に近い。きっと、親は、子供がまだ低年齢だったり精神的に未熟なら、好きなようにさせるだろう。そうじゃないとグレるかもしれない。

だから、同じように自分が低レベルで未熟、精神が追いつかないなら、自分を甘やかして好きなことを好きにさせる期間はあっても良いかもしれないけど、それには蹴りをつける時期が必ずやってくるし期間限定でもある。甘やかしも時には大切だけれど必ずツケは回る。

人間だから誰だってうまくいかないとひねくれたくなるし、そーゆー時には休みは必要。でも本質的にそれは何の解決にもならない。

仮に自分が大好きな自分という存在がうまくハマる場所を探して彷徨って求め歩いても、それが恋愛だろうが仕事であろうが、その道は茨の道で結果的にどこかに辿り着こうが着かまいが苦しむ。パトラッシュになる。なぜなら逆サイドが自分大好き人間なら成立しないし、その人間と噛み合ってもそれは相手側は社会的にうまくいくための打ち手としてそうしているのであってそれはまさにパトラッシュから評価やリターンを引き出すためのものに過ぎない。だからそれを提供し続けなければならない。また、仮に自分が大好きな自分という存在を好いてくれる人や買う人がいてもその好きに覚悟は無く表面かつ短期で偽物の好きである。そして、自己を消失するレベルで好いてくれる、買う人がいたらその場合は肩に重荷を背負うことになる。いわば子供を育てるようなもの、親を介護するようなものである。結果的に見返りを提供し続けるか、偽物の好きを向けられたお返しを返すことによる相互補完と循環、もしくは圧倒的な責任と義務、不自由を背負って生きる、によってしか合致しないことになってしまう。

つまり歓待は無い。

 

時間とお金のゲームを生きるために、社会性を意識しながら自己投資することは失敗しようがない。そもそも資本主義のダイナミクス、ダイナミズムにそのまま合致したような、いわば『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を擬人化、体現したような生き方であってどう転んでも必ずプラスになる、運命の歯車が合うようにできている。

  1. 進化してること
  2. 誰のために働こう、動こうとしてるのかぼんやりとでもイメージできてること、実際に動けていること

の二条件が揃っている人間が振り出す神のサイコロは長期的に見て必ず、自己利益に合致する。そしてこれは天国か地獄かの賭けでは無い。天国しかない。

そして、余暇で偽物の好きをあちこちに振り向けて趣味を楽しめば良い。身を焦がさない好きを楽しめば良い。

ワインが好きだ、フェラーリが好きだ、ゴルフが好きだ、演劇鑑賞が好きだ、音楽が好きだ、それらは本質的には自己を表現している。

一方、例えばプロミュージシャンには、社会性を発揮しているプロがたくさんいる傍らで、本当に音楽に身を焦がしてきたプロもいるのである。その本物の好きから放たれる危うさに胸を打たれるのだ。まさに「Born this way」である。

 

My mama told me when I was young, We’re all born super stars.

 

社会経済的に生きてきたがゆえにその危うさに胸を打たれる人、片思いの好きを抱えて生きてきた人、偽物の好きで生きてきた人、全てが反応する。

  • よくマーケティングされた曲だ、これは共感を呼ぶだろう
  • まさに片思いの私の人生全てを肯定する曲だわ
  • 覚悟を決めないといけないかもしれない、いや、私は偽物の好きだったかもしれない、これが本物か、、、、
  • そうそう、同じ両思いの成功者として共感するよ、

 

そして、世界は異口同音にこう言うだろう。

 

 

GAGA, you’re right.

 

 

 

 


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西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)#+6σの男

   




"make you feel, make you think."

 

SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)

「人生を変える」にフォーカスしたブランド
         




Lose Yourself , Change Yourself.
(変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気を我らに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受け入れられる冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、見分ける知恵を与えたまえ。)
 
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。