妾 → 芸妓 → 夫人 

福沢諭吉 (岩波現代文庫)

 

彼の女性論も家庭内的存在としての議論にとどまり、女性が社会的に活動することは夢想だにしていません。女性の経済・法律の教育を重視するのは、社会的労働のためでなく、家産管理の能力育成を求めるものなのです。このように見れば、福沢の女性解放論は実は大資本を中心とした有産階級にのみ適用される、そのような性格のものであることに気づくのです。それは有産階級の良妻賢母論であり、大資本が大多数の民衆の犠牲を必須とせざるをえなかったように、その家庭における婦人の自立も「妾より成揚り芸妓より出世して立派に一家の夫人たる者もあり、すべてこれらは人間以外の醜物・・・なれども、其これを賤しむの意を外面に顕すは婦人の事に非ず。・・・・ひそかに其無教育破廉恥を憐むこそ慈悲の道なれ」という、差別と偽善の上に成り立つものとなります。「人類が道理の境に逸した」民衆と同じく、「人間以外の醜物」とされる妾、芸妓、娼婦は、良家の子女の偽善的自立を守るための手段とさえされます。福沢は、娼婦を酒や煙草と同じように男の本性上必要な存在だとし、さらには「人民の海外移植を奨励するに就て、特に娼婦外出の必要なる」を説くにいたっていたのです。ーp269

これが、かの有名な、福沢諭吉が娼婦の海外輸出に加担していたという話の詳細かぁ・・・って感じ。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず

はかなり有名だけれど、人間の平等を説いたものではなく、むしろ、勉学に励まない人間は劣って当然、不遇で当然、人間の域に達しないというようなある種の差別性を助長するようなニュアンスを感じられるものであるのは有名な話。これが、慶應義塾のテイストというか、匂いとして現代にも受け継がれている感じがするのは気のせいか?

まぁ、日本という国が生き残るための時代背景を考えても、仕方無かったといえば仕方無い。しかしながら、現在の社会構造を見ると、やはり家庭環境の格差が物凄く強く横たわっていて、家庭環境と子息の学業成績や社会的出世コースを歩めるかどうかにはガッツリ相関関係があるところ。彼が作った大学も、結局のところは権力の象徴となってしまっている。まぁ、いろいろ仕方無いことは多いのだけれどね。

 

現在の慶應は?

https://matome.naver.jp/odai/2138019578626289001?&page=1

 

現代の日本はどうなってるだろうか。

意外と、

  • 法律

などを駆使しながら、この社会を上手にハックしようとしているずる賢い女が溢れるようになって来たのかもしれない。それもそれでまた、「あー、まぁ、そうなりますか」って感じ。

まぁ、女に限らず、男も結局のところ、非力な階層に生まれてしまっては生きる道が限られて来てしまうし、エグい方向に行ってる人もいるっちゃいるから。

一昔前に流行っていた、ネットでの怪しい商材ブームとか、FXブームとかって、多分、販売者層にチンピラとかアングラとか夜上がりみたいなのがいてそれにレスポンスしてたのも元セックスワーカーで今旦那をうまく言いくるめて主婦に収まってますみたいなのがレスポンスしてたりしたのかもねってたまに思う。ホストの客が風俗嬢みたいな感じで。最近は怪しいセミナーとか行くと怪しい女がいるもんね。

 

「芸は売っても身は売らぬ」は、芸者の矜持を表わす言葉として知られていますが、明治以降の近代のような役割分担が確立するまでの古い時代には、芸者であっても水面下では売春行為を行うなど、線引きは曖昧でした。
しかし、吉原など公営の遊郭が機能していた時代には、遊女のほうが芸者よりも格が上で、芸者が色を売ることは遊女の仕事を奪うという重大な職域侵犯につながるので、トラブルも日常茶飯事だったと想像できます。

ーhttp://nana-iro.tokyo/column/theme01/column13

花魁(遊女)と芸妓(芸者の)違い。

公営の遊郭ができてからは、遊女の方が芸者よりも上だったとな。

 

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マイルドヤンキーでもなく、意識高い系でもなく、「ハードニート」@西園寺貴文(憧れはゴルゴ13)@僻地で生きる





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お仕事は、無職です。
「0」は無限だと信じたい。賽は投げられたのだから。


Lose Yourself , Change Yourself.
(我を忘れろ、クソな自尊心を手放せ、お前の全てを何かに捧げろ。そして己を変えろ。)





「遊び心」「粋」「真面目に不真面目」

(組織と他人に縛られるのが大嫌いな人)


"強くなくては生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。"

"世界は変えられなくても、人生ぐらいは変えられる。"

"悪貨が良貨を駆逐する中、悪貨に転じないことが「恥」や「損」であるならば、清濁併せ吞み、仮面を被った「良貨」であり続けるのみ。"

説明しよう!西園寺貴文とは、常識と大衆に反逆する「社会不適合者」である!平日の昼間っからスタバでゴロゴロするかと思えば、そのまま軽いノリでソー◯をお風呂代わりに利用。挙句の果てには気分で空港に向かい、当日券でそのままどこかへ飛んでしまうという自由を履き違えたピーターパンである!「働かざること山の如し」。彼がただのニートと違う点はたった1つだけ!そう。それは「圧倒的な書く力」である。ペンは剣よりも強し。ペンを握った男の「逆転」ヒップホッパー的反逆人生。そして「ここ」は、そんな西園寺貴文の生き方を後続の者たちへと伝承する、極めてアンダーグラウンドな世界である。 U-20、厳禁。低脳、厳禁。情弱、厳禁。