宗教ってやっぱすげーわ。
今の自己啓発やビジネスは、
努力すれば報われる
という考えだけど、宗教的予定調和説は全く異なるんだよ。
末路・結末は、神がもう決めてます、ってやつ。
お前の運命は、もう、神が全部決めてますってもの。
あなたの人生ストーリーは神が書いてます。オチまで全部決まってます。そういう世界。
だからもう、ONEPIECE読んでるのと変わらないよね。
そしてそれは、人間は知る由もない。
知ることができない。
人生を最後までプレイしないと、あの世に行かないとわからない。
これって、
「どう足掻いてもどうにもならなかったことが多かった時代」
にはピッタリフィットするんだよ。
そして、現代のように、”努力疲れ”がある世界でも、結構、染み入るところがある。
適性とか運の概念を包括してるとも言えるから。
結論、オチは決まっていて、
神に決められていて、
自分はそのストーリーをなぞってるだけ。
じゃあ、努力を放棄すれば良いか?
そういうことでもなくて。
宗教的には、
「努力すらも神が決めたルート」
なんだよね。
つまり、
じゃあやらんわ
という態度をとる奴も、
それでも頑張るわ
という態度をとる奴も、両方いて、それすらも神が決めてるという世界観。
ニューカムのパラドックスみたいな話だけど。
要は「自由意志があるように見えて、すべては予定されている」ってこと。
人間は、自分で選んでいる“つもり”でしかない。
だけど、宗教的には――その選択すら、選ばされている。
たとえば、
・努力しても報われない人生を歩む人
・怠惰に過ごしても、なぜか救われる人
・どんなに失敗しても信仰を手放さない人
・信仰を持ったまま、最後まで絶望する人
どのケースも、「神の物語の中で意味を持つ」というロジックになる。
そしてこのロジックのすごさは、意味を失わないことにある。
現代の合理主義や成功哲学は、
ある程度の結果が出ないと「無意味」扱いされる。
でも、宗教の世界観は真逆で、
「どんな経験も、無意味になることがない」。
なぜ神はこの筋書きを用意したのか?なぜこれが私の運命なのか?
それを問い続けることになる。
失敗や苦悩の方が意味が深まる。
神が用意した筋書きの中で、
なぜ自分はこの試練に出会ったのか、
なぜこの不条理に直面しているのか――
「意味を問う力」が、人間の魂を深く掘るという感覚がある。
しかも、重要なのはここからで、
宗教は、「お前の物語はこれでいいのだ」と最後に赦してくれるんだよ。
ビジネスの世界や自己啓発では、
「もっとやれ」
「お前のやり方が悪い」
「限界を超えろ」
って常に“未達”を責め立ててくる。
でも宗教は、
「それでもいい」
「それすらも含めてお前なのだ」
「誰にもわからなくても、神は見ている」
と、“完成していない自分”を肯定してくれる。
ここに、現代人が救いを求めるのも、よく分かる話。
完璧な成果を出して死ねる人なんて、ほとんどいない。
多くの人は、中途半端な夢、報われない努力、伝わらない想いを残したまま死んでいく。
そのときに、
「でも、それで良かったんだ」
「そうあるべくして、お前はそうだった」
と、全体の物語の中に包み込んでくれる世界観は、やっぱり強い。
宗教は、人間の「未完成さ」と「不条理さ」に、
最も筋の通った意味を与える体系なんだと思う。
だからやっぱ――宗教って、すげーわ。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。