私の学歴というのは非常に貧相。
学歴というものを「学校歴」と訳するならば。
ただ、学歴というものを、
- 学習歴 (何を学んで来たか)
- 学識歴 (何を知っているか)
- 学徒歴 (学びを得るものとしてどういうスタンスを持って人生に向かって来たか)
というものに拡張して考えるのであれば、少なからず、私は「学んで来た」と胸は張れる。
大人になって、「充実した生活を送っている人たち」には、共通点があると思う。やはり、何かを学んでいる。
一見、彼ら・彼女らはヘラヘラしているから気付きにくいのだけれど、高校の時に首席でしたという人、大学の時に首席でしたという人、こういうのがゴロゴロいる。なんというか、バランスが高水準で良い。
【お金】
看護師の人から聞いた話がある。
手首で脈拍を測り、脈が無ければ血圧80は切っているそう。首の方で脈拍を測り、脈が無ければ60を切っているそう。
血の巡りが悪くなると、蘇生したとしても脳に障害が残る可能性がある。
だから、脈が無い人は危ない。すぐに処置をしなければならない。
学識があることで、本来なら目に見えないものが見える。現実の減少を前にして、学んだことをリファレンスしながら、目の前の人体で何が起こっているかを見抜く。きっと、医者もそうやって人体を診ている。
私が、ビジネスに関して思うこともそう。
ビジネスも、人体のように複雑な体系である。
マーケティングは、完全にシステムであるから、各論を掘り下げた上で、概論を理解し、実際に全体を動かしていけるようにならないといけない。全体が部分の単なる総和では無いことも度々思い知らされる。
世間は、なぜ大卒者を優遇するのか。
別に、大学なんか行かなくても、働くことはできる。仕事をすることはできるはずである。にも関わらず、なぜ世間は学識を重んじるのか。学んできたことや、経験を重んじるのか。
一つ言えることは、「見えないものを見る素養」をそれで測っているのだと思う。
目に見える単純作業ばかりが仕事では無い。
世の中には直観でどうにもならない世界がある。
例えば、3次元までは視覚的に作図された幾何学的図形で捉えられるが、4次元となると作図による直観的理解は難しい。
時間の流れが絶対的では無いという、にわかには信じがたい現実もこの世にはある。
モンティ・ホール問題に代表されるように、直観的には理解しがたい「確率」というものと向き合っていかねばならない世界もある。
この世界は人間が回している。
だから、「人間が直観的に理解できること」が全ての土台であることは間違いない。でも、人間の直観的理解ではなかなか対処できない世界も数多く存在する。
そして、往々にして高給職には、そのような素養が求められるものが多い。
ゆえに、稼げる職業は「イマイチ、何をやっているのかよく分からない」ものも少なく無いのである。
これまでいろんな仕事をしてきたけれど、稼げる仕事は、体力的には楽だけれど頭脳とメンタルにかなりの負荷がかかるものが多いと思う。
つまり、プレッシャーがかかる。
学歴は無くても良いし、学校や教師が苦手でも良いけれど、
- 数学
- 英語
- リベラルアーツとしての中軸となる世界史
の3つぐらいは、ほどほどにやっておいた方が良い。
世界観を構築する上での拠り所程度には、なる。
そして、何らかの宗教を持っておいた方が良い。ここで言う宗教とはいわゆる宗教では無くて、生きる上でのメンターとか、座右の銘とか、愛読書とか、信念体系とか、プリンシパルのようなものである。マインドセットだ。「金持ち父さん」「置かれた場所で咲きなさい」「大河の一滴」みたいな本でも良いし、お気に入りのインスタグラマーとかでも何でも良いけれど。心の支え、である。
(多くの人はこれを酒や結婚で補完する傾向にある。)
数学は「妄想力」を鍛える。直観的理解を超えた世界、概念の想像や操作といった営みを行う。直観的日常理解を超える。(哲学で代替しても良いかもしれないけれど、大方の場合、ただの偏屈になってしまうことが多い。数学にも言えるけれど。)
算数と数学は違う。計算は数学では無い。演算処理は数学の本質では無い。
もちろん、算数も必要であることを含意して「数学」と言ったけれど、ここで強調したいのは、「概念の世界」で仕事することである。情報空間の世界、情報処理の世界と言っても差し支えないかもしれない。
具体的で五感的に補足可能なものばかりを扱う仕事は、経験上、あまり稼げないように思う。
特に、
- 決定
- 証明
についての力は、稼ぐ人間の重要な資質である。
英語はもう、情報力に繋がる。
ほとんどの日本人には英語は必要ない。
だけれど、レベルが上がると必要になる。高い世界で生きようと思えば必要になる。以前、「英語ができないのに学問ができたことにはならない」という言にどこかで触れたことがあるが、言いたいことはわかる。実は、厳しい基準で言えば、情弱とは「英語ができない人」のことを指す。
また、人間はイメージと言語で思考しているから、英語ができるだけでボキャブラリーと言語論理体系が拡張される。概念と普段使いの論理パターンが変われば、それはそのまま思考・世界観の刷新に繋がるし、視点の多様化になる。また、日本語には、欧米から仕入れた概念について、夏目漱石・福沢諭吉あたりの時代の人間が当て字にした言葉などが数多く存在しているようなところがあるけれど、その時代から価値ある情報は大体英語圏発であることが多いし、また、英語の方が理解しやすい話もたくさんある。
そして、世界史。
ゲーデルの不完全性定理という有名な話に、
「ある矛盾の無い理論体系の中に、肯定も否定もできない証明不可能な命題が必ず存在する」「ある理論体系に矛盾が無いとしても、その理論体系は自分自身に矛盾が無いことをその理論体系の中で証明できない」という話がある。
例えば、日本で法学を学んでいたとする。
その世界にある概念や理論をいくら叩き込まれていたとしても、そもそも日本国憲法がマッカーサー草案を元にしていることだとか、欧米の世界戦略の歴史、日本と諸外国との国際関係史、人類史、突き詰めて生物史などがわかっていないと、あらゆる物事を頭に仕入れた時、それが外部との関係でどう位置付けされるかであったり、全体感が見えてこない。専門性を掘り下げたことで盲点ができまくり、サッパリ見えてこないことは多々ある。日本の制空権がアメリカに完全に支配されていることや、日本国憲法の上にさらなる上位の権力があることなどは、法学の世界観の中では解決できない。
(そもそも、日本の中でオギャッと生まれて、日本の中で育ってきた以上は「日本的なもの」を前提に呑み込まされ続けている。)
大学や大卒者の価値がインフレする以前。
大学が就職予備校と化する以前までには、学識・知識の類はおそらく、
「日常の直観理解だけでは如何にもならない世界を切り拓ける人材」
を期待されて、重宝されたのだと思う。
そして、専門学校などで教育を受けた人材は、技術者や何かしらの専門的ワークを期待して重宝されたスペシャリストであったと思う。
総合職、という言葉がある。
「大学」と「総合職」が本来意味するところ、目指しているところはどこか。
掲げている理想の人物像というのは、何か。
結局、どの文脈であろうと、優れた価値のある人材(高給がPayされる人間)というのはパターンが決まっている。以下の4つしかない。
- その組織・事業において、必要不可欠な外部との関係、外部との人間関係を築く人
- 難しい意思決定を行う・担う人材
- 資源を拠出してリスクを背負う人材
- その組織・事業において、必要不可欠な技術・作業を担う人材
大卒や総合職(幹部候補)というキャリアに本来求められていたのは、1と2であると思う。起業家はこれを全部やる。
だから、できる人間は大体、どこ行ってもできる。どこでも重宝される。
正直、ビジネスはオカルトである。
パイロットも、医者も、事業家。
これらは高給職であるが共通点がある。
「オバケ」を相手にしているのだ。
扱っているものにリスクがあり、起こった事象・現象に対して、頭の中にある概念図や経験と照らし合わせながら、最適な意思決定をしていかねばならない。
「はい、今から8時間、あそこにある土砂をあそこまで運んで下さい」
というような、直観的にわかりやすい作業としての仕事が世の中にはある。対して、ひたすら概念の操作を行いながら、現実に対処していく難しい仕事もある。
一般に、上流ホワイトカラーというのは、そういう役割を求められている。
大卒を高給として囲い込むのは、幹部候補生として獲得しようという試みである。
それと学閥やコネも丸ごと買われていると思う。
(もちろん、ある程度素直で、忍耐力があって、締め切りまでにやることやりきれて、勤怠が良い人材であろうという期待もあると思う)
「こうやって、こうやれば、お金を稼げます。」
「メイクマネーの技法はこんな感じです。」
そのように示されたとしても、過程においては判断が求められる。個々人の解釈が介入する。自身の個性も投影されると思う。だから、難しいことは色々とあると思う。
ただ、私は、「コピーライティング」の技術があれば、とりあえず、とっかかりを得ることができると思う。
次回以降、これについて話をしていく。
【時間】
お金を稼げるようになるためには、ステップがあると思う。
まず、レスポンスを取れるようになること。広告文を書いたり、テストマーケティングをしてみたり、実際に販売をすることで市場の反応を確かめてみること。
大企業を作り上げた人は、たまたま始めた小さな商売が、そのままトントン拍子で大きくなって行ったケースが少なくない。
テストマーケティングしてみたものが、大当たりした感じだ。
テストを続けていると、必ず勘所がわかってくる。
実際に市場からレスポンスが取れるようになる。
すると、ここからガラッと世界観が変わるだろう。特に、課金に成功した人は一気に世界が変わった感じがしてくるだろうと思う。実際に、市場でマネーを獲得することができたのだから。
そこで、次はさらなるステージに進む。
フロントを拡大したり、バックエンドを拡充させたり。
そして、その先で組織化や事業のマネジメント、オートメーション化、システム化について考え出すようになると思う。
最初の第一歩で成功するためには?
ここに求められるのは、「理科的素養」である。つまり、実験をすること。よく、youtuberが「●●やってみた」というが、まさにその精神である。いろんなことをやってみると良い。
うまくいくかどうか?
ということを考える人は、不幸になる。
実験するのである。
夏休みの自由研究ノリで、ぜひ、いろんなことにチャレンジしてみて欲しい。
人生にハッピーサプライズが欲しいのなら、実験するしかない。
【遊び】
コミュニケーション能力と、創造性は欠かせない。そしてこれらは、「遊び」によって鍛えられると思う。これは、友達とお喋りすることであったり、デートや恋愛をすることなどもカウントされる。
遊んでいると、思わぬ出会いがある。
例えば、私が最近知り合った女の子は笑いにかける情熱がスゴイ。
とにかく面白い。話すととにかく面白い。
突飛な発想。
会話のネタ。
切り口。
日常で経験していること。
それらのどれを取っても、最高に面白い。
「どうやったらつまんないを卒業できるか?」
「どうやったら面白い人間になれるか?」
というのは常に考えている。
でも、いつも行き着くのは、「外に出ることだな」と思う。外に出て、汗水をダラダラ垂らしながら、いろんなところに行く。自然に触れる。海を見る。知らない人と話す。景色を見る。遠方に友達を作って、実際に会いに行く。
残念なことに、歳を取ると体力が落ちてくる。
すると、フットワークの軽さが無くなってしまう。
どうにかして、腰が重くならないように・・・・・・と気をつけてはいるのだけれど。
なかなか難しい。
常々思うけれど、遊びというのは必死でやるものだなと思う。
必死で遊ぼうという意識を持って、実際に必死で遊ぶ。遊ぶのも結構疲れる。まさか、遊ぶという行為に相当なエネルギーが必要だとは思わなかった。
そして、結局、遊ぶというのは「誰かと」遊ぶことで、めちゃくちゃ楽しくなるということにも気付かされた。この「誰かと」の部分に、人を当てはめるためには、面白い人間を探す努力、面白い人間になる努力、面白い人間と会える時間が欠かせない。
「遊ぶ」
というのはヘラヘラしてできることではない。遊ぶのも、大変。
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"make you feel, make you think."
SGT&BD
(Saionji General Trading & Business Development)
説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-18、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。